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06.愛知川宿〜高宮宿

その2  彦根市西葛籠町〜高宮宿


お金のいらない「むちんはし」


2007.3.21.(水)  天気 : 快晴

「産の宮」の説明にあったように、葛籠が作られていたので地名となった思われる「西葛籠町」から「法士(ほうぜ)町」へと入るが、ここには「法士の一里塚」があった様だ。しかし、何も痕跡がなくどこか分からない。約1km歩くと「犬上川」に出た。橋のたもとには、「牛頭天王道」と書かれた石柱が建っていた。

橋には「むちんはし」と書かれた石柱と、歩行者用の橋を挟んで「中山道 高宮宿」と書かれた木で出来た大きな看板が建っていた。この橋は「高宮橋」と言うが、別名で無賃橋と呼ばれている。
説明看板が橋を渡ってからあったのだが、ここでその内容を掲載する。
天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。

橋を渡り終えると、高宮宿だ。もっとも現在の高宮町は「犬上川」を渡る前の小さな川付近からとなっているのだが・・・
そして、渡った左側には対岸と同じく「無賃橋」の石柱があり、隣にはむちん橋地蔵尊と書かれた小さなお堂があった。説明看板にはこう書いてあった。
昭和52年(1977)むちん橋の橋脚改修工事の際、脚下から二体の地蔵尊が発掘された。近隣の人々と工事関係者はこれこそ江戸時代天保3年(1833)最初に架橋された「むちん橋」の礎の地蔵尊に違いないと信じ、八坂地蔵尊の御託宣を得て橋畔を永住の地とし、お堂を建立「むちん橋地蔵尊」と名付けてお祀することにした。以来、河川・交通安全並びに町内の守り本尊として多くの人達の信仰を集めている。

「高宮宿」を180m進む。すると左手に立派なお寺の門が見えた。芭蕉も滞在したという円照寺である。
明應7年(1498)、高宮氏の重臣、北川久兵衛が剃度して釈明道となり仏堂を建立したのが起源。天文5年(1740)には火災で本堂は焼失したが、9年の歳月を費やし再建された。

そして門に向かって左側には明治天皇行在聖跡と書かれた、とても大きな石碑が建っていた。明治11年北陸東海巡行の行き帰りに、ここに泊まられたらしい。

境内に入ると立派な本堂があり、その本堂に向かって右奥に進むと、止鑾松(しらんしょう)の石柱と共に、小さな松があった。この松は、明治天皇がお泊まりになられた時に気に入られ、その名を付けられたらしい。しかし現在はその当時の巨木が無く、二代目が植えられている。

そしてその横には、綺麗に咲いた樹齢350年の紅梅があり、脇に「家康公腰懸石」の石柱があるが、肝心の石が・・・石柱の前に小さな石があるがこれなのか???よく分からなかった。

門を出た向かいに、本陣跡(門)があった。16時50分、ここで記念撮影。
江戸時代の参勤交代により大名が泊まる施設(公認旅館)を各宿場に設けたのが本陣である。構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取りであった。高宮宿の本陣は、一軒で門構え・玄関付きで、間口約27m、建坪約396uであったという。現在では表門のみが遺存されている。

街道左側「円照寺」の3軒先に「中山道高宮宿 ふれあいの館」があり、見学したかったが時間が遅くもう閉まっていた。そしてその隣に脇本陣跡があった。
江戸時代高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地におかれた。門構、玄関付き、間口約14m、建坪約244uであったという。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり慶長13年(1608)からは人馬の継立、休泊、飛脚、街道の維持管理を行う問屋を兼ねており問屋場とも呼ばれていた。

そこから数軒先に俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚の石柱が見えた。「紙子塚」自体は、ここ小林家の屋敷内にあるらしい。
たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名づけた。

そこから少し先の信号の所に鳥居があった。信号には「高宮鳥居前」と書かれているが、高さ11mの多賀大社鳥居(一の鳥居)である。
多賀大社から西方約4キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示している。多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られる。「一の鳥居」は、社蔵文書に「寛永一二年三月鳥居着工」の記述があり、社殿が元和元年(1615)の火災の後、寛永年間に造営されているので、この時に建立されたものと考えられる。この鳥居は円柱を内転びに建て、頂上に反り付きの島木とその上に笠木をのせ、やや下がったところに貫を通して、中央に額束を据える明神鳥居形式で、現存する鳥居の中で最も多い形式の一つである。県下の石造鳥居としては、構成する部材は太く、均整がとれて古式を示し、また、最大のものであって、建立年次が明らかな点で貴重な遺構である。
私はまだ一度も行っていないので立ち寄りたいのだが、ここからは遠いので諦めざるを得ない。自宅からそんなに遠い訳では無いので、機会があれば車で行ってみよう。

鳥居の右側には「是より多賀みち三十丁」と書かれている道標(下部が埋もれているので「丁」の字が確認出来ないが・・・)があった。
そしてこれも大きな「常夜燈」もあった。
大鳥居の脇に高さ6m、底辺の一辺3.3mの正方形をなす大きな石造りの常夜燈である。燈明を灯す小窓までは、石造りで13段の階段がついている。常夜燈は、暗くなった多賀道に明りを灯し、道行く人々や多賀大社に参詣する人々が安心してお参りできるための、今の街灯にあたる。古くは一対で建立されていた。

130m進むと右手に高宮布の布惣跡の看板が掛かった建物があった。
高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。高宮細美とも近江上布ともよばれ江戸時代になってからも高宮はますます麻布の集散地として栄えました。布惣では七つの蔵に一ぱい集荷された高宮布が全部出荷されそれが年に12回繰返さなければ平年でないといわれたと聞きます。現在五つの蔵が残っており当時の高宮嶋の看板も現存しています。

そしてその向かいにあるのは高宮神社だ。
明治3年の大洪水で、多くの旧記が流され沿革は殆ど判っていない。拝殿と本殿の間には正徳3年(1713)のものと思われる古い石灯篭が残っている。また、「高宮の太鼓祭」として知られる春期例大祭は毎年4月に行なわれ、高宮十七町より一町が神輿、八町が太鼓、全町が鉦(かね)を曳く。なかでも胴回り6メートルの大太鼓は圧巻である。

夕方でカメラの写りが悪くなってきたが、今日最後に見たい物を探しに参道を進んだ。見つけた!門の近くに芭蕉句碑があった。「をりをりに 伊吹を見ては 冬籠り」と刻まれているらしいが、達筆過ぎて、私には判読出来なかった。
17時30分、何とか明るい内に今日の予定をこなす事が出来た。鳥居の建っている街道に戻り、そのまま120m進む。そしてそこから右折して260m進むと「近江鉄道 高宮駅」。構内に入ると「本線」と、多賀大社に行く「多賀線」の分岐駅のため、ローカル私鉄の割には線路配置が賑やかだった。妻が「彦麻呂がいる!」と急に騒ぎ出したが、他人の空似、私は我感せずだ。その後「彦根駅」まで行き、JRで朝に駐車した「近江八幡駅」へ向かい、無事自宅へ帰還した。


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