「番場宿」から電車で帰るには、「米原駅」までかなりある(約3km)。雨の中、ここは頑張って「醒井宿」まで歩くしかない。 少し歩くと右手に「アイリスオーヤマ」の建物が見えた。ここは「北陸自動車道」から「名神高速道路」に入るとき、いつも見える建物だ。車で旅行やドライブに行ったとき、これを見ると家に近づいてきたと感じる、私にとっては現代の「一里塚」の様なものだ。考えて見れば、ここから「北陸自動車道」が別れているので、これも現代の「追分」と言える。
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さてさて、歩を進めよう。少し進むと歴史を感じさせる桜の木が花を咲かせていた。街道の曲がり具合と言い、田園風景と言い、晴れていればどんなに風情があるか・・・
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家の建ち並ぶ間を抜けると、右手に小公園の様になっている久禮一里塚の跡があった。説明看板には、京三条から約19里と書いてあった。私達はスタートして、75km程歩いてきたのだ。
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「一里塚」横の「止まれ」の道路標識を左折、「名神」から分岐したばかりの「北陸自動車道」の下を潜った。
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ここで私達は道を間違えた!資料の地図はガードを潜って真っ直ぐになっていたのでそのまま進みかけたが、どうも変だ。左に見えるお寺が、右の方に見えた。別の地図を見ると右折するようになっていた。慌てて戻ってみると、右角の「中部北陸自然歩道」の標識が。私達は桜の見える方にと進んでみた。
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少し進むと、あったあった。地図に載ってる「教永寺」が街道の左手に見えた。私は胸をホッとなで下ろした。夕闇迫る雨の中、こんな所で迷っていられない。
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そのまま進むと「国道21号線」の「樋口交差点」に出た。ここで右折。
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そしてすぐ左の旧道へと進んだ。 今朝家を出る前に雨が降る言ったのに、妻は雨具を持たずに来た。そのためウインドウブレーカーの風防を被って歩いている。雨に濡れて、まるでネズミ男の様だ。写真左端に写っているのが、その妻の後ろ姿だ。
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少し歩くと右手に「憩」と書かれた看板が目に付いた。近づいて見ると「茶屋道館」と表札が掛かっていた。どうやら街道歩きの人達の休憩場所らしい。
この家屋は一見平屋つくりのように見えるが二階建てになっている。その理由として考えられることは明治以降生活の洋風化の中で従来のかや葺きの屋根をこわし瓦葺きに変えた際、旧来の柱組みを利用したため低い二階造りとなったと思われる。裏側には土蔵が二棟ある。当時は財産として米、骨董品、諸道具などを保管する金庫のような考え方であったものが二棟も現存するのは近隣では例が少なく、この家の主はかなり財産家であったことが伺える。この家屋は永らく空き家になっていたものを当自治会が買いとり、この地の小字名「茶屋道」をとって「茶屋道館」と名付け歴史的資料を集めると共に中山道醒ヶ井宿と番場宿の中間に位置することから中山道散策者の一時の「憩」と「いっぷく場」として利用されることを期し中山道四百周年事業を記念して開館した。 残念ながらカギが掛かっていて中には入れないようになっていた。しかし、外に長椅子が設置されているので、休憩には利用できそうだ。(私達は先を急ぐのに、そのまま立ち去ったが・・・) |
旧道に入ってから約1050m歩くと、再び「国道」に合流。ここからは、雨に加えて車を避ける事に気を遣いながら歩かなくてはならない。
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250m進むと「丹生川」を渡る。ここは右側に歩道専用の橋があったので、短いが車を気にせず渡れた。
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そのまま道路の右側を歩いて行くと、反対の左側に墓の様な石碑が見えた。「一類孤魂等衆」と書かれた石碑だ。
江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うございました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類孤魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。 |
石碑を過ぎるとすぐ右に入る旧道が見え、車との戦いが終わった。
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旧道に入り、少し歩くと左手に六軒茶屋跡の木柱があった。軽トラがもう少し前に止まっていたら、気が付かずに通り過ぎる所だった。
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その少し先には、唯一現存する六軒茶屋の一つが建っていた。今でも残っているとは・・・涙が出るほど嬉しくなる。
幕府の天領(直轄地)であった醒井宿は、享保9年(1724年)大和郡山藩の飛地領となった。藩主・柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。この「六軒茶屋」は、中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。 |
昭和2年に建てられた、「近江西国第十三番霊場 松尾寺 従是南2町」の石柱を右手に見ながら進むと、「中山道醒井宿」と刻まれた石柱が目に入って来た。もう今日のゴールが近い。
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その先右側に「泡子塚 西行水」と書いた看板が目に入った。そこは小公園になっており、水が湧き出ていて、小さな池の様になっていた。ここが西行水だ。
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岩の上には、泡子塚の五輪塔があった。
岩の上には、仁安三戌子年秋建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、『水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん』と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。今もこの辺の小字名を児醒井といいます。 武佐宿の先、「西福寺」にあった「泡子地蔵」と話しがよく似ている。おそらく元は同じ話しだったのだろう。 |
少し先で、「地蔵川」に架かる「醒井大橋」(橋は小さいが・・・)を渡る。水源が湧き水なので、とても綺麗な水だ。また桜も満開で、晴れていればどんなに綺麗だったろうか・・・
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橋を渡ったすぐ右には、十王水の湧き水が、建物の間から流れてきていた。また、川への合流場所には「十王」と書かれた石灯籠が水中に建てられていた。
平安中期の天台宗の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられる。もとより浄蔵水と称すべきところを、近くに十王堂があったことから、「十王水」と呼ばれるようになったという。 |
ちょっと先の左手に、「天然記念物 了徳寺の御葉附銀杏」なる石柱を発見。この奥にある「了徳寺」の銀杏の木には、葉の上に銀杏がなるらしい。機会があれば、また秋に来てみよう。
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その先には本陣跡か?と見間違う様な立派な門があり、明治天皇御駐輦所の石柱があった。
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もう少し先には、明治創業の「ヤマキ醤油」のお店があった。
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地蔵川を挟んで斜め向かいに、醒井宿問屋場(旧川口家住宅)があったが、もう午後5時半を回っているので、戸は閉ざされていた。
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そしてそのすぐ隣には、本陣跡である割烹の「樋口山」があった。 17時38分今日のゴール地点にやっと到着だ。そして雨に濡れた悪条件の旅が終わり、急いで「JR醒ヶ井駅」へと向かった。
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