52.草津宿〜大津宿



街道も線路も、よく曲がっています。



2006.11.4.(土)  天気 : 快晴
2006.11.18.(土)  天気 : 晴
草津宿〜大津宿の地図






昼食を終えて旅の続き。「本陣」の少し先左手に脇本陣跡。建物に向かって右端に石柱が建っていた(写真左)。ここは現在「草津市観光物産館脇本陣」として活用されている。

すぐ先路地を越えた左手に草津宿本陣跡と書かれた簡易な看板を見つけた(写真左上)。ここは「草津宿」にあったもう一軒の「本陣」で「田中九蔵 本陣」と呼ばれた。

そこから160m進むと、市立の草津宿街道交流館。ここは前に本陣へ寄った時に来た事がある。1階は無料でトイレもある。歩き旅の人達が休憩する場所は無いが、「図書資料コーナー」に椅子と机があるので座るくらいは何とか可能だ。また2階は有料となっていて江戸時代を再現した「草津宿まちなみ模型」や旅装束を着て駕籠に乗れる「旅体験コーナー」等がある。年に何度か特別展を催している。名前は「街道交流館」となっているが、残念ながら歩く旅人には少し不親切な気がする。



2009年03月に大望の休憩施設、くさつ夢本陣が出来ました!!

歩き旅の人達がゆっくり休憩できる「くさつ夢本陣」が出来ました。場所は「草津宿街道交流館」の少し手前(江戸寄り70m程)です。「東海道」を歩いてみて、無料で休憩できる施設があちこちの宿場にあるのに、どうして江戸時代の交通の要衝で、立派な「本陣」もある草津に無いのか?市民の一人として不満一杯だったのですが、とても良い施設がやっと出来て喜んでいます。こちらは旅人用の休憩所やトイレが完備。お茶のサービスやボランティアガイドさんも常駐しています。



アーケード街を少し歩くと左手に「道灌」というお酒を造っている「「太田酒造」に草津政所(まんどころ)跡の説明札が立てられていた。・・・太田家は江戸幕府の命をうけ草津問屋場を預かり、また隠し目付を勤めるなど当宿場権限をまかされていたので政所とよばれていた。・・・ちなみにこの太田家は太田道灌の末裔で、江戸初期に越前福井から移り住んだらしい。

アーケードも終わり、190m程歩いた左側に古い旅館があった。この辺りは私も歩いた事が無いので初めて見る。

その先は時々通る「県道2号線」が横切っている。信号を越えると立木神社だ。ここも初めて来たが、前から一度寄ってみたいと思っていた場所だ。
境内に入ってみると「祝七五三詣り」と書かれたノボリが沢山立てられていた。本殿はそんなに大きくないがとても立派な造りだった。神護景雲(じごけいうん)元年(767年)称徳天皇がこの地に立ち寄られたのがきっかけで、この神社が始まったらしい。

境内を見回すと、石造道標があった。説明看板を見てみると、「東海道」と「中山道」の追分に建っていた道標の前身らしい。写真下部には「みぎハたうかいとういせミち」(右は東海道・伊勢道)と書いてあり、その横に「ひだりは中せんたうをた加みち」(左は中山道・御多賀道)と書いてある。・・・道標の建立年代は、「延宝八庚申年」(延宝八年=1680)と刻銘にあり、滋賀県下で最も古いものです。建立の背景については、京都壬生村のあしだの行者万宝院という人物が、伊勢太神宮と山城愛宕山(愛宕神社)への七年間毎月の参詣成就を記念・感謝して建てられたものと推定されます。・・・

また、滋賀県指定自然記念物になっている「ウラジロガシ」もあった。幹周6.3m・樹高10m・樹齢(推定)300年以上という大木だ。

神社を後にし、東海道を160m進み、「草津川」に架かる「矢倉橋」を渡る。草津市民になってまだ短いので知らない所が多い。初めて「草津」を歩く人と同様、キョロキョロしながら歩いた。

橋を渡りきってから320m先右手に「瓢泉堂」という瓢箪屋さんが見えた。ここは「広重」の「保永堂版」の「東海道五十三次」に描かれている場所で、立場茶屋として「姥が餅」を売っていた場所だ。元々は織田信長に滅ぼされた近江源氏「佐々木義賢」の三才の曾孫を育てるため、乳母が売り出したのが始まりと言う説が有力らしい。昭和初期まで売っていたらしいが、昭和35年頃権利が人手に渡り、「国道1号線」沿いで再び「姥が餅」が販売され始めたらしい。ちなみにインターネットで調べてみると、その権利を取得したのが日本で最初に旅行業を始めた「日本旅行」の創始者「南新助」の子孫のようだ。

さて、浮世絵の通り、店に向かって右側に道標が昔のまま建っていた。矢橋道道標で、「右 やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」とある。店舗右の道は「矢橋の港」に繋がり、そこから船で対岸へと渡っていたらしい。琵琶湖の南端を歩いて回って行くより、こちらの方が近い。しかし比叡山からの強風で渡れない日もあり、逆に歩いた方が早い時もあった様だ。そこで室町時代の連歌師「宗長」が「もののふの 矢橋の船は 速くとも 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠んだらしい。「もののふ」とは武士の事で、「瀬田の長橋」とは「瀬田の唐橋」の事だ。
「三島」では「たたり」、「関」では「関の山」、そして「草津」では「急がば回れ」。東海道を歩いていると語源が色々と解って来る。街道歩きは多岐にわたって勉強になる・・・そう実感した。

何枚も写真を撮り終え、300m程歩くと右手に赤い鳥居が幾つも建っていた。いつも国道から見ると、木が鬱そうと生えているのが見えるだけで何か分からなかったが、「稲荷神社」と判明した。

200m先で旧道は左側を走る「国道1号線」を斜めに横切っている。「矢倉南交差点」の横断歩道を渡った。

そして国道と平行する側道の様な道を進み、横縞模様のビルの左側を進む。

すると「上北池公園」が目の前に見えた。旧道はこの中へと続いている。
近くに「JR 南草津駅」があるので当初ここまでのつもりだったが、まだ午後2時20分。もう少し歩く事にし、四阿で休憩とした。

公園内には野路一里塚跡の石碑があった。・・・野路一里塚は、この石碑より北西に約30mの所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約20mの所の二ヶ所にあった。・・・と言う事は、一つ上の写真を撮った場所辺りになる。

公園の先は広い道を越えて旧道が続くが、「国道1号線」に出る車の信号待ちの列が続き、真っ直ぐ進めない。一度右の「野路町交差点」で横断歩道を渡り、旧道の続きへと進んだ。その旧道入口付近に金属製の東海道案内標があった。

左に「教善寺」を見ながら進むとすぐ右の民家前に、「平清宗」「清宗塚」と書かれた説明看板があった。民家なので勝手に入っていいのか少し心配しながら中に入り、小さな案内板に従い進んでいくと清宗塚がヒッソリと建っていた。・・・文治元年三月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(八歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都に上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。清宗は父宗盛(三九歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年六月二一日の事、清宗時に一七歳であった。首は京都六条河原にて晒される。・・・

旧道を進み、「県道43号線」を越えたすぐ右手に野路 萩の玉川があった。小さな公園風に整備されていて、石碑も建っていた。・・・「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。源平争乱の時代ここ野路は、数多くの武将の宿陣となり時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿、貴族、詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」は名歌として世に広くしられている。又、十六夜日記(阿仏尼 作)には「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」と詠んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれいつの頃か歌碑も建てられた。・・・

400m進むと右手に大きな池があり、中に小島が浮かんでいた。「弁天池」と言う池で、島は「弁天島」と言う。盗賊の日本左衛門が逃げ隠れしたという伝説があるらしい。

少し先の「狼川」を渡る。いつの間にか途中で別々に歩いていたお二人と同行。同じ方向に歩いているから「旅は道連れ」となった。

450m程歩き「日本黒鉛工業」前辺りまで来ると左手に土塁があった。ここは松並木跡の様だ。そう言えば草津に来てから知り合った方に聞くと、昔は草津市内にもまだ松並木が残っていたらしい。

600m行くと左手に石碑が沢山並んでいた。「月輪寺」の前だが明治天皇御東遷御駐輦之所の石碑あった。

100m先の最近出来た道を越えると、「月輪池」のほとりに東海道立場跡の石碑。お二人はそれぞれ石碑と共に記念撮影。私にも声を掛けてくれたが、いつも景色だけを撮っているのでお断りした。もし撮りたくなれば、いつでも来れるし・・・

左へカーブしながら300m程歩く。途中で「大津市」に入る。「一里山一丁目」の信号が見えた。この交差点から左へ進むと我が家に着く。お二人とはここでお別れした。近くのバス停からバスで帰るつもりだったが、生憎土休日は30分に1本しかない。丁度時間の巡り合わせが悪かったし、時刻もまだ午後3時半前なので自宅まで歩いて帰る事にした。

11月18日、「月輪池」ほとりの「東海道立場跡」から「大津宿」を目指して出発した。何せ自宅から歩いてでも30分かからない地点なので気楽にスタート出来た。
前回同行された方と別れた「一里山一丁目」信号を越え、旧道を400m歩く。ここは「JR 瀬田駅」からだと南東方向に400mちょっと真っ直ぐ来た場所になるが、旧道とその道とが交差する所に一里塚趾の大きな石碑が建っている。「月輪の一里塚」と呼ばれた所だ。残念ながら一里塚は跡形も無いが、地名に「一里山」と名前が残っている。この名前は東海道を歩いて来て、何度か聞いた名だ。
所でこの付近は、草津に引っ越ししてから2〜3度歩いた事があるが、東向きにしか歩いていない。何故かと言うと、東海道を歩き続けて来た時に、初めて京都方向に向かいたいと思っていたからだ。(何というコダワリ・・・)

さてここからは初めて歩く場所だが、ややこしくて少し道を間違えそうになった。下りながら少し右へとカーブ、左に消防署を見ながら信号を越える。再び右へカーブした後は、真っ直ぐな旧道を進む。「一里塚」から870m程歩くと一灯式の信号機がある。東海道はここを左へ曲がる。交差点右側には写真左下の「東海道案内図」が建っている。資料を見ながら歩いて行くと、つい通り過ぎそうになる様な場所だ。

途中右手の珠算塾から読み上げ算の声を聞きながら430m歩くと右折場所に到達。しかし、つい真っ直ぐ通り過ぎそうになった。ここの目印は交差点手前左側に青色の「初田仏壇店」の看板。そして交差点左手に「旧東海道」とだけ書かれたグレーの看板。ここには右折の看板は無いのか?と思ったら、グレーの看板の裏側に東海道のルートを書いた地図が描かれていた。狭い道だったのでわざわざ歩道を歩かなかったため、気が付かなかったのだ。

すぐ右手の「浄光寺」を過ぎ、民家の間を縫う様に旧道を歩いて行くと、約570mで広い道に出た。正面には先程の仏壇屋さんの店がある場所だが、ここを左折して広い通りを進んだ。

広い道を真っ直ぐ420m歩く。すると去R村石材店の前で左へ入る細い道があり、その石材店には「左 旧東海道・右 瀬田唐橋」と石に表示してくれてあった。よく聞かれるためにこうしてくれたのか???いずれにしても、一般の民間人が街道を歩く人々にとても親切な街道案内だ。桑名宿の先にも電柱に書かれていたが、私達旅人にとってとてもありがたいと思った。

案内通り細い道を入って行くと、「建部(たけべ)神社」の大きな石柱がある。東海道はここから右折して続くが、逆に左へ曲り、神社に寄り道する事にした。

少し先から県道と別れ、左斜めに鳥居を潜って進んだ。境内に入ると、とても立派な建物が建っていた。ここは近江国の一之宮で、本殿に祀る神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)だ。

さて、先程の分かれ道まで戻り、先に290m程進んだ。「唐橋東詰 交差点」手前左手に「道標」があった。寛政12年(1800年)正月建立の「上田 太神山不動尊」への物だ。

目の前には「瀬田の唐橋」、その手前に「常夜燈」や「歌碑」が並んでいた。

橋を渡る前に左の川縁に下りて10分程休憩した。この橋は車で何度も通ったが、橋自体を横から見るのは数少ない。天気は余り良くないが、瀬田の唐橋が綺麗に見えた。だいぶ昔この近くをバスで通った時、橋の欄干が確か朱色だったと思うが・・・思い違いかも知れない。

少し川縁を歩いて見ると、鳥居に「龍宮」と書かれている神社があった。勢多橋龍宮秀郷社だ。・・・神代の古から此の大川に鎮り座す龍神で瀬田川と唐橋の守り神です。俵藤太が龍神の頼みにより、大ムカデを平げた伝説は廣く知られています。江戸時代には殿上人の信仰が厚く霊験あらたかな龍神であります。・・・

前置きが長くなったが、いよいよ「唐橋」を渡る。この下を流れる「瀬田川」は「琵琶湖」から流れる唯一の川で、「宇治川」と名が変わり、やがて我が故郷の三重県にも流れていた「木津川」や、京都に流れる「鴨川」と合流した「桂川」と、淀で三つが合流する。そして「淀川」となり、「大阪湾」へと流れ込んで行くのだ。
上流を見ると「国道1号線」と「JR 東海道線」の橋梁の先に「琵琶湖」が見える。そしてその先に「比叡山」から連なる山々が、山水画の様に霞んで見えた。また川面では、アメンボの様にボートが何艘も滑る様に行き交っていた。のどかな景色だが橋の上を見ると、信号待ちで車が連なっていて気分が台無しになった。

実は、橋は2段になっている。と言うのは西側に寄った中州(島?)があり、そこで別れているからだ。
私は一度中州に下りて、両岸を眺めてみた。すると西側の岸から誰かが呼んでいる様だった。耳を澄ますどうやら独り言の様だ。なんとデカイ独り言だ・・・少しビックリしながら2つ目の橋を渡った。屋形船が何艘か係留されているのが見えた。

渡り終えて左側を見てみると可愛い鳥居と小さな社が見えた。「橋姫竜神」と書かれていた。こちら側にも龍神があったのだ。

街道を歩き始めると、左側にベンガラが目立つ家があった。「油」の看板があり、それも朱色だった。

そしてその先には竜宮城の様な建物。屋根の上には猫の様な飾りもされていた。よく分からないが、多くの宿場には「飯盛女」が沢山いたので、ここも昔はそういう建物だったのかも知れない。(勝手な推測です。)

すぐ先には「京阪電車 石山坂本線」の踏切があり、踏切左手は、「唐橋前駅」となっている。ここを渡って進むが、この後、何度もこの線路を越える事になる。ちなみにこの駅で左方向に進むと次の駅は終点「石山寺駅」だ。ここから「石山寺」までは少し離れているが、「紫式部」が「源氏物語」の構想を練った場所として有名だ。

踏切を越えると左手に、「近江牛」の店として有名な「松喜屋」がある。一度入ってみたいのだが、高そうで入った事が無いのだが・・・

その前に信号が見えた。「鳥居川 交差点」だ。東海道はここで右へと曲がっていた。

右折するとすぐ左手に黒く塗られた立派な門があり、その脇に明治天皇鳥居川御小休所の石碑が建っていた。

そこからしばらく「石山商店街」を歩く。「国道1号線」の高架下を潜り、「京阪電車」の踏切を再び渡ると、「松原町西 交差点」。街道は「JR 東海道線」にさえぎられているので真っ直ぐ鉄道ガード下を潜っても良いのだが、少しでも東海道に沿ったルートを歩くため、ここで左折した。

そしてすぐ先の「JR・京阪 石山駅」へと出た。11時40分頃だったので近くの「マクドナルド」休憩を兼ね昼食とした。
午後12時10分、旅を再開。東海道は石山駅前広場の東端を南北に通っていたらしいので、写真中央に写っている階段を上り進む。

階段を上ると芭蕉像が待っていた。そして説明看板があり、「東海道を旅する芭蕉」と題され、芭蕉と大津の関わり等が書かれていた。

前述の通り旧道はJRの線路に分断されて通れない。そのため今は「JR石山駅」の自由通路が旧道の代わりだ。いままで色んな場所を通って来たが、ここは今までで一番変わった場所だ。
そして写真右前方にある、北出口の階段を下りた。

階段を下りると駅前からの道が続く、左手に「関西日本電気」の工場を見ながら歩くが、後ろを振り返ると「なるほど、この道が線路を越えて続いていたのか。」と納得出来た。
そして今では影も形もないが、この付近に「一里塚」があった様だ。

駅前から約140mで小さな川を渡るが、「逢(あ)のみち湖(こ)のみち山歩(さんぽ)みち」と書かれた看板に、この付近の「旧東海道」が図示されていた。そしてその先ですぐ突き当たりとなり、街道は左折方向に続いていた。(写真では、左の道から前方の道方向。)

途中、右手には「農業試験研究発祥の地付近」とプレートに書かれたブロック状の石碑があった。東海道とは関係無いが、歩いていると時々変わった物に出会う。

ところで先程から左手に松の木が時々目に付く。ここ付近は「近江八景」の一つ、「粟津(あわず)の晴嵐(せいらん)」と呼ばれた場所で、松並木が続いていた景色の良い場所だったのだ。
ちなみに今日通って来た「瀬田の唐橋」も「瀬田の夕照」として八景の一つに数えれていた。

左手の工場は「日本電気硝子」に変わり、その工場も途切れてしばらく歩くと左に急カーブ。その曲がり角の右手には、膳所(ぜぜ)城勢多口総門跡の石柱があった。ここからは、枡形が続くややこしい道が続く事になる。

そして100mも行かない内に、早速道が右左と曲がっていた。

その先「京阪電車」の踏切を越えると、すぐ右手に「若宮八幡神社」。ここの表門は膳所城の「犬走り門」で、明治3年に膳所城取り壊しの際、移築された物らしい。なお門の直前には鳥居が建っていて、全体像を写そうと色々試みたが、こんな変な写真しか撮れなかった。

そしてすぐ先でまた右に90度曲がっていた。資料とにらめっこしながら歩いているが、その内、間違えてしまいそうだ。

「髭題目」がある「妙福寺」を過ぎ、また「京阪電車」の踏切。街の中を縫う様に走っているので、こちらも枡形に負けずカーブが多い。
そして街道左手の「専光寺」・「光源寺」の先には「篠津神社」があった。鳥居の奥、少し離れた所に門が見えたが、この門も元膳所城の「北大手門」だったらしい。

70m程進むと道は左へ90度。前方の蔵風建物には歯医者さんの看板が掛かっている。粋な歯医者さんだ。

そこから170m程の所に十字路があるが、ここを右折する。目印は一灯式の点滅信号と右前にある「音羽軒」というお店だ。

400m歩き、ここで左奥の「膳所神社」へと行ってみた。ここの表門も旧膳所城の物で、本丸前にあった門らしい。説明看板には重要文化財と書かれていたが、少し古い石柱には「國寶表門」とあった。本当はどっちなのか???

街道まで戻り、今度は右へと寄り道した。お城が建っていた「膳所城跡公園」に行ったのだが、入口には復元された様な門が建っていた。
そして公園内にはスポーツウェアを着た人が何人もいた。何事かと思ったら、「びわ湖大学駅伝」があり、ここがゴール地点となっていた様だ。残念ながら全チームゴールインした後の様で、「FINISH」の看板だけが寂しく建っていた。

午後1時15分、琵琶湖を眺めながら暫し休憩。「近江大橋」が対岸に向かって延びているのが見える。この橋は全長1,290mで有料(普通車の場合150円)だが、歩いて渡るのは無料だ。
今日は曇り空だが、晴れていたら綺麗な景色なのに残念だと思いながら、10分後ここを後にした。

街道へ戻って見ると先程は気づかなかったが、膳所城中大手門跡の石柱が街道左側にあった。

190m歩くと左手に縁心寺が見えた。お寺の入口にも書かれている様に、ここは膳所城主だった本多家の菩提寺だ。

この先ややこしい所の連続だ。200m先の三差路左折。

そして220m歩いた先の「響忍寺(こうにんじ)」前を右折。

100m歩くとまた三差路。ここを左だが、この日は前方の道が工事中で通行止。おかげで間違えずに進めた。

街道はこの先、左に弧を描きながら橋を渡る。

すると写真前方の民家で突き当たり、右へと街道は続いていた。

左に「石坐神社」の鳥居を見ながらしばらく進むと、左手に「天智天皇御尊碑奉安」と書かれた石柱を見かけた。

少し先で右へ左へと小刻みに曲がっていたが、ややこしいのはここで終わりだ。

その曲がり角の右手に、「膳所城北総門跡」の石柱を発見した。

420m歩くと左手に義仲寺があった。・・・当、義仲寺の地は、その昔は粟津原といわれ、寿永3年(1184年)1月20日、征夷大将軍木曽義仲公はここで討死せられた。その後、年を経て、一人の尼が来り、公の塚に侍して、供養ねんごろなるによって、里人いぶかしみ、その有縁を問うに、「みずからは名も無き女性」と答えるのみだったが、この尼こそ巴御前の後身にて、これが往昔当寺を、巴寺と呼び、また無名庵の名の出た由緒である。戦国の世に至って、近江の国守佐々木候は、木曽公墓を護持するため当寺を修復された。其頃の義仲寺の景観は、湖水を前にし、現在の龍岡あたりに及ぶ山地を後にし、境内極めて広大であったと云われる。元禄の俳聖松尾芭蕉は、木曽公の心情に同情し、慕って無名庵に来り滞在されること多く、大坂の宿で死去される時、遺骸は近江義仲寺なる義仲公の御墓の傍に埋めよ、と遺言され、現在、義仲公の墳に並んで、芭蕉翁の墓が建っている。・・・ここには前に来た事があるので、中へは入らなかった。(前回訪れた時の写真を元に、境内を紹介します。)



これより4枚の写真は2006年2月18日撮影分です。

木曽義仲公の墓

巴塚
・・・木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが義仲が強いての言葉に最後の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり、亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。・・・

芭蕉翁の墓

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」の歌碑
後ろに写っているのは、俳諧道聖蹟の一つ、「無名庵」



さて、「義仲寺」から再び400m歩く。京阪電車の踏切をまたまた越えて、その先の分かれ道を左へと進んだ。(写真では、真っ直ぐの方向。)

踏切から110m進んだ所で左へと寄り道した。蹴鞠の神社と言われる「平野神社」へ行くためだ。ここは藤原鎌足公の創建と伝えられる神社だが、NHKの「街道てくてく旅」で岩本輝雄さんが蹴鞠をしていた場所を見たかったため寄った。
そして本殿に残りの旅の無事を祈り、東海道へと戻った。

街道に戻ると再び分かれ道。ここも左へと進んだ。
なおこの付近には、「石場の一里塚」があった様だが、何も痕跡が無かった。

250m進むと広い道に出るが、ここを真っ直ぐ進む。そしてそこから260m進むと信号がある通りに出るが、左手には「滋賀県庁」が見える。

210m歩き、信号のある広い交差点を越えた所で右方向へと進み、「大津別院」へ行ってみた。立派な門の横に「明治天皇大津別院行在所」の石碑が建っていた。

この辺りは既に大津宿に入っている様で、左手に「唯泉寺」の門を見て進むと、古い家が数軒建ち並んでいた。

その先の細い十字路の角に此附近露國皇太子遭難之地と書かれた石碑があった。明治24年5月11日にロシア皇太子の「ニコライ」が、警備中の巡査「津田三蔵」に斬りつけられて負傷した事件があった事を示す碑だ。

そこから270m先で「京町1 信号」の交差点に出るが、東海道はここから左折していた。ちなみに真っ直ぐ進むと「北国海道(西近江路)」となる。
交差点を渡った所に「大津市道路元標」の石碑と、「札の辻」の説明書きがあった。・・・札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。・・・

この道は現在「国道161号線」で道路中央に「京阪電車」の線路が敷かれている。この路線は、この日何度か踏切を渡った「石山坂本線」の「浜大津駅」から分岐する「京津(けいしん)線」で、「京阪山科駅」の先から「京都市営地下鉄」に乗り入れている。路面電車なので1両かと思う所だが、4両編成で走って来るので私も初めはビックリした。

道路右側を歩いて坂を上って行くと、「蓮如上人近松御舊跡」と書かれた石碑があった。近くの「本願寺近松別院」を示す物らしいが、建立年月を見てみると、「延享三丙寅年」とある。1746年と江戸中期辺りの物だ。

70m程行くと「京津線」の線路は右へと曲がり、道路と別れて普通の専用線へとなっている。ここから突然電車が出てくるので、車歩道には信号が設置されていた。

そしてすぐ先の道路左側に大津宿本陣跡があった。小さな説明プレートは歩道上に埋められていて、注意しないとウッカリ通り過ぎそうだ。なお、「明治天皇聖跡」と書かれた石碑が建っていたが、こちらの方が大きくて目立つ。本陣跡の石碑も分かり易いのを建てて欲しいものだと思った。
午後3時15分、今日の旅を終えて「JR 大津駅」へと向かった。次回は最後の旅となる、寂しくもあり、嬉しくもあり・・・複雑な心境だった。


草津宿〜大津宿の地図