10.醒井宿〜柏原宿

その1  醒井宿〜米原市一色


わがままな妻・・・


2007.4.8.(日)  天気 : 快晴後曇り

翌日の昼過ぎ、なぜか「JR醒ヶ井駅」の前にいる私達???。実は妻であるせっかちteruさんの、いつものわがままが始まったのだ。
不定休の妻がこの日もめずらしく休みとなっていて、昨日の雨で歩いたくやしさの挽回と、桜で綺麗な「醒井宿」の景色を天気のいい状態で見たいため、急遽出掛けてきたのである。

13時12分、駅前を出発し、南方向に進み真っ先に「地蔵川」へと向かった。「梅花藻」を見に行くためだ。写真ではわかりにくいが、川の中に梅の花に似た小さな「梅花藻」の花が沢山咲いていた。

そのまま南側の「中山道」に進み、昨日歩いたコースをダブって歩いた。そして「西行水」や「十王水」を横目で見つつ、昨日閉まっていた醒井宿問屋場(旧川口家住宅)に寄ってみた。中は広い板の間があり、奥に畳の間が見える。そして土間には小さなカマドも設置されていた。
この建物は中山道醒井宿で問屋を営んでいた川口家住宅です。問屋とは、宿場を通行する大名や役人に人足・馬を提供する事務を行っていたところです。現在、宿場に問屋が残されているところはほとんどありません。また、建築年代が十七世紀中〜後半と推定される貴重な建物です。
平成十二年より修理をおこない、再び江戸時代の宿場の問屋として公開されることになりました。

13時54分、近くの「本陣跡」に行き、これから恒例となる本陣前の記念撮影を行った。さて、ここから今日の本格的なスタートだ。

「本陣跡」から100m程進んだ右手にお堂があった。延命地蔵尊である。
弘仁8年(西暦817年)百日を越える旱魃(かんばつ)が続き、野も山も草木は枯れ、川や湖は干上がりました。御心配になった嵯峨天皇の命により、伝教大師(最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨をお祈りになりますと、薬師如来が夢の中に現れ、「ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」とお告げになりました。伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里へ来られますと、白髪の老翁が忽然と現れ「わたしはこの水の守護神である。ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ、そうすれは雨が降り草木も生き返るであろう。」と言い終ると水の中へ消えてゆきました。大師は早速石工を集め、一丈二尺(3.6m)の地蔵菩薩の座像を刻み、祈念されますと、黒い雲がみるみるとあらわれ、大雨が三日間降り続きました。この雨で、緑は甦り、生気を取り戻した人々は、地蔵菩薩の深いお慈悲と、伝教大師の比類なき知恵と徳行に、尊信の念をいっそう深くしたということです。
本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていましたので俗に「尻冷し地蔵」と唱えられていましたが、慶長13年9月濃州大垣の城主石川日向守が霊験を感謝し、佛恩に報いるため砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立したと伝えられています。

その横には小さな池の様になっている居醒の清水があった。「地蔵川」の源流であるが、「十王水」や「西行水」に比べると断然水の量が違う。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が「伊吹山で荒神退治をした時、高熱を発し、この泉で体を冷やした。」とか「伊吹山で大蛇を倒した時、その毒に依る熱をここで冷やした。」ともいわれているらしい。いずれにしても「古事記」・「日本書紀」に記述があり、そこから「居醒の清水」と名付けられた様だ。

鳥居を潜り小さな橋を渡ると、奥まった所に右手を大きく挙げた日本武尊の像が建っていた。

ここ「居醒の清水」には、名札を掲げられた石が三つある。まず写真右が鞍懸石(くらかけいし)、そして写真左が腰懸石(こしかけいし)である。
鞍懸石・・・日本武尊が乗馬の鞍を置いたというので、この呼び名がでたようです。
腰懸石・・・日本武尊が伊吹征伐で熱病にかかりこの石に腰をかけて体を冷したことからこの名がつけられました。

さらに清水に向かって左端にあるのが、蟹石だ。
蟹石・・・美濃国本巣郡に奇異な霊水が湧出すといううわさが、時の雄略天皇の耳に入り、実否をたしかめるために、濃州に派遣された勅使が泉をみると三尺余りの蟹がはい出てきました。「これは珍しい。」と持ち来たり水をのまそうと放つとたちまち石になってしまいました。こうして蟹石と、呼ぶようになりました。

また近くには、鮫島中将の歌碑というのがあった。
明治28年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参謀は、かつて醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、一枚の紙に『あらばいま 捧げまほしく 醒井の うまし真清水 ひとしずくだに』と詠んで親王にお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。鮫島中将の直筆の、歌碑ですy。


横には「加茂神社」の鳥居と石段があり、桜が満開でとても綺麗だ。

石段を上ってみると、先程の「居醒の清水」と「醒井宿」が見え、桜がより一層綺麗だ。しばらくジーっと景色を見入ってしまった。
この神社のすぐ裏手は少し上を「名神高速道路」が通っている。ここを年に数回通るが、防音壁の下がまさかこんな場所だったとは、今まで全然気づかなかった。

さて元来た石段を下り、宿内を270m程歩く。すると止まれの標識があり、街道はここを右折する。
その角には、「中山道 醒井宿」と書いた石碑と「中山道分間延絵図」醒井宿部分を写した石碑が並んで建っていた。

そしてすぐ左に曲がっている。ここは「醒井宿」の見附跡、枡形だ。
醒井宿の東西には、見附(番所)が設けられ、東の見附から西の見附まで八町二間(876m)が醒井宿であった。東の見附のすぐ西は、道が直角に右に曲り、少し行くと左に直角に曲がる、枡形になってる。枡形は、城郭や城下町にあり、城では、一の門と二の門との間に設けられ、敵の進む勢いを鈍られたという。

曲がると右上の「名神高速道路」沿いの街道となる。江戸時代の重要な街道と、現代の大動脈が平行しているのは面白い。
さて、すぐ右手に木の標識と説明看板が見えた。鶯ヶ端跡と書かれている。
ここからは、特に西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息したという。平安時代の歌人で、中古三十六歌仙の一人、能因法師も『旅やどり ゆめ醒井の かたほとり 初音もたかし 鶯ヶ端』と詠んでいる。

東から来た人達は、京の都が近い事をここで感じたのだろうと思い、振り返ってみたが、手前の琵琶湖も見えない。しかし、京の空が見えたと感じていたのであろう。

「醒井宿」を後にして、「一色」という地区に入る。左側には「国道21号線」と「JR東海道線」の線路が見える。しばらく歩くと右手に新しい中山道 一里塚の跡と書かれた石碑があった。「一色の一里塚」だ。説明看板には、「榎三本づつ植わっていた。」とあるので、他の一里塚と少し変わっていた様だ。

「一色」地区をしばらく歩くと、やがて左側に通っている「国道21号線」に合流した。東から歩かれる方は、写真のパチンコ屋を目印にされるといいだろう。

さて、そのまま国道右側の歩道を歩くと、すぐに大きなサイコロ状の石が三つつまているのを発見した。何かな?と思い通り過ぎて見てみると、「左 中山道」と書かれている。余りにも大きすぎるから、国道と間違い走る車も旧道に入って来そうだ。(写真は振り返って撮ったものです。)

国道を450m程歩く。そして国道左側にあるラブホテル「LISBON」とその看板の間へと進んだ。この道が「旧中山道」なのだ。


上に戻る