×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

11.柏原宿〜今須宿


突然SLからスタート


2007.4.28.(土)  天気 : 晴れのち曇り一時雨

自宅を8時15分に出発し、「JR栗東駅」を9時16分に発車。「JR米原駅」に10時02分到着すると何やら騒がしい。するとSLが入線!私が長年住んでいた所は近鉄電車しか走っていなかったので、SLが線路上を走っているのはほとんど見たことがない。
大きな汽笛に少しビックリしながら、何枚か写真を撮影した。少し得した気分だ。

米原駅を10時14分に出発。2分前に発車した北陸線を行くSLに追いつき、少し併走しながら「JR柏原駅」へと向かった。
駅到着後、艾(もぐさ)屋の「伊吹堂」辺りまで戻り、今日の旅を始めた。「本陣跡」にて二人で記念撮影をし、10時52分ここから本格的にスタートだ。

と思ったら急に雷雨となり、今来た「柏原駅」へ雨宿りに行った。通り雨だったので15分後に歩きを再開できた。駅からの街道に戻り、250m程進むと左手に、「寺院跡 竜宝院遺跡」の石柱が目に入ってきた。一角に小さなお堂も建っていたが説明書きも無く、どう言う遺跡か分からなかった。

すぐ先で建物が途切れ、線路越しに霞が掛かったようなぼやけた「伊吹山」が見えた。妻はこの山が大好きで、テンションが上がった。

しばらく歩くと左手に小さなお堂。中を覗くとお地蔵さんが二体、右側の小さな方が照手姫笠地蔵だ。説明書きが3つあったが、一番簡単に書いてあった「米原市・米原観光協会」の看板に依ると、
中世の仏教逸話「小栗判官・照手姫」と深い関係があります。常陸の国の城主・小栗判官助重(すけしげ)が毒を飲まされ危篤になったとき、照手姫が地蔵に笠をかぶせて平癒を祈願し、そのかいあって小栗が平癒したといわれています。もとは、野瀬山(ここより北東約1km)の麓の昔の街道脇にあったものです。
そう言えば東海道を歩いた時、藤沢の遊行寺に両者の墓があった。違うストーリーではあるが、ここ柏原にもあるのが驚きだ。しかしここは近江の国、場所的にだいぶ離れているので、ちょっとムリがあるような気がするのだが・・・

少し行くと、東から訪れるウォーカーのために、新しい石碑が建てられていた。

その先でJRの「野瀬踏切」を渡る。「中山道」は右へ進むのだが、逆に左へと寄り道した。

すぐ右に90度カーブして進むと、右の山手に説明看板。お目当ての白清水(しらしょうず)があった。
小さな泉で、古くより白清水または玉の井と呼ばれています。『古事記』に、倭建命(やまとたけるのみこと)が伊吹山の神に悩まされ、この泉で正気づいたとあり、また、中世仏教説話『小栗判官照手姫』に、姫の白粉(おしろい)で清水が白く濁ったことから白清水というようになったとあります。
水は少しあったが、清水と言うより雨でできた水たまりのような感じだった。
私が写真を撮っている間、妻は興味が無いらしく、山に生えている木をしげしげと眺めていた。

さて来た道を戻り、先程の踏切から先へと進む。100m程行くと左手に小さな看板と獣道のような細い山道が見える。看板には旧東山道と書かれていた。「中山道」の前身となる道だ。

その右横に「神明神社」の鳥居があった。先程の「照手姫笠地蔵」は、元々この付近にあったようだ。

この付近から楓並木が続いている。秋に来ればとても綺麗だろうが、この季節でも新緑がなかなか綺麗である。

しばらく歩くと「長久寺」の集落が見えてきた。そしてその外れ辺りまで来ると、寝物語の里の石碑があった。その後ろには、「妙光寺」なる石柱もあった。そしてその手前にある「寝物語の由来」と書かれた石板の説明にはこうあった。
近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常磐御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。

ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の
                     寝物語も しのぶばかりに    太田道灌


その向かいには溝があり、ここが近江の国と美濃の国の境となっていた場所だ。そして現在もそのまま滋賀県と岐阜県の県境となっている。
両県に「寝物語」の標柱があり、滋賀県側には「初代標柱基礎石」なるものもそのまま設置されていた。一つでいい物を二つも・・・やはりこれも縦割り行政の賜だ。
とにかく我々もこれで岐阜県へと突入した事になる。

そして先程の石碑の岐阜県側には芭蕉の句碑が設置されていた。
正月も  美濃と近江や  閏月
と書かれており、横の説明にはこうあった。
貞享元年十二月野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田よりの帰路二十三日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟

岐阜県に入って気持ちも新たに歩き始めた。210m程進んだ所で「JR東海道線」の踏切を渡った。

そのすぐ先の「国道21号線」今須信号も渡る。この付近は少し上り坂になっている。

右手の法面に奮跡 車返の石柱があった。
車返しの坂
南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。不破関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。その御人は公家の二条良基という人。ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったのです。

そしてその少し上には車返し地蔵尊がひっそりと祀られていた。
宿場はこの辺りからなのだろうか、「地蔵尊」を過ぎると両側に家が建ち並びだした。

宿場内に入り、立派な常夜灯を見ながら進む。すると民家の中に塀で囲まれた常夜灯があり、ここには説明看板が建っていた。
街道が賑わっていた江戸期は、文化五年(1808)のことです。京都の問屋河地屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、それを紛失し途方に暮れてしまいました。そこで金比羅様に願をかけ、一心にお祈りをしました。幸いに荷物は出てきて、そのお礼にと建立したのがこの常夜灯です。

少し行くと駐在所向かい街道左手に、一部二階の屋根が二重になった建物が見えた。問屋場だった。
江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時七軒もあって全国的にも珍しいことでした。美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。

少し進むと右手駐車場前に、今須宿の本陣と脇本陣の説明看板があったが、おそらくこの近くにある今須小学校の児童たちが書いたものであろう。
中山道 今須宿 本陣跡
本陣は一つあり学校の駐車場と改善センターの東どなりにありました。本陣には身分のたかい人がとまり二百十五つぼありました。昔からさいている紅梅という花がいつまでも今須小中学校の門の前にのこっています。

中山道 今須宿 脇本陣跡
今須宿は他の宿とちがって、脇本陣が二つありました。脇本陣があった場所は、農協の辺りと、改善センターの辺りにありました。脇本陣とは、本陣にお客さんがいっぱいになった時の予備の宿のようなもので、身分の高い人がとまりました、

そしてその「今須小学校・中学校」が街道右奥にあり、近くには「今須宿」の石柱が建っていた。
時刻はお昼を回って、12時44分になっていた。


上に戻る