53.大津宿〜三条大橋



東海道よ、本当にありがとう!



2006.12.23.(土)  天気 : 晴れ
大津宿〜三条大橋の地図






ついにこの日が来た。東海道の旅も今日で終わりだ。何か学校の卒業式当日の様な期待と達成感、そしてちょっぴり寂しさが入り交じった複雑な気持ちで、朝8時50分「JR 大津駅」を後にした。

9時03分「大津宿本陣跡」に着き、ここから本格的に最後の旅にスタート。
「国道161号線」を300m程上って行くと、右手に「妙光寺」があった。参道左手には髭題目碑があるが、お寺の門との間には「京阪電車」の線路が横切っていた。「興津宿」付近の「清見寺」を思い出した。

そのすぐ先は「JR 東海道線」の跨線橋だが、「京阪電車」も平行してJRを越えていた。この付近の東海道線は複々線になっているが、南側の2線はレンガ造り、北側の2線はコンクリート造りとなっていて、こちらが後で造られたと一目で分かる。ここは通称「蝉丸跨線橋」(プレートには「上関寺」とある。)と言われ、レンガ造りの方は大正10年に竣工し、トンネル方式で掘られたらしい。なお跨線橋のすぐ後ろには、「逢坂山トンネル」の大津側入口がある。

跨線橋を過ぎるとすぐ右手に関蝉丸神社があった。・・・琵琶の名手蝉丸をまつる神社は、旧東海道沿いに三社があり、当神社は下社にあたる。平家物語、謡曲「蝉丸」などにも、その名が見え古くから歌舞音曲の神として知られる。・・・
入口には「関蝉丸神社」と「音曲芸道祖神」と書かれているらしい石碑があるが、残念ながら木に埋もれてしまい、上部だけしか見えなかった。なおここも先程の「妙光寺」と同じく、入口と鳥居の間に「京阪電車」の線路があり、電車が来ないか注意しながら境内へと入って行った。

境内には蝉丸の「これやこの ゆくもかえるも われては しるもしらぬも 逢坂の関」の歌碑があった。

そして、今は涸れてしまった関の清水があったが、紀貫之の歌で有名らしい。

また重要文化財になっている「蝉丸型」という「時雨燈籠」もあった。

最後に本殿に行き、最後となる東海道歩きが無事終われる様お参りをした。
そしてここを後にしたが、資料を見ると小野小町の「小町塚」がある事に気づき、再度戻ってきた。アチコチ探してみたが結局分からず、仕方なく街道に戻った。

160m歩くと「京阪電車」の踏切。線路は縫う様に「国道1号線」の下を潜り、道路の左側へと続いていた。

踏切を渡るとすぐ右手に「安養寺」があった。その前には「逢坂」と書かれた石柱に「逢坂」についての説明が書かれていた。・・・「日本書紀」によれば、神功(しんぐう)皇后の将軍・武内宿禰(たけのうち すくね)がこの地で忍熊王(おしくまおう)とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。・・・

少し先で旧東海道である「国道161号線」は、左に走る「国道1号線」と合流していた。

歩道は国道の左手にあり、「京阪電車」の線路との間に挟まれている感じだ。しばらく歩くと頭のうえに橋が見えた。「名神高速道路」だ。

橋を潜ると右手に階段と赤い手摺りの様な物が見えた。関蝉丸神社上社だった。

120m歩くと右手に「弘法大師堂」があり、その横に寛政6年(1629年)11月建立の逢坂常夜燈があった。

国道右側の歩道を歩いて行くと、少し先の左側壁面に「車石」を描いたプレートが埋め込まれていた。近くに寄って写真を撮りたかったが、国道を行き交う車が多い上に歩道には鉄製の柵がなされていたので、デジカメをズームさせて写真を撮った。

その先、国道の上に歩道橋が見えた。「東海自然歩道 逢坂山歩道橋」だった。この辺りが国道の峠で上り坂から下りにと変わっていた。

そしてそのちょっと先には、逢坂山関址の石碑と、また「逢坂常夜燈」があった。大化2年(646年)に設けられたといわれる「逢坂の関」は歌枕にも詠まれた場所で、先述の「蝉丸」や「紀貫之」も歌に詠んでいる。

そしてその近くから東海道は、「国道1号線」から右に別れた旧道へと続いていた。
旧道に入るとうなぎ屋さんの「かねよ」が道の両側にあったがまだ10時過ぎ・・・お腹は空いていないし、お店も11時開店。自宅からいつでも来れる場所でもあるので、今日は食べるのを諦めて先へと進んだ。

「かねよ」を過ぎると右手に3つ目となる「蝉丸神社」の分社があった。・・・当社は天慶9年(946年)蝉丸を主神として祠らております。蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され当宮の免許により興業したものです。その後、万治3年(1660年)現在の社が建立され、街道の守護神猿田彦命と豊玉姫命を合祀してお祠りしてあります。・・・
階段を登ってみると、男性1名女性2名の先客が居られた。お話しをしてみると、茅ヶ崎から来られた方々で、前に日本橋から三条大橋まで毎回日帰りで歩かれたとの事。そして今日、京都から東下りを始められたらしい。
ところで、神社入口付近で何か臭い匂いがすると思ったら、イチョウの木から落ちた銀杏が沢山地面に転がっていた。昔、父に連れられて三重県の自宅付近の神社へ銀杏拾いに行った事を思い出した。

そして神社入口横には車石が残されていた。・・・大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきました。江戸時代中期の安永8年(1778年)には牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805年)に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用道路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを「車石」と呼んでいます。・・・

神社を出るとすぐ左手に石柱が。「元祖走井餅本家」と書いてある。走井餅は江戸時代に売っていた名物餅だ。確か「琵琶湖大橋」左岸の「道の駅」で売っていたのを見た事がある。そして石柱の先を左に曲がると「京阪電車」の「大谷駅」があった。
実は現在JRとなっている「東海道線」も当初この付近を通っていたらしく、「東海道線」の「大谷駅」との乗り換え駅になっていた時期があったらしい。

この先旧道は「京阪電車」の線路で分断されているので、歩道橋を渡り線路と国道を越える事になるが、行ける所まで行ってみた。少しでも「東海道」を歩きたかったからだ。

歩道橋まで戻り、国道左側を歩く。しばらく行くと昔風の建物があった。石柱に「大津算盤の始祖・片岡庄兵衛」とあり説明も書かれていた。・・・江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612年)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。・・・

その先に「走井」の文字が見えた。月心寺だ。木と竹を組み合わせた格子戸は閉まっていたが、中に入らせてもらった。(勝手に・・・)

中に入ると走井の井戸があった。「広重」の浮世絵にも描かれている井戸は水がコンコンと湧き出ているが、現存する実物は水が満ちているもののチョロチョロと溢れる程度だった。しかし江戸時代の人々が見ていた物と同じ物を見ていると思うと、とても感激した。なお説明書きには、・・・この名水は、第13代成務天皇の御誕生の時、産湯に用いられたと伝えられる。・・・とあった。
ところで前述の様に、歩道橋を渡る前に「元祖走井餅本家」の石柱があったが、「広重」の浮世絵では井戸のある茶店で走井餅が売られている。本家とあったので何軒も同じ様な餅を売っている店があったのか?それとも石柱の場所で作り、ここでは売っているだけだったのか?謎である。

「月心寺」の外へ出て街道を歩き始めると、塀越しに庭が少し見えた。「明治天皇駐蹕之處」と書かれた石柱があった。道路側に向いて建っているのだが、塀が邪魔して覗かないと見えないのが少し残念だ。

そしてすぐ先の道端には小さな石碑が。「右一里丁 左大谷町」と書かれている様だ。右方向、つまりこの碑から少し京都寄りの所が「一里町」と呼ばれていたらしく、「大谷の一里塚」があった様だが、この先その痕跡すら見当たらなかった。

「国道1号線」・「京阪電車」・「名神高速道路」が仲良く並んで坂を下って行く。「月心寺」から750m地点で国道と線路は少し右へカーブし、高速道路の下を潜った。そしてすぐ先の交番と横断歩道橋がある場所で、旧道は左斜めへと入っていた。
手元の資料によると、この近くに道標があるはずだ。警察官に怪しまれないかドキドキしながら、交番の前を2〜3度行ったり来たりしたが見つからなかった。

右手に「佛立寺」を見ながら370m程旧道を歩くと、「京街道」との追分に出た。「東海道」は、右手方向に真っ直ぐ進む。そして「京街道」は左手へと進む。
ちなみに「京街道」は「東海道」とも言える様で、西国の大名等は京を通らずここから左方向へと進んだらしい。なお「京街道」は大坂(現在の大阪)へと向かい、「高麗橋」まで続いていた。

この街道は「伏見街道」とも呼ばれていたらしい。道標が2つ建っていた。一つは「みきハ京ミち」「ひたりハふしミみみち」「柳緑花紅」と書かれていて、もう一つには「蓮如上人」「是より十丁」とあった。ちなみに前者の道標は複製品で、本物は大津市の琵琶湖文化館近くに移された後、現在は滋賀県の安土町にある「滋賀県立安土城考古博物館」にある。

70m先右手の「閑栖寺」前に「東海道」の道標と車石が展示されている様に置かれていた。・・・東海道五十三次 大津八丁(札の辻)から京三条大橋までの約3里(12km)の間、物資輸送する牛馬車の通行を楽にするため花崗岩に溝を刻んで切石を敷きつめた。文化2年(1802年)心学者 脇坂義堂が発案し、近江商人 中井源左衛門が財を投じたとも伝えられている。この附近は、車道と人道に分かれていて、京に向って右側に車石を敷き左側は人や馬の通る道であったと伝えられている。・・・

そこから390m歩くと旧道は「国道1号線」に分断されていたので、歩道橋で国道反対側へと渡った。

歩道橋に上って京都側を見ると、国道上に「三条」の文字が書かれていた。そして京都中心部は遠くに見える山々を越えた所だ。めざす「三条大橋」は写真右端辺りになるのだろうか。いずれにしてもゴールは、手を延ばせば届く様な場所だと実感した。

歩道橋を下りて進むと、旧道は右へとカーブ(道路上に白い点線が書かれている方向)。山科(やましな)の方へと進んだ。

少し歩いた右手に三井寺観音道の道標があった。ここには「小関越」ともあるが、大津宿の「札の辻」を真っ直ぐ行った所からここに抜ける道の事らしい。

220m程歩くと、とうとう「京都市」に入ってしまった。

京都市に入るとそこは「四ノ宮」となる。450m程進むと右手にお寺が見えた。ここは徳林庵と言い、街道に面した所に六角堂があり、「山科廻地蔵」の看板も掛かっていた。・・・山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年街道の出入口六箇所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が1550年に開創した。・・・

六角堂の右奥を見てみると、「人康親王 蝉丸 供養塔」(室町時代)があった。

そして左の方には「荷馬の井戸」があり、「京都 大坂 名古屋 金澤 奥州 上州 宰領中」の文字があり、反対側には丸に「通」の飛脚の印があった。ちなみにこの印は、後に「日本通運」のマークになったとどこかで見た記憶がある(定かではありませんが・・・)。

さて、「徳林庵」で5分程休憩後、街道を400m歩くと、「山科駅前 信号」に出た。時刻はちょうど12時となったため、近くの「専門店街ラクト」と書いたビルに入り、食事をした。

ゆっくり食事をした後、12時45分、信号から再スタート。するとビルの前に「旧東海道」の新しい石柱を見つけた。街道歩きをしている人々は、目ざとく見つけるだろうが、一般の人々は風景の一部となって気が付かないのでは無いだろうか。

そして、明治天皇御遺跡と書いた石柱も見つけた・・・この石碑は、明治元年9月明治天皇御東幸の際同2年3月の御還幸及び、同11年10月の御還幸の三回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹 毘沙門堂御領地内にあった「奴茶屋」(現RACTO・A2階)に御駐輦されたことを記念して建立されたものである。・・・

伊勢物語に出て来るらしい「吉祥山安祥寺」の道標や「安祥寺川」を越えるスリムな「愛宕常夜燈」があった。もう都に近いので大きな常夜燈は町中には置けず、こんな機能的な物になったのであろうか。

少し先の左側に一本の細い道があり、その角に道標が建っていた。宝永4年(1707年)11月に建立された五条別れ道標だ。道標の一方には「右ハ 三条通」とあり、これは東海道の事。そしてもう一方には「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水 道」と書いてある様で、渋谷街道になっている。
なお、「五条橋」とは勿論五条大橋の事で、「ひがしにし」は東西の本願寺を表しているらしい。そして「六条大佛」は方広寺の大仏で、二度地震により倒壊後寛文4年(1664年)に木造で建てられた。(その後雷で炎上、木造半身の物も建てられたが火災で焼失している。)「今ぐまきよ水」は、今熊野観音寺と清水寺の事らしい。

街道は緩やかに右左とカーブし、真っ直ぐになった下り道に入ると黒塀の家も建っていて、旧街道らしかった。

やがて、山科のかかりで渡った歩道橋付近から始まっている「府道143号線」である「三条通り」に出た。そしてそこを右折し、「JR東海道線」のガード下を潜った。

ガードを潜った後80m程歩くと、左手に冠木門。ここは「陵ヶ岡 みどりの径」と言う名の遊歩道で、「京阪電車 京津線」の廃止跡だ。
ちなみに現在の「京津線」は「三条通り」の反対側辺りから地下に潜り、「京都市営地下鉄」の線路に繋がっている。

ここで「三条通り」の反対側に渡り、天智天皇陵を見に行った。石畳の道がどこまでも続く感じて歩いて行くと、二重の囲いの向こうに鳥居が見えた。ここからが陵となっているのだろうが、木々に阻まれ、お墓らしい姿は全然見えなかった。(残念!)

帰りに入口付近でふと見ると、日時計があった。天智天皇が水時計を作ったので、昭和の初め頃、時計組合が造ったものらしい。日時計は縦型で棒が2本水平に突き出ている。そしてその2本の陰が交わる所が、現在に時刻の様だ。時計を見ると13時22分、だいたいだが合っている様だ。

「三条通り」の左側に戻る。すぐ先に散髪屋さんが見えた。旧道はここを左折する。

曲がって見るととても細い道だ。気をつけて歩いてないと、つい通り過ぎてしまいそうだ。

40m程歩くと先程の遊歩道を横切り、そこから60mで少し右にずれた道を進んだ。

道は住宅街の間を通り、知らなければ誰も「東海道」だとは思わないだろう。しばらく歩くと左手が畑となっていたが、街道との境目に並べて置いてある石が「車石」らしい。

その先は上り坂となっているが、この辺りに最後の一里塚となる「日ノ岡の一里塚」があったらしい。江戸から数えて124番目となるのだが、何も痕跡が無いのがとても残念だった。坂は段々と急になってきた、息が上がる。ちなみに街道左側のこの辺りの地名は「日ノ岡ホッパラ町」と言うらしい。とても変わった名前なので歩く前から気になっていた場所だ。どうやらこの先の「日ノ岡峠」が余りにも急だったので、土砂を削り歩きやすくした時、その土砂をこの辺りにホッパラかした(捨てた)ためにその名がついたらしい。

坂を上って行くと左手に「亀の水不動尊」と書かれた赤い提灯が目についた。その奥に崖の間から亀が顔を出し、口から水が流れていた。亀の水と言うらしい。「木食遺蹟 梅香庵址(亀の水不動)」と書かれた説明看板にはこうあった。・・・木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)上人が心血を注いだ、東海道日ノ岡峠の改修工事は、元文3年(1738年)秋、三年がかりで遂に完成した。しかも上人は、峠の途中に木食寺梅香庵を営み、道路管理と休息所を兼ねさせたのである。掘りあてた井戸水を亀の口より落として石水鉢(量救水〈りょうぐすい〉)に受け、牛馬の渇を癒すと共に、道往く旅人に湯茶を接待した。その石のカマドに刻まれた銘文は、上人の苦心をよく物語っている。・・・

その近くに「右 明見道」と「右 かさんいなり道」と書いた道標があり人しか通れない細い道が続いていたが、どうやらこれが「明見道」らしい。これは「山科駅」より直線で南東方向2km程の大塚にある「妙見寺」への道案内らしい。
この辺りを行ったり来たりしていたら、「亀の水」に一人の男性が・・・声を掛けてみると「東海道」を歩いているお仲間と判明!ここから一緒に歩く事になる。実は「三条大橋」にゴールした時に誰かに写真を撮って貰おうと思っていたが、観光で来ている人や地元の人に撮って貰ってもニュアンスが違い、「東海道」を歩き通したという感動がイマイチ伝わって来ないと思っていた。ゴールの喜びを共に分かち合える「この人に撮って貰った写真なら」と思い、逃がさない様に一緒に歩く事にしたのである。

狭い坂道が終わりに近づく。いつも通る時は車で広い道を通るので、こんな場所に来た事は無いが、家が立ち並んでいたので驚いた。右手の民家の敷地内に「旧東海道」の石柱があった。下に「三条通り」を行く車が見えた。狭い旧道上で見るこの文字も、ここが最後だろう。

道は下りとなり最後の峠を越えた様だ。やがて「三条通り」に合流した所に、ちょっとした広場があり、「車石」を使って昔の牛車を模した物がモニュメントの様に置かれていた。ここは、「京都市営地下鉄 東西線」開通に伴い、廃線になった「京阪電鉄 京津線」の跡地に造られた広場らしい。

車の多い「三条通り」を下って行くと、やがて京都の町並みが見えて来た。ゴールが近づいて来たのである。
一緒に歩くお仲間は、ふくろうさん(後でわかったが・・・)と言い、神奈川県の中学校の先生との事。何でも、富士山に登るための練習に歩き始めたのがきっかけと仰っていた。

やがて右手にレンガ造りのトンネルが見えた。「ネジリマンボ」と言うトンネルで、内部はレンガが斜めにねじって積まれていた。この上は「琵琶湖疎水」の「インクライン」が敷かれているらしい。
ちなみに「琵琶湖疎水」は、明治維新で東京に遷都したため、沈んだ京都を蘇らせようと京都府知事の北垣国道が建設を指示し、琵琶湖から京都に水を引いたものだ。そして「インクライン」はその「琵琶湖疎水」と高低差のある「京都市内」を舟で行き来するよう、レールを敷き舟を上げ下げしたものを言う。
上に上ってみたかったが、同行者が居られるので、ゴールを目指した。

「蹴上(けあげ)発電所」を右手に見ながら、蹴上のY字交差点で左へと進んだ。左手には「ウェスティン都ホテル」が見えた。
少し先の右手に道標があった。古そうに見えるが動物園の文字が・・・この道標は新しいのか?古いのか?よく分からなかった。

道は平坦になってきて人通りも多くなってきた。やがて「白川橋」を二人は越えてゴールへと近づいて行った。

しばらく歩くと左手に有名な銅像が見えてきた。高山彦九郎 皇居望拝之像である。・・・高山彦九郎は、群馬県の出身である。18歳の時以来、前後五回、上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。・・・

そして目の前の信号を渡った所に、三条大橋が見えた!!ついに江戸からここまで歩いて来たのである。

同行の「ふくろう」さんと、いつもながら人通りの多い「三条大橋」を渡り、2006年12月23日午後2時36分、ついにゴールインをした!しかし思った程、感動しなかったのがとても不思議だった。でも、道行く人達は普通に歩いていて、私達二人は異次元の世界にいる感じだ。
お互いゴールインの写真を撮り合い(思惑通りに・・・)、健闘をたたえあった。

写真を撮り合った横には、弥次喜多像があり、ゴールした私達を迎えてくれた。私達二人が江戸時代に歩いていたら、こんな風だったかも知れないと思うと、とても親近感が湧いた。

残念ながら同行者とはここでお別れし、またどこかでお会いするのではないかと思いながら、私は「三条大橋」の下へと向かった。江戸時代から途切れず多くの旅人が行き交ったこの橋。いつまでも眺めていたい気持ちだった。

河原から再び欄干近くまで戻った。そして「三条大橋」の先を眺めてみた。慌ただしい京都の町中だ。江戸時代の人々は、ここから洛中へと散って行った。しかし、私の旅はここまで。何か寂しさを感じた。

時刻は午後3時なのでまだ時間がある。折角なので少し散策する事にした。「三条大橋」をもう一度今度は東へと渡った。年末間近となったこの日も、鴨川はいつもの様に水が流れていた。

無事東海道を完歩出来たので、御礼参りに行こうと思い、近くで行った事が無い大きな寺社である「知恩院」へ向かった。
前日、地図を調べていたら、その途中に明智光秀の塚がある事を知り、まずそちらに寄ってみた。「白川橋」から流れる川を渡ると20mと書いた案内看板があった。看板に従い細い道を入るとひっそりとした所にあったが、塚らしい物は無く祠があった。・・・天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。・・・

午後3時47分、知恩院の門へと到着。見てみると午後4時で門を閉めてしまうと書いてあった。あと一週間もすれば大晦日でこんな事は無いのだが仕方ない。一日歩いて疲れていたが、慌てて階段を登り本堂へ直行。ゆっくり見学する時間も無く、無事東海道を歩けた御礼を心の中で呟いた。初日は東京へ向かう途中に雪が積もり、最後はこの慌ただしさ・・・いやはや、珍道中になってしまったと、つい笑いそうになってしまった。

これで今日の旅は本当に終わりだ。「京都市営地下鉄 東西線 東山駅」へと向かった。途中少しだけ「東海道」を歩いたが、今度は道路左側を進んだ。すると「白川橋」で先程気づかなかった「道標」を発見した。史跡になっている三条白川橋道標だ。見てみると、延宝6年(1678年)3月の建立と330年近く前のとても古いものだ。車が多く行き交う都会にこんな古い物が、ポツンと建っていたのだ。「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」とあり、今でも道標として役立っていた。

私は「東山駅」から地下鉄で「山科駅」まで行き、そしてJRで「瀬田駅」まで帰ってきた。バスに乗って無事自宅へ。最初から最後まで東海道歩きのお供をしてくれたスニーカーを、自宅の玄関に静かに置いた。
ほとんど歩く事をしなかった私だったので、初めは実現不可能かと思っていた旅が、本当に最後まで続ける事が出来た。迷った時は地元の人々に助けてもらい、東海道を歩くお仲間との交流もあった。私自身歩くことで前より健康になったし、自然と地理や歴史の勉強にもなった。東海道に対して本当に感謝!感謝!である。
東海道よ、ありがとう!そして後に続く仲間のために、できるだけ形を変えずにいつまでも残っていてほしい。

− お わ り −



大津宿〜三条大橋の地図