51.石部宿〜草津宿



この旅の原点まで歩いてきた。



2006.11.4.(土)  天気 : 快晴
石部宿〜草津宿の地図






2週間ぶりにJRで「石部駅」へとやって来た。8時28分今日のスタートだ。

駅前から真っ直ぐ徒歩2分程で「東海道」に戻って来た。右折してまた2分歩いたら左手に四阿が建つ公園があった。ここには「西縄手」があったと説明されていて、松並木があったとも書かれていた。それを再現した松が公園の道路側に10本程植えられていた。

そして公園内には、「東海道五十三次図」と書かれた石盤があり、「日本橋」から「京都」までの宿場が描かれていた。全体図を見て「石部」から「京都」までは、もうすぐ先だと言う事が改めて実感させられた。楽しい旅も、後少しか〜・・・

その先街道は、右にカーブしT字路に突き当たった。ここを左折するが、この道は駅前から続いている道だ。

そこから150m歩くと、またT字路だ。GOHSYU(ゴーシュー)と書かれた工場がある。私は写真下から歩いて来たが、この先どちらも「東海道」だ。真っ直ぐ行けば「下道」、左に曲がれば「上道」と呼ばれ、当初は「下道」だけだったが、野洲川の氾濫が度々あったので、「上道」が新たに出来、茶店もあったらしい。実際はどちらも使われていた様なので、私は「下道」を歩く事にした。変に迂回する「上道」より、ストレートな「下道」が街道らしいと思ったからだ。
なお、分岐点には写真左下の木製案内板が建っていた。

街道は一度橋を渡るが、その後は「JR草津線」沿いに続いていた。左を見ると削られた様な山が見えた。これは「灰山」と言い、昔は石灰を採るため掘られ、こんな姿になった様だ。現在でも採石場として、掘られ続けているらしい。またここは何種類かの鉱物が採れるため、マニアには有名の様だ。

真横を通っている「JR線」と少し離れる場所まで来ると、目の前に「名神高速道路」が見え、街道はその下を潜っていた。なお、潜る手前で「栗東市」へと入った。

高速道路下を潜ると写真では分かりにくいが、道は十字路となっていた。左の道は先程の「上道」で、ここで「下道」と合流し、前方に続いていた。

そして「伊勢落(いせうち)」の集落を細い東海道は続いていた。街道であったという雰囲気が、今でも感じられた。

「真教寺」の前を過ぎると、地面に横たわった様な木に一杯実が成っている。リンゴ???実が赤いので間違い無いと思うが、リンゴが沢山なっていた。どうしてそんなに寒く無いこの場所に成っていたのかとても不思議であった。

そして少し先の右手には、これも街道とは関係が無いが、黄色い家が建っていた。家の前には虎のイラスト看板が建ててある。野球の「阪神タイガース」ファンが住んでいるのは一目瞭然だ。私も実は阪神ファンだが、ここまで熱狂的では無いので少し驚いた。

街道を進むと右手に「長徳寺」があり、「薬師如来堂」の前に「従是東照嶺」の石碑があった。

そしてその近くに「新善光寺道」の道標があった。「新善光寺」は、平重盛の末裔・小松宗定が平家追善のために信濃の善光寺を48度参詣し、霊夢を感じて分身の善光寺如来像を賜り、この地に招来されたのが始まりらしい。

道は300m程先で左へと大きくカーブ。右手に「国寶 地蔵尊」と書かれた大きな碑が建っていた。この「法界寺」に「木造地蔵菩薩立像」があるが、平成16年に立てられた説明書きには国宝では無く、重要文化財と書かれていた。ちなみにその地蔵像は、ここ六地蔵の地名になった6体の内の一体らしい。
門は閉まっていたが、隙間から中へと入ってみると、地面には芝生が生え、広々としていた。9時40分ここでチョッと休憩をとる事にした。足が窮屈なので靴を脱いで座っていると、靴下の上に赤とんぼが留まった。とんぼが逃げない様、しばらく足を動かさずに体を休めた。

とんぼがどこかへ飛んで行ったので休憩を終え、街道を歩き始めると、すぐ左手に大きな家が見えた。旧和中散本舗だ。しかしお寺でも無いのにビックリする程デカイ!・・・街道の名薬として名高かった漢方薬「和中散」の製造・販売を営んでいた大角弥右衛門家の住宅。街道から見える店の中に大きな製薬動輪が据えられ、製造するところをみせるなどの販売の工夫が行われていたほか、「間の宿」梅の木村の小休本陣として、参勤交代の大名などの休憩の場ともなっていました。・・・

その先街道は、右にカーブしながら逆のカーブを描く「県道116号線」と接近していた。そして両方の道に挟まれたスペースに六地蔵一里塚が復元されていた。しかしそこに建っていた石板に描かれている「六地蔵古絵図」(写真の右端)を見ると、「一里塚」はもう少し東にあった様だ。
ところで石板には、『江戸時代の六地蔵村は、膳所藩領・前橋藩領・旗本渡辺領の三給であった事から諸大名の御小休本陣役割を担う和中散屋が三軒あり、同様に庄屋年寄と称する村おさが各々に三軒ずつ存在した。』と書かれていた。すると、先程見て来た「従是東照嶺」の石柱は、「旗本渡辺領」の事を指していたのだろうか?

少し歩くと「高念寺」があったが、近くの民家の庭に何故かSLの動輪が置いてあった。今日は変わった物を色々見る。

10分程歩くと「東海道」の道標があり、そこから220m先で「名神高速道路 栗東IC」の「国道1号線・8号線」出口に繋がる高架橋の下を潜った。いわゆる「栗東第二インターチェンジ」へ繋がる道で、高速道路本線から出口まで、1km以上離れた支線の様な形になっている。

200m程行くと左手に、「稲荷神社」の赤く塗られた木の塀が見え、明治天皇手原御小休所の石柱があった。その横には「手ハラベンチ」と名が付けられた手のひら形のベンチがあった。そう、ここは手原と言う地名なのだ。

境内に入ると、今度は明治天皇御聖跡の石碑が建てられていた。
話しは脱線するが、私の妻はこの近くで働いている。現在11時前なのでだめだが、今日は仕事なのでお昼休みの時間帯なら一緒に昼食も可能だ。

右に「JR 手原駅」が見える交差点を過ぎ少し行くと、民家の前に「東経136度 子午線」と書かれた石柱が建っていた。

その少し先右手には、田楽茶屋 すずめ茶屋跡があった。この辺りは、旧手原村と旧上鈎(かみまがり)村の境だったらしい。

この先で、妻が通勤でいつも通っている「県道55号線」を越えると、石碑や歌碑が並んでいた。石碑には、九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地とある。石碑下の「鈎の陣のいわれ」には、こうあった。・・・室町幕府は応仁の乱後勢力が衰え社会は乱れた。近江守護職佐々木高頼は、社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため時の将軍足利義尚は長享元年(1487年)十月近江へ出陣鈎に滞陣した。滞陣二年病を得延徳元年(1489年)三月二十五歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西約三百米の永正寺の一帯である。・・・周辺にあった歌碑は、将軍足利義尚に関するものだった。

「上鈎東」交差点を過ぎ、900m進むんだ右手に善性寺があった。ここにシーボルトが立ち寄ったらしい。説明看板には、・・・善性寺第五世僧、恵教のとき、文政九年(1826年)四月二十五日、オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの帰途、善性寺を訪ねている。その時の見聞が「シーボルト江戸参府紀行」に次のようにしるされてある。「かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見物せり。」云々とある。・・・と記されていた。

そこから100m進むとT字路の突き当たりで、街道はここを右折。カーブミラーの脇に道標(写真右下)があり、正面には「東海道 やせうま坂」、右側に「中仙道 でみせ」、左側に「金勝(こんぜ)寺 こんぜ」と書いてあった。

狭いが車がよく通る街道を、道なりに左にカーブ。少し先の右手に東海道 一里塚の石柱を発見した。ここは「目川の一里塚」と呼ばれていた所だ。近くの説明看板によれば、街道両側にあったここの一里塚には、椋の木が植えられていたらしい。

「専光寺」を過ぎると、右手に「田楽発祥の地」と書かれた大きな石柱があった。ここは目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡だ。・・・東海道を往来する旅人の休憩場所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。・・・なお、横には「従是西照領」と書かれた石柱も建っていた。

ちょっと先には目川田楽 古志゛ま屋跡の石柱があった。ちなみに江戸時代には目川立場の菜飯田楽は、全国ブランドだったらしい。なのに現在、その一軒もこの地に無いのはちょっともったいない様な気がする。

そしてその先に目川田楽 京いせや跡の石柱。この地にあった田楽茶屋は以上三軒だったらしいが、店があった場所は「目川村」では無く、三軒共隣村の「岡村」に存在していた様だ。

街道はその先で右へと90度カーブし、「東海道新幹線」のガード下を潜っていた。遠くに「JR草津駅」近くの地上25階建「クサツウエストロイヤルタワー」が見えてきた(白い壁の家と、黒い屋根の家の上方)。このビルは普段時々見ているが、「草津駅」を示す道標的はビルなので、いよいよ地元まで来たんだという実感が湧いてきた。

少し先の右手に石柱があった。「従是東照領」とある。

そのすぐ先右手には、民家の垣根に隠れるように史蹟 老牛馬養生所阯の石柱があった。説明看板には・・・栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年(1841年)四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。・・・と書いてあった。江戸時代にも、お金を掛けてそういう施設を造った人がいた事に感心させられた。

少し歩くと「草津市」の標識が。その先を左へ上る道を歩き、「草津川」の堤防へと上った。

木で見えにくいが、下に「国道1号線」が見えた。この付近の「草津川」も天井川で、国道がトンネルを潜っている。ここは時々車で通るが、その度にここを歩くのは何時になるのだろう?ここまで歩けるのだろうか?と思っていた。しかし今現実となってこの場所を歩いている。感動的だ。

目の前を見ると橋が架かっている。ここを渡り左岸へと進んだ。

渡った後右折し、堤防から離れて坂を下った。この辺りから草津宿だったらしい。

その下り初めの右手には「高野地蔵尊」(写真右)と左手には常夜灯道標が建っていた。引っ越ししてからこの付近に来た事が無かったので、大きな常夜灯にはビックリした。・・・草津宿の江戸方の入り口でありました草津川の堤上建つ火袋付石造道標です。総高は約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816年)3月に建てられました。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました。・・・

道は茶色のカラー舗装となり、前方にT字路が見えてきた。「東海道」と「中山道」の追分だ。

東海道はこのT字路から左へ直角に曲がる。右の角には常夜灯道標がいつもの様に建っていた。このサイトの「旅のきっかけ」にある道標だ。文字は「京」から「江戸」に向かって書いてあるので、「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」となっている。・・・多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化13年(1816年)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので高さは一丈四尺七寸(4.45m)で火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。・・・

常夜灯の道を隔てた前には高札場がある。
私は現在ここ草津が地元になっているので感動が少ないが、江戸時代江戸から歩いて来た人達はこの追分まで来ると、何か感じただろう。また、現在の旅人も大きな感動があるだろうと思う。

そして右手は現在「草津川」を潜るトンネルとなっているが、ここから「中山道」が別れて先に延びている。

左に曲がるとしよう。すぐ右手に史跡 草津宿本陣の建物が見える。11月なので丁度綺麗な菊が、沢山並べられていた。なおここは、「田中七左衛門 本陣」と言われていた。

私がこの旅を思い立った地にやって来た。草津市に引っ越ししてこの本陣を見学し、表に通る本物の「東海道」に感動した事から始まったのだ。歩くのが苦手な私が、まさか本当に「日本橋」から歩いて来れるとは・・・涙は出なかったが、感慨深いものがある。
さて、ここでお昼を回ったので、「JR 草津駅」方面へ向かい昼食としよう。


石部宿〜草津宿の地図