03.草津宿〜守山宿

その2  守山市焔魔堂町〜守山宿


守山寺の山門は、浅草寺に似ていた。


2007.2.11.(日)  天気 : 小雨が降ったり、晴れたり

「十王寺」の向かいには、「従是南淀領」の領界石が建っていた。なおこの領界石はここでは無く、もう少し先の「今宿」との境界にあったらしい。

少し先に住蓮房母公墓と書かれた石柱があったが、建立した年号を見ると「明治三十四年十月」と書いてある。しかしどうみても新しすぎる。そう思いながら奥へと入って見ると、車がぶつかって一度折れたのか、修復した古い石柱があった。

そしてその奥に墓があった。(説明書き抜粋)
法然上人の弟子、住蓮坊・安楽坊は上人の教えに従い、不断念仏、浄土礼賛を修道していた。その中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫・鈴虫姫がおられ、両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛をうけた。おりもおり、紀州熊野へ参詣の間に、両姫の決死の出家の願いにより住蓮坊は松虫姫(十九歳)を、安楽坊は鈴虫姫(十七歳)をそれぞれ剃髪、出家得度させました。このことを知った上皇は激怒し、専修念仏教団の弾圧を企てた。建永二年(1207)住蓮坊は近江の国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)、安楽坊は京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処された。住連坊に朝子という母公がおられ、我が子が捕らえられた悲しみで盲目となられ、いよいよ死罪に処せられる前に、一目逢いたいものと馬淵をめざして、中山道を急がれましたが、途中で住蓮坊上人がすでに首を打たれたと聞き、最早この世に生きながらえる望みをなしと思い、当地焔魔堂町の池(尼ヶ池)に身を投げてお亡くなりになりました。

街道はすぐ先で「焔魔堂町 交差点」を渡る。そこから240m歩くと右手に今宿一里塚があった。時刻は10時5分になっていた。この「一里塚」は街道右側しか残っていないが滋賀県で塚が残っているのはここだけだ。榎が生えているが先代の榎は昭和中頃に枯れたらしく、脇芽が成長したものらしい。

今宿は加宿となった所なので、ここはもう守山宿だ。せまい街道を進んで行くと、古い家が何軒も建っていた。

そして「一里塚」から530m進んだ所に「土橋」が架かっていて、橋の近くに「中山道 守山宿」の文字が見えた。

橋を渡る前に川沿いを歩いてみた。「木曽街道六拾九次」の浮世絵に出て来る「守山宿」を思い浮かべながら、よく似た風景の写真を撮ってみた。

「守山銀座西 交差点」を渡ると左に明治天皇聖蹟の石柱があった。そして近くには「中山道守山宿」の説明看板があった。
寛永19年(1642年)守山宿として制札が与えられてから350年余りになります。当時、江戸日本橋から守山まで67の宿が定められましたが、守山は東下りの一番目の宿場で「京立ち守山泊まり」として旅人に知れわたっていました。

すぐ横に守山寺東門院山門が見えた。真ん中に赤い大きな提灯が掛かっているので、東京の浅草寺を思い出す。「比叡山延暦寺」の東側を守るという意味で「守山寺東門院」の名が付いたらしい。守山宿の名もこのお寺から付いているのだ。

門を潜ってみた。本堂は思ってみたより小さく感じた。ここは「朝鮮通信使」の宿泊所にもなっていたらしい。境内には重要文化財となっている鎌倉時代の「東門院五重塔」があったが、石造の塔で人間の背丈と余り変わらない。

お寺を出ると街道は右へとカーブ。そこが三差路となっていて角には道標が建っていた。「右 中山道 美濃路」「左 錦織寺 四十五町」などと書かれていた。

そこから80m程歩くと右手に、整備中でまだコンクリートが乾ききっていない状態の場所に石柱と四角い椅子状の物があった。時刻は10時40分だ。石柱には甲屋之址と書かれていて、説明看板には「謡曲『望月』と甲屋」とあった。
甲屋(かぶとや)とは、もと近江国守山にあった本陣で謡曲「望月」の舞台になった宿屋だといわれている。・・・甲屋は徳川の末期ごろまであったが、火災のため焼け、その跡に碑が建てられており、由緒を物語っている。
なお謡曲「望月」は、主君が討たれた家臣が守山に宿屋を構えていたところ、その主君の妻と子そして仇相手も同じ宿に泊まり、みごと三人で仇を取ったという話しらしい。
また、横にある四角い物体は「井戸跡」で、ここに移転されたと説明看板に書かれていた。しかし、その看板は、まだ横に寝かされたままであった。


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