03.草津宿〜守山宿

その1  草津宿〜守山市焔魔堂町


道は平坦だが、雨と車が・・・


2007.2.11.(日)  天気 : 小雨が降ったり、晴れたり

2月になった。東海道を歩き始めたのは去年の2月、丁度一年になる。中山道を歩いて来たが、今までは東海道と重複区間だったので、今日が本格的なスタートだ。私自身としては新しいルートを歩く訳だから、とてもワクワクする。
「JR草津駅」近くの駐車場に車を止め、草津駅の自由通路を通ってスタート地点へと向かった。2階部分となっている草津駅東口を出ると、歩道橋上に「街道ふれあい広場」がある。ここは小公園風になっていて「草津宿」を模した感じの広場だ。私達にとっては見慣れた風景だが、遠方から来られた人々には、旧宿場町に来たという実感を抱かせてくれるだろう。

駅から「草津宿本陣」までは中山道を西に向かって行ってもいいのだが、折角江戸に向かって歩くのだから駅前すぐの道を右折して歩く事にした。そして天井川の「草津川」沿いの土手を歩き、川越しに中山道を眺めてみた。昔は土手に上って水の少ない「草津川」を歩いて渡り、江戸へ向かった旅人達を思い浮かべながら写真を撮影した。

土手を下り、8時丁度に中山道と東海道の追分で記念撮影。そしてすぐ近くの「草津宿本陣」に行き、8時3分今日の旅をスタートさせた。
ところで「三条大橋」から「草津宿」までは、「東海道のんびり旅」で記述した部分だったので、ルート説明的な文章しか書いていなかった。しかしここからは、今まで歩いていない所なので、アチコチ寄り道した所を記述していこうと思っている。

さて出発して追分を直進(上の写真の左方向)、すぐ「草津川」下のトンネルを潜る。いきなり現代の中山道を歩く事になる。なお、トンネル手前左手には、「高札場」が再現されている。

トンネルの中は、近江の風景がイラストで幾つも描かれている。
潜った先は「草津中央商店街」のアーケードとなっている。写真を撮影していると、前方にリュックを担いだ夫婦が見えたが、あの人達も中山道を歩いているのか!?

トンネルを潜って200m歩いた所にある十字路を右手に曲がると左手に「覚善寺」があった。その十字路は明治に入ってからの新たな追分で、その明治の道標がここ「覚善寺」にあった。こんな所に道標があっても仕方が無いので、本来は十字路付近にあったのだろう。



2010年2月7日、一里塚跡発見。

2010年2月7日、「草津宿街道交流館」で行われた「くさつ・歴史発見塾」に参加した帰りに、交流館の方に聞き「一里塚跡」探しのため中山道を少し歩いてみた。
「覚善寺」付近の十字路を直進し、110m先で「JR 草津駅」へ行く広い通りに出る。「一里塚跡」は交差点を渡る右手にあるパチンコ屋さん付近にあったらしいので、注意しながら右側の横断歩道を渡ってみた。すると中央分離帯の様になっている所に小さく木の看板で「←中山道→」と「一里塚跡」と書かれた文字を見つけた。大路井(おちのい)の一里塚跡をやっと発見した。2007年に歩いた時は、覚えていないが信号が変わらない内に交差点を渡ろうとしたためか、見逃していた。



「JR 草津駅」へ行く広い通りを越え、510m程進むと小さな川を渡った。そして右手すぐに伊佐佐神社があった。

そのすぐ先でよく通る県道の高架下を潜った。この道を下から見上げるのは初めてだ。
ところで先程からの小雨で道は濡れて光っている。ヤレヤレ、この先雨が止んでくれるのだろうか・・・



2010年2月7日、小さなトンネルが大きくなった。

2010年2月7日、もう少し歩いてみた。中村畳店さんの手前を左に曲がる天井が超低いトンネルを見てみるためだ。しかし、いざ来てみると何やら新しくなっていた。この辺りは普段来る用事が無いので、変わっているとは知らなかった。スロープを下って行く自転車が何台も通ったが、スイスイとトンネル内に吸い込まれていた。

トンネル内に入って見ると、「天井が大変低くなっている」と注意の看板が建っているものの、立って歩いても全然余裕がある。写真に写っている自転車を押して歩いている人を見てもらえれば、状況が分かって頂けると思う。もう、現代の中山道の難所では無くなったのだ。(最も、2007年私はここを通らなかったのだが・・・)



この先街道は左に走るJRを横切っていたらしい。中村畳店手前で、左にJR下のとても低いトンネルを潜ってもいいのだが、そのまま直進した。畳屋さんから110mで広い道は右へとカーブしているが、そのまま直進。やがて民家横の側溝上を歩く事になる。

そして広い道と分かれてから320m先で突き当たり、左にJR下を潜るトンネルがあった。ここも相当低いトンネルで、「歩行者注意」の看板も立っている。8時40分、ケガをしない様に注意しながら潜り、線路左側の「県道2号線」へと出た。
トンネルを潜って右折して進むが、昔この付近に「和中散」という薬を売っていた店があり、よく賑わっていたらしいが、今それらしいものは何も見当たらなかった。

210m進むと「栗東市」の道路標識があった。栗東は競馬好きな方はよくご存じだと思うが、競走馬のトレーニングセンターがある所だ。(中山道からは遠く離れた所にあるが・・・)
この道は平坦だが少し狭い、その割には車がよく通るので注意して歩いた。そして870m程進んだ「栗東駅西口 交差点」で街道を右折し、街道を離れた。240m先には「JR栗東駅」がある。目的はそこでトイレを借りる事だ。

駅前に着くとトイレがあった。無ければJRでお借りしようと思っていたが助かった。駅前に着いたのは9時頃だったので歩き始めて一時間ほどしか経っていないが、寒空の中、小雨交じりの道を歩いて来たのでトイレに行きたくなったのだ。ついでに缶コーヒーを買い、身体を暖めながら小休止を取った。
10分程休憩し、再び街道へと戻った。すると溝の様な小さな川の中に、お地蔵さんらしき姿が幾つか固まっているのが見えた。元々あったのが水没したのか、わざわざ水の中に漬けてあるのかよく分からないが不思議な姿だ。

ところでこの付近は「綣」(へそ)という変わった地名だ。街道に戻ってから300m歩くと右手に大宝神社があり、その脇に大宝村大字綣元標が建っていた。
この元標は「大宝村大字綣元標」と刻まれることから、道路元標と云えますが、同時に大津市元標や栗太郡役所などからの里程をも示しており、里程標を兼ねたものだといえます。官公庁として大正15年(1926)に廃止された栗太郡役所、及び昭和29年(1954)に移転した草津警察署からの里程を示すのはもちろん、京都伏見の第十六師団指令部や、大津駐屯の歩兵第九連隊(大正14=1925年に伏見へ移転)といった陸軍官庁からの里程も明らかにしており、建立時の時代背景をよく示しています。・・・旧元標は設置されて80年余りの年月を経ているため、風化がひどく文字の判読が困難な状況であることと、交通事故により中程から半分に折れるなど破損が著しいので、平成12年(2000年)に創意と工夫の郷づくり事業により復元したものです。尚、旧元標は栗東歴史民俗博物館に保存されています。

「大宝神社」の入口には「芭蕉の句碑」と書かれた看板があったので、境内に入ってみた。句碑の横にあった「芭蕉句碑の由来」によると
この句碑は、栗田郡内唯一の芭蕉の句碑です。元禄三年(1690年)頃、関東、北陸方面に旅した帰りに、綣村の立場に足をとどめ、旅の余韻と惜春の情を託して詠まれた句と云われています。
「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」 はせを
句意は「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。種蒔きがおくれたのか寒かったのだろうか。もうまもなく春も暮れようとしているのに・・」というものです。芭蕉の句碑は、滋賀県内に九十三本を数えますが、この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて今後の研究課題の一つとされています。
と、あった。

神社を後にし360m進むと「守山市」の道路標識。あっと言う間に「栗東市」を過ぎてしまった。

しばらく歩くと左手に石柱があった。見てみると「古高俊太郎先生誕生地」とあった。誰なのかその時は分からなかったので、写真だけ撮影した。
後で調べてみると・・・古高俊太郎は幕末の勤皇の志士で、新撰組に捕縛の後、拷問された。そして御所を焼き天皇を長州へ連れ去る計画を自白。そこから池田屋事件へ・・・となったらしい。

そこから少し先の左手に十王寺があった。十王とは地獄で死者の裁きをする十の王で、その中でとりわけ知られているのが閻魔大王だ。なのでここの「十王堂」は別名「閻魔堂」と言われるらしい。そう言えばここの地名は字が違うが、「焔魔堂町」となっている。
ここは小野妹子の子孫である小野篁(おのの たかむら)が開いたらしく、門に向かって右側には「焔魔法皇小野篁御作」と書かれた石柱があった。


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