50.水口宿〜石部宿



常夜燈も石碑も、やたらとデカイ!



2006.10.28.(土)  天気 : 快晴のち曇り
水口宿〜石部宿の地図






今回は久しぶりに鉄道を利用。「JR瀬田駅」から東海道線・草津線を通って「JR貴生川駅」へ。そして前回同様近江鉄道で、ここ「水口石橋駅」へとやって来た。8時54分快晴の中、出発!

踏切付近から東海道を歩き始めると、すぐ右手に曳山の山蔵があった。水口神社の祭として4月19日・20日に、曳山が巡行されるらしい。ここは天王町の蔵で、水口には曳山は全部で16基あるらしい。

踏切から約240m付近で街道は右折する。目印は左手にある「湖東信用金庫」だ。その右折場所の鉄柱に「東海道案内図」というのが掲げられていた。この場所は水口城天王口跡らしい。・・・江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南でふたたび当初の道に戻りました。「天王口」の名は、天王町の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。・・・

「東海道案内図」にあった様に130m程歩くと突き当たりとなっていて、ここを左折して先へ進んだ。

そこから約150m歩くと左手に「心光寺」があったが、境内に大きな木があるのが見えたので、ちょっと寄る事にした。見てみると大きなイチョウの木であった。2本あり、1本は雷にやられたのか途中で切ってあり、その脇からまた上へと伸びていた。ちょっと変わった格好の大木が青空をバックに立っていると、とても絵になる気がした。

100m街道を歩いて、ここで一時中断。折角なので「水口城」を見に行く事に。左折して進むと左手に石柱があった。巌谷一六先生旧居跡と書いてあった。調べてみると、明治時代に貴族院議員になった人で書家としても有名だったらしい。

そしてしばらく歩くと一部復元された水口城跡が見えてきた。新しいのがチョット気になるが、お堀にも鏡の様に姿が映って、とても綺麗だった。

再び街道へ戻り、続きを歩いた。120m程で突き当たりを左折、そこから100m先のT字路を右折した。(写真右方向から左斜め上方向)その曲がり角には水口石(写真左下)というのがあった。・・・東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。・・・

160m歩き右手奥を見ると、真徳寺表門が見えた。・・・当寺の表門は、もと水口城の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築したものである。寺院の表門に改めた際、かなり手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷遺構の一つとして貴重である。・・・

その先200mで右手に「五十鈴神社」、そしてすぐT字路となっている角に一里塚跡があった。ここは、「林口の一里塚」と呼ばれていたらしい。・・・林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。・・・

街道はT字路を左折し、50m先の信号ですぐ右折していた。なお信号付近に「西見附」があったらしい。そしてすぐ右手に「妙沾寺」というお寺があったが、街道から立派な髭題目が見えたので、珍しく思いデジカメ撮影した。

信号を右折した場所から190m歩くと、左手に「美冨久酒造」という造り酒屋があったが、縁台に「てくてく」と書かれたラベルが貼られた一升瓶が置かれていた。春(2006年)にNHKで放送された「街道てくてく旅」際に造ったものなのだろう。

真っ直ぐな道をしばらく歩くと、街道左側にそんなに古くない松並木が見えてきた。新しく植えられた物の様だ。説明看板もあり、タイトルには「北脇縄手と松並木」とあった。・・・東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としてことにちなむと考えられる。江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に清掃場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。・・・

少し歩いて、ふと左手を見ると四阿があったので休憩した。時刻はちょうど10時だった。看板があり見てみると、「三世代北脇 湧遊(ゆうゆう) せせらぎ広場」と書いてあった。小川を取り戻そうと整備されたらしい。

街道を歩き始めようと思ったら、お地蔵さんらしきものが5体屋根付きで並んでいた。よく見ると、よだれかけには、車に乗った男女がシートベルトをしている絵が描かれていた。めずらしかったので、デジカメに収めた。

「柏木小学校」を過ぎ少し行くと、右手の「JA甲賀 柏木支所」前に「時の鐘」のモニュメントが建ててあった。モニュメントの側面には、広重の水口宿の浮世絵等が描かれていたが、何故「時の鐘」がここにあるのか、理由は不明だった。

800m歩くと右へ行く道の角に道標があった。「従是山村天神道」と書いてある様だが、年号は、「宝暦十二壬午年三月」とも読めたので、西暦1762年の物の様だ。

その先には古い家があり、鬼瓦部分に鯉が二匹。おそらく火事除けの御守りで水に関する魚となったのであろうが、これも珍しかったのでデジカメでパチリ。それにしても、今日は変わった物をよく見かける日だ。

少し歩くと、また先程見かけた様な「松並木」があった。ここも後から植えた物だろうが、20年・30年と大事に育てて欲しいものだ。

その先の左手に橋があった。「泉川」に架かる「舞込橋」。橋の左には田舎の家の大黒柱の様な太い木の道標があった。橋の先は「横田渡」と書かれていた。橋を渡って街道を進んだ。

右手に一里塚が見えた。説明書きに泉一里塚と書かれていて、モニュメントとして整備されたとある。また、当時のものは現在地よりやや野洲川よりのあったらしい。

もう一度小さな川を越えると、県道の先に公園風の整備された横田渡が目の前に見えた。・・・鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、三月から九月の間は四艘の船による船渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。・・・

そしてとても大きな横田橋常夜燈が目を引いた。・・・文化初年より村人が義金を募り文政5年(1822年)、近在の石工にこの燈篭を造らせ燈台の役目をなさしめた。自来、東海道を往来する者も迷うことがなくなった。この燈篭は、高さ10.5m、笠石2.7m四方で、周りは7.3mの玉垣を築いており、本郡石造品では最大のもの。・・・抜粋ではあるが、説明看板にそうあった。しかしタイトルには「横田橋常夜燈」と書かれていたが、内容は江戸時代の渡の事なので、「横田渡常夜燈」と書いていないのか変に思った。また、ネット上の「甲賀市観光協会」の説明には、「総丈7mを超え」とあった。

川に近づくと、明治24年に架けられた板橋の橋台が当時の姿で残っていた。11時、写真を一通り撮り終えた後、10分程ここで休憩した。

休憩後「県道535号線」を左へ進んだ。(歩いて来た街道から見れば右方向。)430m進み「国道1号線」を左折。その「泉西交差点」に「湖南市」の標識があった。また一歩「三条大橋」に近づいた事を実感した。

「横田橋」を渡るため、ここで国道の右側を歩く。「国道1号線」のバイパスを潜り左へカーブ、そして「横田橋」の歩道専用橋を渡った。右手を見ると旧橋の橋脚跡らしき物が見えた。また遠くに三上山(近江富士)が小さく見えた。

「野洲川」を渡り終えると歩道専用橋は階段となり、そこを下った後、国道の高架下を潜って左へと歩いた。余談になるが、三重県に住んでいた頃で、もう15年位前に「名神高速道路・竜王インターチェンジ」へ向かう時この辺りを何度か通った事を思い出した。

高架を潜ると十字路。真っ直ぐ行くとすぐ「JR草津線・三雲駅」、東海道は右折になる。しかし渡し場があった場所は左折してもう少し行った所になるので、まずそちらを見に行く事にした。所で先程から胸にゼッケンの様な物を着けた、オジさんオバさんを見かける。しかし東海道には関係無さそうだったので、少し気になりながらも渡し場方向へと歩いて行った。

200m進むと左手に横田の渡し 常夜燈を発見。対岸のそれと比べるととても小さかった(対岸のが大きすぎるのだが・・・)し、形も違っていた。そしてもう少し先へ進み、対岸の常夜燈を探して見たが、残念ながら見えなかった。

常夜灯まで戻り左折、「県民花の森 天保義民の丘」へ向かって見た。途中「新海道」の石柱が建っていた。この石柱は手元の資料によると、前は先程対岸の常夜燈を探しに行った付近にあった様だが、いつしかここへ移されたみたいだ。明治時代に橋が架けられて、新しい東海道と言う意味で「新海道」なのか?

そして坂道を上って行くと探していた天保義民之碑があった。しかし、とてつもなくデカイ!・・・天保13年(1842年)10月14日、幕府の命によって検地を始めた勘定役市野茂三郎以下40余名の苛酷な測量に対して農民の怒りは大きかった。三上村の庄屋土川平兵衛や甲賀郡内の各村の庄屋たちも相談し合って農民らと力をあわせその検地を停止させた。「十万日の延べ」の証書を得た一揆の農民は大聲をあげて喜んだ。その後、事件に中心人物として80余名の取り調べはきびしかった。獄舎中で次々と死んだ者もあったが首謀者としての11名が江戸送りとなった。街道には農民の多くが涙を流しながら見送り、別れを惜んだ。うち江戸へ着いたのは8名であった。死ぬまで市野不法を訴え、庶民の正しさを申したてたという。その後、明治となり罪人の名を大赦し、相続をみとめた。明治31年5月20日に「天保義民」の碑を現在の地に建立した。・・・

再度常夜灯へ戻り、川を渡ったつもりで街道を歩き始めた。

「JR 三雲駅」前の交差点まで戻り、右の角を見ると「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」と書かれた石碑があった。こんな所に墓があるのか?と思ったら横に「妙感寺 従是二十二丁」とあった。お寺に墓所があるのだ。

そしてすぐ先右手に、明治天皇聖蹟があった。
時刻は12時になったので、食事にしよう。この付近まで来ると、少しばかり地理が分かる。この先少しずつ国道から離れて行くので、食べる所が無くなって来る。国道に「和食さと」の看板が見えたので、そこで食事をした。そう言えば、ここは前に妻と食べに来た事がある店だ。

12時40分、街道に戻り歩き始めると、中学生達がゾロゾロ歩いていた。食事する前にも見かけたが、何なのか?三雲駅付近にいた人と同じ様な物を見に着けている人が居たので聞いてみると、中学生の学習の一環らしく、長距離を歩いているらしい。初めは私と同じ様に東海道を歩いているのかと思ったら違った。
さて話しは戻って、昼食後街道歩きを再開した場所から約320m歩いた所の「荒川橋」を渡ると、左手に石碑が3つあった。

そして、近くに「常夜燈」が建っているのも見つけた。

橋から400mちょっと歩くと左手に「JR 草津線」の踏切が見えた。ここを渡り街道はすぐ右折だ。そう言えば、この踏切も何度か車で通った事がある。見た事のある場所まで来ると、気分的に楽だ。

右折した所の右側に少しスペースがあり、「旧東海道」と書かれた木製の道標が建てられていた。ついでに休憩が出来る様、小さなベンチでも置いてあれば、もう一つ良かったのにと思った。

線路を右手にみながら約500m進むと、この付近ではよく見かける天井川のトンネルが見えてきた。この川は「大沙川(おおすながわ)」と言うらしい。なお、この「大沙川隧道」は、明治17年滋賀県で初めて造られた道路トンネルで、石造道路トンネルとしては、国内で最古らしい。
(2009年3月に、トンネル入口付近の石積みが、老朽化のためコンクリートブロックで補修されてしまいました。)

トンネルを潜って左側に、弘法杉が見えた。・・・大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹令約750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたがのが芽を出したとの説がある。その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安政2年(1773年)の台風でそのうちの1本が倒れたともいわれている。・・・
また、弘法大師錫杖跡と書かれた石碑もあった。そして川が見える所まで上ってみたが、水は一滴も流れていなかった。

そこからは「西往寺」や「盛福寺」の横を通り、のんびり街道を1200m程歩く。すると左手の「湖南市立 夏見診療所」前に夏見立場と書かれた木札が建てられていた。

250m歩くと右手に「新田道」の石碑。この先の「国道1号線」との交差点は「夏見新田」となっている。年代は分からないがその新田への道だろう。

街道はと言うと、ここも天井川となっている「由良谷川」を潜る「由良谷川隧道」が目の前にあった。

隧道から「子安地蔵尊」と読める石碑や「飯道神社」の道標らしき石柱を越え650m程歩くと、左手に「北島酒造」が見えてきた。ここの銘柄は「御代栄(みよさかえ)」と言い、とても美味しいらしい。

100mちょっと歩くと今度は普通の川が流れていた。「家棟川(やのむねかわ)」と言うが、ここも昔は天井川だったらしい。近くに昔掛かっていただろう川名(写真右下)が書かれた石が置かれていた。

そして橋を渡って右手に細長い、比較的新しそうな「常夜燈」もあった。

この辺りを歩くと、ベンガラ塗りの赤い家をチョコチョコ見かける様になってきた。13時55分、「大池町」のバス停でベンチを拝借して暫し休憩をした。

10分後また歩き始める。「地蔵堂」の道標(写真左)や、「髭題目」を見ながら歩を進めた。

しばらく歩くと、また橋を越える。「落合川」に架かる「落合川橋」で、渡った左手を見ると「これより石部宿」と書かれた木の標識があった。やっと「石部宿」の入口に立ったのであった。

「石部東交差点」を越え歩いて行くと、やがて左手に「吉姫神社」の鳥居があった。神社名が金文字で書かれていたので少し期待をして中に入って見たが、本殿は以外とこぢんまりとしていた。

宿場内は昔の街道という雰囲気を醸し出している細い真っ直ぐな道が続いていた。ここも時代に取り残されたという感じで、街道上に人っ子一人も見かけなかった。

やがて県道と交差する、「石部中央交差点」に出た。左手には御高札場の木札が建っていた。そしてそこは白壁で囲まれた「道の辺広場」というポケットパークとなっていて、四阿もあった。手持ちに地図が風で飛んでしまい冷や汗をかいた、あの「土山今宿」にあった公園によく似た造りになっていた。

200m程歩くと左手に昔風の建物に似せた「いしべ宿驛」と看板に書かれた建物があった。観光客や歩く旅人の休憩施設の様だ。表に並ぶ自転車を見てイヤな予感がしたが中に入ってみた。すると案の定、近所の子供達の遊び場に占領され、騒がしい声で休憩出来る状態では無かった。誰が使ってもいい場所だからダメとは言えないが、観光客が使える様もっと管理をして頂きたいと思った。

すぐに外に出て歩き始めると、すぐ先に(街道左手)石部本陣跡の石柱を見つけた。そしてお馴染みの明治天皇聖蹟の大きな石碑も後方にあった。このにあったのは「小島本陣」で、代官屋敷のあとに創建されたらしい。
到着時刻は午後2時58分、仮のゴールだ。ここからもう少し、「JR石部駅」まで今日は歩かなくてはならない。

180m歩くと左手に「真明寺」へ繋がる細い路地があった。境内に「芭蕉句碑」があり、「つつじいけて その陰に 干鱈さく女」と刻まれている。しかし石碑の字は、年数が経っている為か読めなかった。

街道へ戻り70m歩くと三差路になっていたが、東海道は右へと曲がる。その曲がり角に「田楽茶屋」があった。ここで休憩する事にし、中に入ったが誰もいない!軽食か最悪でも何か飲み物でもあるかと思ったが見当はずれだった。

15分休憩をした後、出発。200m歩くとまた三差路となっていた。「旧東海道」の道標に従い、ここを左折して進んだ。この付近は枡形となっていて、江戸時代の道である事を物語っていた。

枡形を曲がるとすぐ民家前に、一里塚跡を示す木の標識が建っていた。

そして少し歩くと、「石部西交差点」の公園に見付の標識があった。ここは「西見付」となるが、今から思うと宿内に入る所で、この標識は見なかった気がする。「東見付」は気づかずに通り過ぎたのだろうか。

「三上山」を正面に見ながら400m程歩くと、やっと「JR 石部駅」へと繋がる道まで来た。(車が出て来ている所。)午後3時半を回った所だが空は曇り空で、だいぶ夕暮れの様相を呈してきた。今日はここで東海道とお別れし、右折した。

駅前には公園風の場所があり、冠木門などが造られていた。この駅から「JR 草津駅」まで約10分、そして乗り換えて最寄りの「JR 瀬田駅」まで約6分、だいぶ家に近づいてきた。次の宿場は、もう現住所地の草津だ。


水口宿〜石部宿の地図