04.守山宿〜武佐宿

その3  竜王町鏡〜武佐宿


旧道が無いので迂回


2007.2.11.(日)  天気 : 小雨が降ったり、晴れたり

右手に田圃を見ながらしばらく歩くと、再び「国道8号線」に合流した。
ふと妻を見ると、寒いのでジャンバーの風防部分を頭にかぶり、機嫌良く歩いていた。

国道を歩き「西横関」に入ると、右手の民家の塀際に「中仙道」と書かれた石柱があった。何も説明がなかったので、これは個人で建てたのだろうか。もし個人とするならば、こんな道標を建てて下さり、私達旅人思いのとても親切な方だと思った。

すぐ先「西横関 交差点」右手には道標があり、「是よりいせみち ミなくち道」と書かれていた。当時はここを右に入ると水口へと進む街道があったようだ。

「中山道」はこの信号から「国道8号線」を離れ、斜め左の細い道へと続いていた。妻に「写真を撮るので、どいてくれ〜。」と言ったら電柱の陰に隠れてこちらをのぞいていた。

ここを進むと集落を過ぎ、やがて「日野川」沿いの堤防を歩いていた。何か知らないが、堤防沿いには小さな紫の花が沢山咲いていた。そして右にゆるく弧を描く様に歩いて行くと、真正面に「国道8号線」があり、チェーンを跨いで左へと進んだ。

そこは「横関橋」の西端で、元々の車道が広い歩道となっていた。江戸時代はもう少し北西側を船で渡っていたらしい。しかし水が少ない時期は船を並べて橋の様にしていたという。

写真の場所は橋を東に渡った所だが、ここを左へと曲がった。目の前には「近江八幡市」の道路標識が見えた。

曲がるとすぐ道が二手に分かれていた。ここを左の未舗装の道へと進んだ。

左を流れる「日野川」を見つめながら、昔、船で渡っていた光景を思い浮かべながら先へ進んだ。これも街道歩きの楽しみの一つだ。

しばらく歩くと右へと続く道が見えてきた。ここを曲がるらしい。左手川の方を見ると、「中山道六十九次の内・武佐」と書かれた説明看板が建てられていて、「広重」の「日野川」を渡る浮世絵も描かれていた。この付近で川を渡っていた様だ。
ところで、右に続く道がここで二手に分かれていた。手持ちの地図は1本の道しか書いていないので、どちらに行けばいいのかだいぶ悩んだ。周りの景色と地図を何度も見比べて、今まで来た道をUターンするように進む右手の道を選んだ。結局こちらで大正解だった。ヤレヤレ・・・

Uターンしてから510m程で「東横関町」と書かれた道路標識がある信号に着いた。ここをこのまま真っ直ぐ進んだ。

そして910m程進むと右へカーブして「国道8号線」と合流。信号の横には「馬淵町」と書いてあった。なお、途中には「東横関一里塚」があった様だが、今は何も痕跡がなかった。

国道を歩き始めようとすると、左手「八幡社」の鳥居脇に高札所跡の石柱発見。

「国道8号線」を進むと、右手に茅葺きの家が見えた。一桁の国道沿いにこんな家が残っているとは・・・とても珍しい光景だ。

少し歩くと「白鳥川」に。橋を渡る前に右を見ると少し先に古い石柱が見えた。何かと思い見に行ってみると、「高野世継観音道」と書かれた道標だった。「高野世継観音」とは、東近江市にある名刹・永源寺の事で、高野は寺のある地名、そして世継観音は本尊らしい。
なお、「白鳥川」に架かる橋は「千僧供(せんぞく)橋」と言い、昔千人の僧が供養し、疫病を退散させた事に由来するらしい。

橋を渡って真っ直ぐ歩く。この辺りの国道は、右側にガードレールがあり、歩道と分離しているので安全に歩ける。400m程先でこの国道は左へとカーブして行くが、旧道はそのまま真っ直ぐ続いていた。

旧道に入るとすぐ左手に小公園風になっている住蓮坊首洗い池があった。そう言えば、守山に母の墓があった。住蓮房に死ぬ前に一目会いたいと守山までやって来たが、ことすでに遅しだったのだ。(説明書き抜粋)
住蓮坊は、鎌倉時代前期の僧侶。法然房源空の弟子で美声であったという。専修念仏の弘通(くずう)につとめ、安楽房とともに所々で別時念仏会に六時礼讃(ろくじらいさん)を行い、僧俗の帰依を受け、貴賎を問わず教えを広めた。建永元年(1206年)12月後鳥羽上皇が熊野臨幸の間、住蓮は、安楽と東山鹿ヶ谷で六時礼讃を唱えた。これに帰依渇仰する人多く、それがきっかけで後鳥羽上皇の二女官(松虫姫、鈴虫姫)が帰依した。これを知った後鳥羽上皇の怒りに触れ、法然上人門下への弾圧も強まり、住蓮は翌、承元元年(1207年)近江馬渕の荘の池のほとりで処刑された。その首を洗ったといわれる池が、この「首洗い池」である。
ここで今日最後の休憩をとった。池を見てみるとほとんど水は無く、砂地に水たまりの様に僅かに水が残っているだけだった。

再び歩き始めると、少し先の右側に小さな道標があった。「安楽房 住蓮房 御墓 是よ里 三丁」と書いてある様に見える。先を見てみると田んぼの中に一里塚を少し大きくした様な小山が見えた。
ここは古墳で「供養塚古墳」と言われる所なのだが、後に両者の墓が造られたらしい。見に行ってみたいが、今日一日の疲れと、日暮れまでにまだ2キロ以上歩かなければならないと言う重圧で、簡単にあきらめた。

さて、そのまま先へ進むとすぐ道は行き止まりとなっていた。前に見える民家の先に工業団地が出来てしまったため、旧道は無くなってしまったのだ。
ここは一旦左折して平行している「国道8号線」を歩く事になる。国道へ出る車が何台も信号待ちをしていたので、車に気を付けて国道まで約100m歩いた。

「六枚橋 信号」を右折して国道を歩くが日暮れ時間が気になり、また車の少ない旧道に早く行きたくて、妻の事を考えず早足で歩いてしまった。この先長い道のりを一緒に歩かなければならないのに、自分勝手な行動をしてしまい、後で反省する事になる。
700m進むとやっと右手に旧道が見え一安心。「西宿町 信号」を右に入ってすぐ左の道へと進む。しかし今度はデジカメの電池が無くなってきた。撮る枚数を減らさなければならないが、最後まで保つのか心配だ。

5分程歩くと左手の広い空き地に大きな楠が、ポツンと一本生えていた。(少し暗くなってきたので、写真うつりが悪い。)そして伊庭貞剛翁 生誕の地と書かれた木製の手書き看板が建っていた(説明書き抜粋)
伊庭家は近江守護佐々木家の流れをくむ名家である。屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷を有していたが、近年建物は解体され、楠の巨木が往時を偲ばせる。伊庭貞剛は、明治元年22歳の時、西川吉舗に招かれて上京し、京都御所警備隊士となる。さらに、同7年北海道函館裁判所に勤務。明治10年、大阪上等裁判所に判事として転任するが、明治政府の方針に期待を持てず裁判所を辞めた後、明治12年、大阪住友にいた叔父広瀬宰平の薦めにより、住友家に入社し明治13年には大阪本店の支配人となる。明治27年煙害問題解決のために、決意して四国別子銅山支配人として赴任。当時、新居浜は、精錬所の煙突から出る亜硫酸ガスが周辺の農作物に害を及ぼす深刻な事態になっていた。彼は精錬所を沖合いの四阪島に移転する計画を進める一方、荒廃した別子銅山周辺の山々に一大植林計画を立てて実行し、着任5年目の明治32年、精錬所の移転や植林に目途をつけ別子を離れる。明治33年住友家総領事に就任するが、58歳の若さですべての職を辞し、石山に「活機園」を建てて隠居する。

少し歩くと「近江鉄道 八日市線」踏切があった。ここから「武佐宿」だ。今日のゴールと決めていた「本陣跡」まで歩いたが、前述の通り日暮れとデジカメの電池切れで写真がうまく撮れず、この写真で終わりとする。
そして踏切を渡った所にある「武佐駅」から電車に乗り、「近江八幡駅」からJRに乗り換えて帰路についた。永くて寒い一日が何とか無事に終わってホッとした。


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