08.鳥居本宿〜番場宿

その1  鳥居本宿〜彦根市山中町


初めての山道へ・・・


2007.4.7.(土)  天気 : 曇り後雨

13時08分、10分程の休憩を終えて街道に戻る。するとすぐ左手に、合羽屋さんの看板が掛かった家があった。ここも昔、道中合羽を製造していたらしい。

少し歩くと道は右に90度曲がっていた。そしてその角に、今も和漢健胃薬の「赤玉神教丸」を売る有川薬局があった。中に入らせてもらうと、昔の看板が置かれていた。(写真 右下)
昔、「有栖川宮家」に出入りを許されていたので、名前を一部もらい「有川家」となったらしい。お土産に「神教丸」を買って帰ることとした。

外に出て建物に向かい右側に立派な門があり、明治天皇鳥居本御小休所の石柱が建っていた。建物の中から見た旧文部省の説明書きには、明治11年北陸東海道の行幸時に立ち寄られたとあった。

雨も止んでいることなので、少し寄り道をする事とした。「有川家」の前で街道を右に進んだ訳だが、逆に左の細い道に入る。(「有川家」写真の郵便ポスト方向)すぐにある「国道8号線」を横断した所の「上品寺」へ寄るためだ。
ここには法海坊舊跡の石柱と共に、明和6年4月4日の日付が刻まれた古い釣り鐘があった。「法海坊」が江戸で寄付を集めて造った鐘で、ここまで運んで来た物らしい。

すぐ街道に戻り先へと進んだ。幸い雨が止んだ様で、手に地図を持って歩いても濡れないので一安心。左に緩くカーブしながら少し進むと新しく植えられた松並木が見えた。「彦根八景 旅しぐれ中山道松並木」の看板があり、少し古くからあるらしき松も見えた。

すぐ先右手には、「豊郷町」から「彦根市」に入った所にあったのと同様のモニュメントがあった。「また おいでやす」と書いてあるが、歩いて来ることはもう無いだろう・・・

その先で「国道8号線」と合流。合流地点にパトカーが止まっていたが、車の運転手に対してのドッキリのつもりなのか!?
そして合流してのすぐ右手に、昭和の道標が寂しく建っていた。

川を渡ってすぐ先の右手の道を曲がった所に磨針峠望湖堂の案内石碑が見えた。字が違うが、私たちが通った事の無い初めての峠である「摺針峠」で、少し緊張する。(京都から滋賀の間は、前に東海道を歩いた時、経験済みなので・・・)これからいよいよ文字通り、中山道の山へと入って行く訳だ。

その前に再度資料の地図を確認すると、少しルートを外れた事に気が付いた。先程渡った橋の脇にあった戻るように続く道を進むのが、より旧道に沿ったルートだ。折角歩くのだからこだわって、その道まで戻ってみる事にした。
右端に見える茶色の橋の欄干部分が最初歩いてきた国道の歩道で、ここを鋭角的に右折。そして写真中央少し上にある赤いコーンを左に見ながら左折するのが資料通りのルートだ。
しかし写真右遠くに見える赤い橋は、先程あった「また おいでやす」のモニュメント近くにあったものだ。一応黄色のバリアーで車等が入れない様にしたあるが、歩く事は出来そうだった。こちらの方が本来の街道に近いルートなのかも知れないと思ったが、だいぶ戻らないといけないので、そのコースは止めた。

さて話はややこしくなったが、資料のコースを進んでみる。写真左方向から進んで来て、写真左端に見える赤いコーンの所で左へ曲がり、民家の横を進む。すると峠の石碑があった道に合流し、山の中へと入って行く事になる。

車一台分の細い舗装道路を、桜の木を左に見ながらどんどん上って行った。息が上がる・・・

少し上って行くと、右手に山の中に入る階段と頼りなさそうな手すりが見えた。私の苦手な蛇が出てきそうな階段だ。躊躇していると、妻が気にせずドンドンと上って行った。私も取り残されないように急いで後を追った。

やっと舗装された車道に合流!ホッと一安心。後で写真の記録されていた時間を見てみると、わずか2分間の事だった。しかし私にとっては、10分以上歩いた様に感じられた。

やがて道路は左へとカーブし、て坂が緩やかになっているのが分かった。右手には石段が見え、「神の宮」と書かれている様に見える「神明宮」に着いた。

一つ目の石段を登り、鳥居手前で右を見ると、明治天皇磨針峠御小休所の石柱があった。そしてそこにある建物は、残念ながら平成3年に焼失した望湖堂の跡に建てられたものだ。「望湖堂」は琵琶湖が見える峠の茶屋で、とても人気があった様だ。

そして石段近くには弘法大師御手植杉と書かれた石碑が建っていたが、残念ながらこの木も枯れたのか、根本だけしか残っていなかった。
摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残されています。
「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ斧を針とせし人もこそあれ」
その昔、また諸国を修行して歩いていた青年僧が、挫折しそうになって、この峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にするといいます。そのとき、ハッと悟った青年僧は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励み、後に、弘法大師になったと伝えられています。
その後、再びこの峠を訪れた大師は、摺針明神宮に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。
〔彦根観光協会様サイト参照〕

二つ目の階段を少し登って振り返ってみる。すると「歌川広重」の浮世絵に出てくる「鳥居本」場面とそっくりだ。残念ながら春霞で写真では琵琶湖が分からないが、鳥居の向こうに見える地面が切れている先がそうだ。変わっているのは「フジテック社」の白いノッポのエレベータ実験棟が見えるのと、おそらく当時より埋め立てられた地面が広がった部分だけだ。
江戸方面から峠を登って来た人達は、ここで初めて琵琶湖を見て、とても感動したことだろう。私達は京都から歩いて来たが、東から来られる現代の旅人も、おそらく同じ心境だろうと思った。

折角だから一番上まで登り、社を見に行った。下からの鳥居などに比べると思ったより小さな社殿!?がポツンとあった。『まー、こんな事はよくある話だ。家の近所にも同じ様な所があるから・・・』そう思いながら、階段まで戻り、そこに座って妻が家から持って来てくれた「おにぎり」を遠くに琵琶湖の景色を見ながら美味しく頬張った。14時13分、遅い昼食だ。

15分程の短い昼食を終え、先へと進む事にした。「神明宮」辺りから地名は彦根市中山町となっている。詳しく分からないが、摺針の集落と言うのだろうか山間の田舎の集落を進む。この付近には一里塚があったらしいが、それらしい痕跡は何も見当たらない。
「神明宮」から約550m進むと三叉路となっていた。一本道かと思いながら進んで来たら、同じ様な幅の道が左右に分かれていたので、立ち止まって地図を凝視した。こんな所で道を間違えると大変な事になるからだ。すぐに地図で街道は左折と分かったが、よく見ると新しい道標が建っていた。

焦ってしまって道標が目に入らなかったが、正面には「摺針峠 彦根」、左には「番場 醒井」と、チャンと書いてあった。ちなみに右側を見てみると、「中山 鳥居本」とあり、そのまま間違って進んで行くと、別ルートを通って逆へと戻る羽目になる所だった。
14時40分、これから先、幾つもの山道の別れ道を歩く事に不安になりながら、無事に三叉路を通過した。


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