堤防に上って対岸を見た。かつてここには無賃橋が架かっていた。丁度この写真の真ん中を突っ切る様に架かっていた様だ。なお、川に架かる赤い鉄橋は「近江鉄道」で、その向こうに「国道8号線」が走っている。
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堤防を左に170m程歩くと、「国道8号線」だ。御幸橋(みゆきばし)と言う橋を渡る。この名は、明治11年に天皇陛下御巡覧の際、馬車が通れる様にと前述の「無賃橋」の代わりに架けられた時に付けられたらしい。 12時13分橋を渡り始めた。橋の途中で「愛知郡愛荘町」へと入る。そう言えば休憩を取ってから2時間近く歩いている。橋を渡ってから牛丼の「吉野家」を発見。ここで昼食を取る事として付近の写真を撮り始めたら、妻に叱られた。どうやらトイレに行きたかったらしく、また私は大丈夫だったが、休憩を長時間取っていなかったので疲れていた様だ。「東海道」は一人で歩いたので、ついつい自分のペースになってしまった・・・反省!
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わずか15分間であったが無事食事を終えて、先程の続きである写真撮影を再開。こちらにも「常夜灯」があったが、向こう岸のそれとは形が違っていた。そして平成2年の説明書きがあったが、かすれて読めない状態になっていた。近くに「無賃橋」の説明書きもあったので、それを代わりに紹介しておこう。
「旅人をあはれみかけてむちんはし、ふかき心を流す衛知川」西園寺藤原実文。この歌は成宮家に家宝として伝わる一部。鈴鹿山系の水を集める幅230余メートルの愛知川は、出水すると「人取り川」の異名のとおり、通行する旅人を困らせた。愛知川に橋が架かっていなかった頃、旅人「渡し」を利用していた。このため、夜間の愛知川を照らし、旅人の水難防止と安全を守るため、約50名の寄進者によって常夜燈が設けられた。また、町人、成宮弥次右衛門(1781−1855)は、4名の同志とともに、川を安全に渡れるよう、彦根藩に橋の建設を申し出たのである。これが文政12年(1829)のことで、以来3年の歳月を経て、天保2年(1831)に完成したのが前身の無賃橋である。当時に渡り橋は通行料を支払うのが普通だったが、慈善事業のため無賃とし、多くの旅人に喜ばれた。歌川広重の木曽街道六拾九次之内にも「恵智川」「むちんはし」として描かれ、後世にもその篤行を伝えている。(抜粋) |
さて、「常夜灯」を見た後、機嫌を取り戻した妻と旅を再開。国道を580m程歩くと旧道が右へと分岐し、その入り口に「中山道愛知川宿」と書かれた冠木門風のゲートがあった。これは分かりやすい!宿場の入り口が一目で分かる。
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資料の地図を見てみると、国道左手に一里塚跡があるのに気が付いた。国道を渡り少し戻りながら辺りをキョロキョロ探してみると、あった!民家横の昔使っていた井戸の近くに「一里塚跡」と書かれた石柱があった。「愛知川西一里塚」である。うっかり通り過ぎてしまう所だった。
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そしていよいよゲートを潜り、「愛知川宿」へと入ると、すぐに橋があった。「不飲(のまず)川」に架かる「不飲川橋」であるが、欄干には「愛知川」の伝承工芸となっている「びん細工手まり」のモニュメントが載せられていた。ちなみに「不飲川」の名の由来は、上流で「平将門」の首を洗ったため水が汚れたためだとか、戦国時代にこの付近で多くの死者がいて、水が飲めなかっただからとか言われている様だ。
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そして少し歩くと、右手に明治天皇御聖蹟と書かれた立派な石碑が見えた。
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そこは「竹平楼」という日本料亭だった。元は創業宝暦8年(1758年)の「竹の子屋」と言う名の旅籠だったらしく、後に屋号の「竹」とご主人の名である「平八」の「平」をとって現在の名前になったらしい。そして明治天皇が立ち寄られたのは、明治11年のご巡幸時だったらしい。
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少し歩くと右手民家前に問屋跡の石柱があった。しかし、この向かい辺りに「脇本陣跡」の石柱があったが見逃してしまった・・・後日資料を見てその事に気がついたが後の祭りだ。愛知川までは自宅からそんなに遠く無いので、機会があれば車でもう一度行ってみよう。
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この時は、そんな事に気がつかず歩いて行くと、左手に「八幡神社」の鳥居が見えてきた。そして民家との境目に、高札場跡の石柱が少し隠れる様に建っていた。
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そのすぐ先に石造りの立派な建物があった。大正時代か昭和初期の建物かよく分からないが、窓の上や柱の上部に装飾が施された豪華な建物だ。前に住んでいた三重県にも、少し前までこれより小さかったがよく似た感じの銀行があった。ここもそうだったのかも知れない。
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そしてその近くに「親鸞聖人御舊跡」と書かれた石碑の脇道を入って行くと、「宝満寺」があった。庭が綺麗なお寺だが、古木の紅梅が花を咲かせていた。この梅は、「親鸞聖人」がここに立ち寄られた時、植えたとされる木らしい。
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街道に戻って120m歩くと信号のある交差点があり、その右脇にまたもや「ポケットパーク」があった。そして新しい「中山道 愛知川宿」の道標と共に、「広重」の「恵智川」(愛知川のこと)の浮世絵がモニュメントの様に設置されていた。
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交差点から160m歩くと左手に「地蔵堂」があり、愛知川宿 北入口の石柱が建っていた。宿場はここで終わりだ。そして「地蔵堂」の横に可愛い「お地蔵さん」や「道祖神」などが幾つも並べられていた。あちこちにあったのを、誰かがここに集めて置いたのであろう。
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200m程歩くと右手に小さな「地蔵堂」があり、目の前に「中山道 愛知川宿」と黄色で書かれた冠木門風のゲート。ここのゲートは、宿場出口から少し離れた場所に建っていた。 時刻は13時32分、次の宿場まで歩けそうだ。
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