「愛知川宿」のゲートから左に「愛知川小学校」を見ながら400m進むと、右からの道と合流する三叉路となっていた。そして合流地点で振り返ると「旗神豊満大社」と書かれた石柱があった。 ここを進むと「豊満神社」へと続くらしい。何でも「豊満神社」にある竹で旗竿にすると勝つと言われ、源頼朝をはじめとする多くの武将に好まれたらしい。
|
さて、三叉路から1200m近くほぼ真っ直ぐは道を進むと橋が見えてきた。橋の手前左手には石柱があり、歌詰橋と書いてあった(写真左下)。13時58分そしてその付近で暫し休憩。なお、その横に建っていた「宇曽川と歌詰橋」の説明看板にはこうあった。
宇曽川 宇曽川は、秦川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て琵琶湖に注いでいる。この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資のみでなく、重い石も舟運を利用して運んでいた。また、木材は丸太のまま上流から流したという。このことから「運槽川」と呼ばれていたが、中世になって、うそ川となまったようである。 歌詰橋 宇曽川に架けられていたこの橋は、かつては十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に土を塗りこめた土橋であった。天慶三年(940)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。 |
橋を渡って「豊郷町」へと入った。そして300m歩く。すると左手に江州音頭発祥地と大きく書かれた石柱があった。平成3年10月竣工の石板に説明が書かれていた。
観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源 天正14年(1586年)今から405年前、藤野太郎衛門常実が兵火(永禄11年5月7日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、遷仏式を挙しが、旧暦7月17日であった。当日余興にと、仏教に因む造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め手踊りをさせ、又、文句は羯諦羯諦波羅羯諦。波羅僧羯諦。等(時の住職根與上人)経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り踊らせ、来観の群衆もあまりの楽しさに参加して踊ったと伝えられる。その後、毎年7月17日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で益々多くなった。弘化3年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、種々の花傘とか華美なる扇子を持ちて踊らせ、音頭(音頭取・桜川大竜)も陣新なる文句を作り、益々好評を博し、その後他村の社寺は勿論、他共同の祝事には此、手踊りを催すこととなり、今では、毎年8月17日観音盆には、扇踊り、日傘踊りを踊り好評を博している。 |
そしてその右横には「江州音頭」を踊っている様子が描かれた石板があった。
|
境内へと入って行くと、現在の建物ではあるが以外と小さな「観音堂」が建っていた。あの「江州音頭」がここからあちこちに広まったとは思えない、失礼だがどこにでもある様な建物だった。
|
街道に戻り150m程行くと、「又十屋敷」と書かれた大きな看板(写真左)が目に入って来た。ここは、「豊会館」(写真右)とも言い、先程の「観音堂」を弘化3年に改築した藤野氏の屋敷だった。その藤野氏は「北海道開拓」で財をなしたらしい。
|
敷地内には「中山道一里塚址」の石柱があったが、この先の「石畑」にあったものをここで保存しているだけらしい。
|
ほぼ真っ直ぐな道を750m歩くと、右手に木製の塀に囲まれた家が見えてきた。ここは伊藤忠兵衛 記念館で、「伊藤忠商事」「丸紅」の創始者である初代伊藤忠兵衛が暮らした場所だ。また二代目伊藤忠兵衛もここで生まれた。 無料で入館出来ると書いてあったが、開館日は火・木・土曜日で残念ながら歩いた当日は水曜日だったので入る事が出来なかった。(2010年10月現在、休館日は月曜日のみに変わっています。)
|
その少し先には伊藤長兵衛家 屋敷跡と書かれた石碑があった。石碑の横には屋敷に使われていたであろう瓦が並んで置かれていた。なおここは「豊郷病院」の駐車場であるが、その病院による説明石板があった。
七代目(1868〜1941)伊藤長兵衛翁の偉業 犬上郡河瀬村大字犬方の若林又右衛門の次男として生まれ、幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店にはいり、22歳のとき六代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年その次女やすと結婚、その翌年七代目長兵衛を襲名した。そして先代が創業(1872)した伊藤長兵衛商店を順調に発展させ、1921年これに伊藤忠商店を合併して株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。翁は仏教の信仰心厚く、人間愛また深く、正義・公正・質素・倹約を生活信条として企業家としても成功し、1925年自ら巨額の浄財と敷地の大部分を寄付して豊郷病院を創設した篤志の人としても世の尊敬を集めた。この駐車場はそのご子孫の所有地であったが、1997年に財団法人豊郷病院へ寄付されたものである。 |
そして隣にはくれなゐ園という公園があった。豊郷町のサイトによると、丸紅関係者が初代伊藤忠兵衛の功績を偲んで昭和10年に築造した園だという事だ。
|
園内には初代のレリーフが「伊藤忠兵衛翁碑」と書かれて置かれていた。
|
「豊郷町役場」を右手に見て、もう少し歩くと中山道 一里塚の郷 石畑と書かれた円柱の碑があった。左後方には、こんもり土が盛ってあり、四阿もある小公園になっているので休憩にもってこいだ。しかし私達は「歌詰橋」で休憩して、まだ1時間経っていないのでここはそのまま進む事にした。 後方には「八幡神社」があったが、その手前に説明看板があった。それに依ると
中山道の役場前交差点南(小字一里山)には、「一里塚」が設けられ、「高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた」と、豊郷村史に記されています。 と書かれていた。そう、「一里塚があった場所は、ここではなく、先程通り過ぎた役場付近にあったのだ。確かに円柱の碑には「一里塚の郷」と書かれていて、「一里塚」とは書いてない。・・・ややこしい! |
それはさておき、左横には石畑(間の宿)の石碑があった。先程の説明看板では、こう書かれていた。
江戸時代後期には、街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。 |
すぐ先右手に鉄筋コンクリート造りの豊郷小学校が見えてきた。伊藤忠商店の専務であった古川鉄治郎氏の多額の寄付により、滋賀県では有名なヴォーリスに依る設計で建てられたらしい。現在使用されている小学校はこの後方に造られているので、正式には旧豊郷小学校となるが、しかしどう見ても昭和12年5月30日に竣工した建物には見えない。それだけ当時としては斬新建物だったのだろう。 この小学校を解体するとかしないとかで町長がリコールされたり訴訟問題になったり、テレビで見たことを思い出すが、何とか壊されずに残って良かったと思う。しかし、残念ながら中を見ることは出来なかった。
(その後リニューアルされ、2010年10月現在、中を見ることが出来る様です。) |
小学校正門前から460m歩き、「石畑」から「四十九院」という字に入ってきた。ここで右に曲がり街道を離れた。行基が建てた四十九の寺院の一つ、「唯念寺」を見に行く為だ。歩いていくと、その寺の土塀が長く続いているのが見えてきた。立派だ!
|
長い長い土塀を過ぎ、左へと曲がると唯念寺の正門が見えてきた。中に入って見るとそんなに大きく無いが、威厳がある本堂があった。 15時06分ここで私達は10分間休憩を取らせてもらった。
|
街道に戻り180m歩くと信号がある交差点左手に、鳥居が建っていた。「阿自岐神社」と書かれているが、後で地図を確認すると780m程先に大きな池を持つ古代庭園がある神社がある様だ。「阿自岐神社」は、昔、朝鮮半島の「百済」から渡来した阿自岐氏を祀ってあるらしい。
|
415m歩くと道の左側が「彦根市」となる。そしてすぐ先で右側が「甲良町」となる。地図を見ると、この辺りは市と町の境界線が入り組んでいる様でややこしい。やがて完全に「彦根市」に入り、暫く歩くと右手に柱を3本建てた様なモニュメントが現れた。「おいでやす彦根市へ」と書かれており、柱の上にはそれぞれ別々に旅人の像が載せられていた。
|
そしてその先には私の大好きな松並木あった。青空に松の緑、そして遠くに伊吹山の白い雪が見え、絵になる景色だ。
|
右が「葛籠町」左が「西葛籠町」の集落に入り、「了法寺」や「還相寺」を過ぎる。すぐ先左手の理容店と美容店の間に屋根付きの小さな建物があり、説明看板が掲げられていた。どうやらここにある小道が「産の宮」ともいわれている「若宮八幡神社」への参道らしい。 小さな建物に寄ってみると井戸と手水鉢があり、その手水鉢には「足利氏降誕之霊地」と彫られていた。その意味は、説明看板の由緒に書かれていた。
南北朝の争乱の頃足利尊氏の子義詮が文和4年(1355)後光厳天皇を奉して西江州に戦い湖北を経て大垣を平定し翌5年京都へ帰ることになった。その時義詮に同行した妻妾が途中で産気づき、ここで男子を出産した。付人として家臣9名がこの地に残り保護したが君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり髪を下ろして醒悟と称して尼となりこの地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。ここに土着した家臣9名が竹と藤蔓でつくった葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社を祀りてこの宮が出来た。古来「産の宮」として安産祈願に参詣する人が多い。 |
▲上に戻る