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04.守山宿〜武佐宿

その1  守山宿〜野洲市小篠原


道標と酒屋が次々と・・・


2007.2.11.(日)  天気 : 小雨が降ったり、晴れたり

「守山宿」は京立ち守山泊まりと言われ、東下りの最初の宿場として利用されていた所だ。
「甲屋之址」のすぐ先左手に「天満宮」があったが、ここは天徳3年(959年)の創建と古いらしい。そして鳥居横に「稲妻型屋敷割りの道」と書かれた説明看板があった。道がギザギザと稲妻状になっているらしいが、問屋、庄屋、本陣、市屋敷などを管理するためや、怪しい人物が隠れていても容易に発見できるためらしい。しかし見た目は、そんなに見えなかった。

その向かい辺りに「小島薬店」という薬屋さんがあるが、ここは元御殿医だったらしい。店先を覗くと「京都まくり」と書かれた虫下しの金色看板と共に古い薬箱らしき物が店先に展示されていた。

その3軒程先には「宇野本家」という酒屋さんがあったが、ここは元総理大臣の故・宇野宗佑氏の家だ。私の記憶によると、女性問題が大きく報道され、数十日で退陣した総理だ。その頃は、まだ三重県に住んでいたので、まさか家の前を通る事になるとは思っていなかった。

さて、そのまた少し先のT字路の所には、「すぐいしべ道」「高野郷新善光寺道」と彫られた道標が建っていた。旧東海道を歩いた時に覚えたので、「すぐ」の意味は真っ直ぐという意味だと理解出来た。そして「新善光寺」は信州の「善光寺如来」の分身があり、信州まで行けない人々が多く訪れたらしい。

270m程宿場を歩く。すると今度は右手に新しい「帆柱観世音 慈眼寺」の道標があった。伝教大師が建立されたお寺らしいが、唐から船帰る途中に現れた観音に依り遭難を免れたためにここに「帆柱観世音」を祀ったらしい。しかし陸地の真ん中に「帆柱」とはとても面白い。

70m行くと右斜めへと続く「石部道(伊勢道)」の追分に着いた。ここには「高札場」があったらしい。ここから先は「吉身(よしみ)」と言う。
鎌倉時代に、大津・勢多・野路に次いで守山が重要な駅路(宿駅)となり、江戸時代に江戸の日本橋から数えて六十七番目の宿場に指定されたとき、「吉身」はその西の「今宿」とともに守山本宿の「加宿」として宿場の役割を分担した。本宿と加宿の境には川が流されてその標とした。流れるこの川を「伊勢戸川(伊勢殿川)」という。川の水は旅人の飲料水としても重宝がられ、宿場の防火用水としての役目も果たしてきた。

また70m歩いた「吉身小学校南 交差点」を渡って右手を見るとベンチが置かれた休憩出来るスペースがあった。「益須(やす)寺跡」の説明書きがあり、ここから東約100m付近にあったと書かれていた。そしてここが「吉身」の東端で、昭和30年代までは松並木があったらしい。

さて、ここから720m歩くと野洲川へと出た。もうここは野洲市だ。空を見るといつの間にか鉛色の雲がどんどん押し寄せていて、長い「野洲川橋」を渡り始めると冷たくて強い風が私達二人を凍え上がらせた。しかし右手を見ると「JR」の鉄橋越しに、近江富士と言われる「三上山」が見えた。妻の「せっかちteru」はいつも「三上山」を見ると歓声を上げて喜ぶが、寒さが苦手な私は半分無視をして橋を渡る事に専念した。

橋を渡ってそのまま真っ直ぐ進む。すぐ左手に「十輪院」があったが、赤いよだれかけを着けたお地蔵さん達が沢山並べられていた。

そのすぐそばには芭蕉句碑があった。「野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす」と書いてあるらしい。説明書きが書いてあった。
野洲晒は、麻布を白くさらす「布晒」を専門に行っていた。その一工程に、川の中にすえた臼に布を入れ、杵でつく作業がある。冬の冷たい川に入って布をつくのは、晒の仕事のなかで最も重労働であり、その苦労がそのばれる。

すぐ先で「JR 東海道線」の下を潜り120m程行くと、左手に造り酒屋があった。「宇野勝酒造」と書いてある。ここも宇野さんだ。

670m歩くと少し広い交差点に出た。右を見てみると「近江富士」がとても近くに見えた。ここから見ると富士山らしい形だ。

そしてふと道路左側に目をやると、高さが違うお地蔵さんが2体並んでいるのが見えた。建物に背競地蔵尊と書いてあった。横に説明書きがあった。
鎌倉時代のもので、東山道(のちの中山道)を旅行く人の道中を守った地蔵である。また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背くらべさせるようになり、いつしか背くらべ地蔵と呼ばれるようになった。毎年七月二四日は、農機具、陶器、電気器具などで作った作り物が展示する地蔵まつりが開催される。

先へと進むと、街道右側に水路が流れていた。田んぼへ水を引くためであるのだろうか、水路の上に小さな水路があり、水の立体交差が見られた。こんなのは初めて見た。

少し先で左手に「野洲小学校」右手に「野洲病院」に挟まれた五差路に出た。その左手はポケットパークとなっていて「中山道・外和木(そとわき)の標(しるべ)」と書かれた説明看板があった。
中山道は、東海道に対し東山道、あるいは中仙道と呼ばれた時期がありましたが、その歴史は古く、大化の改新以前から存在する重要な道であったことを示す文献が残されています。ところが、新しい道路に役目を取って代られ、中山道が千数百年もの長期にわたって果たしてきた大切な役割を知る人は年々少なくなっています。この案内板の西、約百八十メートルの所は江戸時代に朝鮮の外交使節を迎えた朝鮮人街道との分岐点に当たり歴史的に意義深い場所であり将来に永くこの意味を伝え、この道がいつまでも町民に広く親しまれ愛されることを目指して修景整備事業を実施しました。外和木の標の名前は、この土地と朝鮮人街道との分岐点の地名が小篠原字外和木であるので名付けたものです。 平成十年三月 野洲町
11時50分、そして私達はここで休憩を取る事にした。

10分休憩後歩き始めると、300m程先で茅葺きの建物が右手に見えた。(写真は逆方向に撮ってます。)
そして私達はここで街道を離れ、昼食を摂るため右手(写真では左手)へと曲がり、「アル・プラザ」へと向かった。ここは滋賀県ではお馴染みのスーパーで、衣料品販売や食事が出来る店が入っている。先程休憩した所だが、まーいいだろう。

12時55分、食事を終えて先程の場所に戻ってきた。そして街道は目の前の「東海道新幹線」のガード下を潜って続いていた。空は少し晴れて来て、日が差してきた。幸先の良い午後のスタートだ。

ガードを潜るとすぐ左手にお城の様な建物があった。そしてその横は藁葺きの家。ここも酒屋の様だ。妻はここの自販機で缶ビールを買い、ビールを飲みながら機嫌良く歩き始めた。

酒屋から770m程行くと、「本藍染」の説明看板が建っている森家が左手にあった。
古くから「紺九」の屋号で親しまれている森義男氏宅では県下で唯一の本藍染を伝承しています。奈良時代以前から始まったといわれる藍染めでありますが、森氏宅は明治三年に創業、現在の森義男さんは四代目で古くから伝わる延喜式という藍染法で染色されます。百年以上もたつ信楽焼の壺の中で染めた本藍染は「ジャパンブルー」と呼ばれる独特の美しさでピカ一。国内はもとより海外でもたいへん人気があります。

すぐ先で道は二又になっていたが左へと進む。そして少し進むと左手に新幹線の高架が近づいてきた。丁度500系が走って来たのでシャッターを切ったが、タイミング悪く先頭車両が写らなかった。


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