|  | すぐ先の右手には、「柏原宿」の看板。しかし地図を見ると、ここから「JR柏原駅」までは、まだまだ1km以上ある。 | 
|  | そして横はポケットパークとなっていて、石に「中山道分間延絵図」が埋め込まれた石碑があった。また、桜も植えられていて、その横には昔からある松並木のなごりがあった。 | 
|  | その先にも桜が植えられているが、簡単な木の看板があった。柏原宿西見付(右下写真)だ。 | 
|  | 230m程行くと、街道右手の小さな川が左へと横切る橋があり、そのたもとに「柏原一里塚跡」と書かれた石碑。ここにあったのかと思いながらもう一度碑をよく見ると、右下に矢印が付いている。その方向を見てみると、こんもりと土が盛られているのが見えた。 | 
|  | すると、できたてのホヤホヤの様な復元された柏原一里塚と説明看板があった。 それによると、ここは日本橋から数えて115番目の塚で、北塚は先程の橋手前の中井町集会所にあって、南塚は復元塚より少し東の河川工事が行われた川の中にあったらしい。 | 
|  | 街道はすぐ次の橋を渡る。すると本格的に宿場町らしい景色となってきた。右手に古い家が見え、例のごとく案内看板、郷宿(ごうやど)跡とある。 柏原宿で現存する一軒の貴重な加藤家。郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきた。 | 
|  | その先十字路左側には今は空き地となっている、柏原御茶屋御殿跡があった。 江戸時代の初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休憩の目的で、街道の各所に設けられた館で、近江では、柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿を合わせて「近江三御殿」と称されてきた。天正16年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。以後、中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和9年(1623)、二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後御殿番を置いて守備してきた。その後、徳川幕府の勢力増大につれ将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。家康の頃から約百年、殿舎建築から65年の歳月が流れた。この間、記録にあるものだけで合わせて14回使用されている。 | 
|  | 60m先右手に道標、「明星山薬師寺」への道標だ。説明看板には享保2年(1717年)と書かれている、つまり300年近く建っているわけだ。 このタイプの道標は幾つも見てきたが、車がぶつかって折れたのをセメントでくっつけたり、鉄の枠をはめられたりが多い。ここは綺麗な形で残っている。田舎なので車が少ないためだと思うが、このままいつまでも残っていてほしい。 | 
|  | その先には見るからにボロボロの建物があった。柏原銀行跡である。 明治中頃山根氏によって開業。長岡及び岐阜県今須村(関ヶ原町)に支店を出す。昭和の初期廃業、現滋賀銀行の先駆となる。 | 
|  | その先、重機が入っている場所に柏原宿荷蔵跡があった。 宿場業務の重要な公用荷物引継のための荷蔵(一時保管用)があった場所。東西に一棟づつ建っていた。 | 
|  | 大黒柱をちょん切ったような、「中山道 柏原宿」の大きな標柱が道ばたに。道幅がそんなに広くなく、車の通りも少ないのよく目立つ。 | 
|  | 左手に屋根が二重三重のなった柏原宿歴史館が見えた。300円を支払い、早速中に入らせてもらった。 | 
|  | 中には沢山の福助人形が飾ってあった。この先のもぐさ屋さんに大きな福助人形があるらしいので、その関係で置いてあるようだ。 | 
|  | 歴史館を後にした。すると近くに「近江美濃両国境寝物語」と書いた標柱が立て掛けてあった。次の「今須宿」に有るべきものが、どうしてここに? | 
|  | さて右手すぐの所に、伊吹堂さんが見えてきた。ここ「柏原宿」は、近くの「伊吹山」で採れる蓬(よもぎ)から作る艾(もぐさ)が有名で、多い時には10軒もあったらしいが、現在はこの1軒だけになっている。 店内には大きな福助人形があるらしいが、残念ながらお休みのため、中が見られなかった。福助は諸説あるらしいが、昔この店の番頭で、その方をモチーフとして作られたものらしい。 | 
|  | そしてその向かいには、造り酒屋跡があった。 宿場内に四軒、米150石が割当てられていた。現在一軒もない。この家もその内の一軒である。 | 
|  | すぐ先の市場川を渡ると左手に「常夜灯」。そして脇には文字が消えかかった高札場跡の説明看板があった。 | 
|  | 17時10分、そしてその先にあった柏原宿本陣跡に到着した。先程と同じく、説明看板は文字が薄く読めない。しかしその下に分かり易く「本陣 年寄 南部辰右衛門 (明治天皇行在所)と書かれた看板があった。 | 
|  | 同じく左手に問屋場跡が続く。高札場風の看板には、「柏原宿」の説明や復元図が掲げられており、「問屋役年寄 吉村逸平」の文字も見える。その下には、ここの子孫であろう「映画監督 吉村公三郎の実家」という看板もあった。 | 
|  | 郵便局を過ぎると柏原宿脇本陣跡の看板。 17時14分今日の旅はここで終わりとし、170m程先の左奥にある「JR柏原駅」へと向かった。今日は半日だけだったが昨日と違いそこそこ天気が良く、いい旅が出来た。 | 
▲上に戻る