「JR栗東駅」近くの駐車場に止めてJRで「彦根駅」へ、そして「近江鉄道」に乗り換えた。丁度「彦根城開城400年祭」が開催されているので、電車も関連のヘッドマークを掲げていた。
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「高宮駅」に着き「本陣跡」まで戻り、10時ちょうどに今日のスタート。「中山道高宮宿 ふれあいの館」に寄ってみたが、今日も休館で入れず・・・残念!しかしあちこちで咲き乱れていた桜を見て大満足。上空は曇りで、黄砂で霞んでいた。季節は間違いなく「春」だ。
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歩き始めると、途中で獅子舞に出会った。どうやら今日はお祭りの様だ。
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太鼓を台車の上に乗せる準備もしていた。どうやら春祭りである「高宮太鼓祭」の様だ。折角なのでゆっくり見て行きたいが、今日は街道歩きに来たので後ろ髪を引かれる思いで先へと進んだ。
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少し歩くと信号のある交差点左側に大北地蔵があった。
お地蔵様は石造が一般的であるが、この大北地蔵はめずらしく木彫りに彩色されたものである。側には明治33年4月の記で「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、木之本の浄信寺にある眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身といわれている。しかし、その由来等についての古文書は残念ながら不明である。 |
180m歩くと「近江鉄道」の線路が横切っている。
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踏切を渡ると左手に多賀大社の常夜灯が建っていて、昔この付近にも「多賀大社」への道があったらしい。そして「無賃橋」にもあった「中山道 高宮宿」の木製看板が建っていた。「高宮宿」も、ここまでの様だ。
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踏切から600m程行った民家の塀の前に道標があった。「左 彦根道 すぐ 中山道」と書いてある様だ。ここから彦根に通じている道らしい。ちなみに「すぐ」とは、真っ直ぐの意味だ。
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そのすぐ先左手に「鳥籠山(ちょうろうざん) 唯稱寺(ゆいしょうじ)」があり、立派な山門を見ながら先へと進んだ。
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180m進むと石清水(いわしみず)神社が左手階段上に見えた。桜が咲き乱れた神社は絵になる。
祭神 第16代応神天皇とその母神功皇后(息長帯姫命)。石段を登った亀甲山の山腹に鎮座する石清水神社は、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社で、武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えない。祭神の神功皇后は、応神天皇を胎内に宿しながら三韓との戦いに出陣、肥前国(佐賀、長崎県)松浦で無事安産されたといういわれから安産祈願「鈴の緒」を拝受する人が多い。本殿の建築時代は不詳、拝殿は明治9年5月改築。大祭は春(4月)秋(10月)である。 |
そして階段中程の踊り場右手に扇塚があった。ここに寄ったのは、本殿を見るためではなく、実はこの塚を見るためなのだ。
能楽喜多流(北流)は、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受け、この地で発展した。9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち数年間彦根にいて多くの門人の育成と能楽の発展に力を尽くした。いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき門人たちの所望に応じて記念に「面と扇」をあたえた。その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を建てたのである。もともと一対だったとおもわれるが面塚の行方はわからない。 右側面 享和元年(1801)酉夏 喜多古能 左側面 豊かなる時にあふぎのしるしとてここにもきたの名を残しおく |
さて、神社の向かいを見ると、「『かどや』跡地と井戸の由来」と書かれた説明看板が建っていた。
石清水神社前に「かどや」という「お休み処」があった。およそ200年前に建てられ、用材は欅を「チョンノ」(鉋の一種)で削り、くぎは使われていない。内部は幾組もの客が休憩できるように多くの小部屋に分かれていた。井戸は岩を掘り下げて、井戸側はなく、岩の間からにじみ出た水で、文字どうり「岩清水」であった。ところで、この井戸を掘る時、その位置を決めるのに屋敷のあちこちに、幾つものお椀を伏せておき、露の付き具合の一番多いところが、水量も多く、水点も近いであろうと、西南の角に、決めたといわれている。江戸時代旅人たちが、この岩清水で沸かしたお茶でのどを潤し、一夜の宿で、旅の疲れを休めたところである。ちなみに、大正6年陸軍大演習のみぎり、大正天皇に献上されたお茶は、この水を沸かしたものといわれている。 説明看板の横にあったコンクリートで固められた井戸があったが、多分これがその井戸らしい。 |
またその近くには、「是より多賀みち」と書かれた道標があった。
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「石清水神社」のすぐ先に「旭森公園」というのがあり、フェンス沿いに中山道旧跡 床の山と書かれた石柱があった。その石柱の横には「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山 芭蕉」とあった。 この辺りに昔、「鳥籠駅」という宿駅があったらしい。しかし正確な場所は不明ということだ。
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そしてその前の「芹川」に架かる「大堀橋」を渡るが、橋の右手に「大堀山」が見える。この山がどうやら先程句碑に詠われていた「床の山(鳥籠山)」らしい(正確には分からないが・・・)。 ちなみに「鳥籠山」は、万葉集にも詠まれている有名な山とのことだ。また、先程「鳥籠山(ちょうろうざん) 唯稱寺(ゆいしょうじ)」があったが、この名もその関係だろう。
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橋を渡ってから少し行くと、右手に「金昆羅大権現是ヨリ十丁(?)」の道標。「慶應二年」とあったので、幕末ギリギリに建立されたものだ。
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そこからしばらく歩くと、左手にスーパーマーケットの「フレンドマート」を発見!時刻は11時07分だった。ここは滋賀県では有名な「平和堂」というスーパーの小型店で、なじみがある店だ。 トイレを借りて、カレーパンと缶コーヒーで一息ついた。この先、店らしい店はしばらく無いので、東下りされる方は、必ずここに寄られる事をお勧めする。(但し現在は少し規模が大きくなって、京都より約500mの場所に移転されたようです。)
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11時30分長い休憩を終えて再出発。すぐ先右手に常夜灯とたくさんの道標が並んで建てられていた。(写真は中山道を歩いて来た方向を振り返って撮影。) 写真右端には、説明の石柱が建てられていて、こうあった。
多賀大社東参詣近道のしるべとして多賀町中川原住人、野村善左衛門が発願。慶応三年二月野村善七が建立寄進した。 しかし、その説明にあるものがどの道標なのか、さっぱり分からない。いや待てよ、道標は後でアチコチから集められた様な感じだから、常夜灯の説明を書いてあるのかも知れない。 |
さて、140m程進むと街道の上を道路が2本横切っている。これは、名神高速道路から彦根インターチェンジへ繋がる道だ。 橋に付いている看板を見ると、「中仙道第二橋」と書いてあった。中山道(中仙道)の文字を見ると、何だか無性に嬉しくなった。
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その道路を潜ると左手に道標が二つ建っていた。一つは、「天寧寺 五百らかん 七里餘」、もう一つには、「はらみち」と表示されていた。 「天寧寺」は道標では七里と書いてあるが、実際はここより約1200m程の所にあり、多数の木造羅漢像があるらしい。そして「はらみち」と言うのはよく分からないが、この辺りが「原町」なのでそれに関係しているのだろうか?
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