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04.守山宿〜武佐宿

その2  野洲市小篠原〜竜王町鏡


平家と源氏のゆかりの地


2007.2.11.(日)  天気 : 小雨が降ったり、晴れたり

右手を見ると甲山古墳が見えた。まるで小山の様だ。中に入れる様だが、見ずに先へと進んだ。

養鶏場からの臭いをガマンしながら進む。新幹線の線路は再び街道から離れ、430m程進むと右手に子安地蔵堂があった。残念ながら地蔵菩薩像は秘仏で見られなかったが、平安時代末期に造られたらしい。

330m先の左手奥に「篠原神社」があるが、その辺りの道は工事中だった。大きく左に迂回し、仮の橋が架かっていた。後で分かったがこの辺りは天井川となっていたらしく、川の下に大正時代に出来た「家棟隧道」があった様だ。そして河川改修を行い、川は街道の下を流れる様になってしまった。

川を渡りすぐ左の道へと入る。すると左の小高い所に灯篭が見えたので、上ってみた。常夜灯が2基と愛宕山の石碑があったが、この付近にあったものをここに集めたものだろう。

210m程歩くと右手の「国道8号線」に合流した。「小堤」のバス停がある場所だ。ここから暫く国道と旧道を交互に歩く事になる。

右手に「西池」を見ながら「国道8号線」を820m歩く。すると「道の駅 竜王 かがみの里 2km」の道路標識が見えた。街道はここから左の細い道へと続く。

旧道を400m程歩いて行くと左に「街道町集会所」というのがあった。ここは「大篠原」という地域なのでナゼこんな名前が付いているのか分からないが、中山道沿いなので「街道」となっているのだろうか?

すぐ先の「浄勝寺前 交差点」で「国道」に出た。ここでは車道はグルッと大きく左に曲がらないといけないが、歩道はスロープになって「国道」に直結していた。

右手にある「東池」を過ぎ、今は跡形も無い「成橋の一里塚」があった付近を通り過ぎ、「大篠原 交差点」を越えた辺りで「平宗盛胴塚」の看板に従い、「国道」から離れた。平家最後の地を見るためだ。細い道を歩いて行くと、平宗盛卿終焉之地と書かれた石柱と共に石碑や石仏が建っていた。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちをした。西海を漂うこと2年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに破れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都へ向った。途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられたのである。現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。

「国道」に一旦戻り、すぐ右の旧道へと進んだ。思い出しながら歩いてみたが、「東海道」を歩いた時、草津市内で「清宗塚」があり、そこの説明看板には清宗はそこで命を落としたとされていたはずだ。いったい真実はどちらなのだろうか???
東海道のんびり旅 52.草津宿〜大津宿参照
そう思いながら歩いていると、右手に明治天皇聖蹟の大きな石碑が目に入って来た。

そしてその少し先で旧道は、また「国道8号線」に合流していた。この辺りから竜王町に入っていた。

「国道」に出るとすぐ左手に源義経元服池があった。みなさんご存じの源義経がここで元服したらしい。
東下りの途(承安4年3月3日当鏡の宿にて元服加冠の儀を行うその時に使いし水の池なり
説明書きにそうあった。その池を見てみるとしめ縄が張ってあったが、とても小さいものだった。
昼食後、暫く歩き続けたので「国道」向かい側にある「道の駅 竜王かがみの里」で休憩をした。14時40分だった。

トイレも済ませ、水分補給と身体の休息を20分程取った。リフレッシュしてスタートだ。
もう一度「国道」左側に渡り、歩き始めると屋根付きでしめ縄を締めた木の幹があった。源義経 烏帽子掛けの松と言われるものだ。
承安4年3月3日鏡の宿で元服した牛若丸は、この松枝に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し源九郎義経と名乗りをあげ源氏の再興と武運長久を祈願したのである。明治6年10月3日台風により折損したため幹の部分を残して保存し後世に伝えるものなり。

ここは鏡神社の境内で、階段を登ってみると朱塗りの鳥居と奥に本殿が見えた。新羅から来た王子、「天日槍(あめのひぼこ)」を祀ってあるらしいが、その時陶芸も伝わり、のちに「信楽焼」となったらしい。王子も海の向こうから伝えた技術が、シャレでは無いがまさかタヌキに化けるとは、思っていなかっただろう。

さて、街道を少し歩くと左側に鏡の宿 本陣跡と書かれた看板が建っていた。この鏡地区は鎌倉時代には宿駅だったらしいが、江戸時代にはそうとはならず、間の宿になった所だ。なのでここは、その間の宿の本陣という事になる。

その先には石碑があった。源義経宿泊の館跡とある。
沢弥伝と称し旧駅長で屋号を白木屋と呼んでいた。
と碑の下に説明されていた。

この辺りは「枡屋」「吉野屋」などの看板があり、「本陣跡」手前にも「加賀屋」の看板を見た。どの看板にも「旅篭」の文字が書かれていたので、人を泊めていたのだろう。しかし江戸時代には本来の宿場しか泊めてはいけない事になっているので、近隣の宿場から苦情があった様だ。

すぐ先の「鏡口 交差点」があり、旧道は右斜めへと進む。

旧道は細い道で「愛宕山灯篭」もあり、とても街道らしい雰囲気がした。

すぐ先の左手には道祖神が沢山集められていた。「野洲川」付近の「十輪院」にも同じ様になっていたが、この辺りではこういう風習があるのだろうか?


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