49.土山宿〜水口宿



二度も人の情けを感じた。



2006.10.21.(土)  天気 : 晴れ
土山宿〜水口宿の地図






今日は車でJR貴生川駅まで来て、近くの駐車場に駐車。前回乗った「あいくるバス」で「田村神社」バス停まで来た。場所は「道の駅 あいの土山」の所だ。前回ゆっくり歩けなかった「土山宿」今回はもう一度ゆっくりと歩く予定だ。9時30分、さあ出発だ!

歩き始めると、右手の民家前に看板が掛かっていた。「お六櫛商 三日月屋」とある。お六櫛とは信濃からの旅人によって伝わったらしいが、「お六」と言う女性が作った目の細かい櫛らしい。昔は、ここ「土山宿」の名物となっていたらしいが、この先宿内を歩いて行くと、同じ名の「三日月屋」の看板が何軒か目にした。「お六櫛」と言えば「三日月屋」だったのだろうか。

その付近の左手には「生里野地蔵堂」があり、横には「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」と書かれた小さな道標があった。

また近くには、「上島鬼貫(おにつら)」の句碑が立っていた。・・・上島鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西に鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686年)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向う時に詠んだ句である。・・・

そしてしばらく歩いた右手に、前回立ち寄った東海道一里塚跡の石柱があり、念のため再度デジカメに収めてその場をすぐ立ち去った。

5分程歩くと「土山宿」入口となる「来見(くるみ)橋」を通過した。前回紹介出来なかったがこの橋は、白い土塀風に造られていて、宿場の様子が絵で表現されていたり、「土山茶もみ唄」が書かれていた。

左右に旅籠跡の石柱が点在していた。少し歩くと右手には石柱が3つも並んでいた。

左手には森白仙終焉の地 井筒屋跡の石柱があった。・・・文豪森鴎外の祖父白仙は、文久元年(1861年)11月7日、この井筒屋で没した。鴎外が明治33年に記した。「小倉日記」で明らかなように、森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎と江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち、この井筒屋で病のため息をひきとったのである。のちに白仙の妻清子、一女峰子の遺灰も、白仙の眠る常明寺に葬られた。・・・

少し先右手の古い民家前に、「森鴎外」が泊まった「平野屋」があった。・・・平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。・・・

左手を見ると「うかい屋」があった。「東海道一人旅」のサイトに紹介されていたので、是非訪れたいと思っていた。午前10時、店内に入ると東海道関連の商品や、民芸品が売っていた。奥を覗くとコーヒーが飲めそうだったので注文した。コーヒーを飲みながら周りを見回すと、本棚に東海道関連の書籍がギッシリ詰まっていた。私がいつも参考にさせてもらっている「誰でも歩ける東海道五十三次」もあった。電子書籍としていつも見ていたので、紙の本としては初めて見た。とてもデッカイ!ご主人に中山道編が出版された事や作者の「日殿言成」さんが亡くなった事などを言うとご存じじゃ無い様子だった。また江戸から京に向かって歩いていて途中で東海道を歩く旅人と何度かお会いした話しをすると、大概は西に向かって歩くので、多くの旅人と会おうと思えば東に向かって歩いた方が良いと教えてもらった。40分ほど休憩後、旅を再開した。

2軒先に前回写真撮影をした二階屋脇本陣跡があったが、改装工事中で前回と外壁が変わっていた。

右奥を見ると東海道伝馬館があった。中に入ってみると、土山宿のミニチュアや、大名行列や問屋場の様子が人形などを使って再現されていた。

なお街道からの入口付近には、問屋場・成道学校跡の石碑があった。明治時代に廃止された問屋場は、その施設が成道学校として利用されたらしい。

少し先には問屋宅跡の石柱があった。・・・近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人で、問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことである。土山宿の問屋は、北土山村・南土山村の両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。・・・

そして細い道を隔てて土山宿本陣が建っていた。NHKの「街道てくてく旅」で中を見せてもらっていたので、ダメ元で訪ねてみるとご主人が出てきてくれた。そして奥さんを呼ぶ様に家族の方に声を掛けてくれ、しばらく待つとそのテレビに映っていた奥さんが出てこられた。「観覧料が要りますが。」とおっしゃったので300円お支払いした。こちらとしてはお金をお支払いした方が、「見て良いよ」という意思表示になるので気が楽になり、中へと上がらせてもらった。

先程、玄関で奥さんをお待ちしている間、天井近くを見渡すと「関札」が何枚も掲げられていた。そして中へ上がって「上段の間」を見せてもらった。「宿帳」等も展示されていて、思い切ってお訪ねして良かったと思った。しかしリーフレットを見ると、本来は予約が必要と書いてあった。突然の訪問でよく見せてくれたものだ。
奥さんはお茶まで出して下さり、色々とお話しさせていただいた。「ここは家族で住みながら管理をしている」と言われたので、維持管理がとても大変だろうと思った。事実、私が現在住んでいる草津市の本陣は、市が運営している状態だ。観覧料が300円だったが、それでは少なすぎるのではないのか思うくらいだった。(観覧券に写真撮影不可となっていたので、リーフレットの写真を表示しています。)

気がつくともう12時。またまた30分も話しをしてしまった。お昼ご飯の時間なのでご迷惑をお掛けしてしまい、慌てておいとました。「本陣」横には明治天皇聖蹟の石碑があり、その横には大正時代の仏教哲学者の井上圓了(えんりょう)博士の漢詩碑も建っていた。何でも大正3年に博士が訪れた時、明治天皇がここに泊まられたその日が偶然即位後最初の誕生日で、住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事に感激し、詠まれたものらしい。

林羅山の漢詩の石碑を見ながら進むと、先程の本陣から約170mで右手の公園内に大黒屋本陣跡の石碑が、そのすぐ左に土山宿問屋場跡の石碑が並んで建っていた。ちょっと離れた左にも高札場跡の石柱があった。
大黒屋本陣・・・参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。・・・

70m進むと橋があった。「大黒橋」と言う名だが、ここも白い土塀風になっていた。

その近くには土山宿陣屋跡の石柱があり、危うく見逃す所だった。

橋を渡って左手の奥へと進んだ。「常明寺」へ寄るためだ。境内にある芭蕉の句碑「さみだれの 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかむ」を見るためだが、残念ながら見つける事が出来なかった。しかし、今日は天気がいい!

街道に戻り、この前はバスに乗るため急ぎ足で歩いた道を、のんびりと歩いた。茶色の舗装道路を歩きながら、これでもかと立ち並ぶ昔の屋号の看板や旅籠跡の石柱を見て来たが、370m程で土山宿の出口に着いてしまった。写真は振り返って写した物だが(京都から歩いて来ると入口となる)、小公園風に西からの旅人を迎え入れる体制が整っていた。

街道は宿場を出た所で「国道1号線」に合流、そして50m程先の右手に入る道に御代参街道の起点があった。ここは「多賀道」とも言い、公卿達が「多賀神社」や「伊勢神宮」へ向かう時に使った道らしいが、江戸時代には代理の人達が通ったので「御代参街道」となったらしい。

近くには古い道標が2つ建っていて、左が「たかのよつぎかんおんみち」、右が「右 北国たが街道 ひの八まんみち」と書かれているらしい。
(なお、後日「国道1号線」の歩道拡張工事の際、後ろの建物が取り壊され、駐車場になったもようです。)

またそこから約50m国道を進むと、右斜めに入る道があった。ここが旧東海道だ。入口左に「歴史の道 東海道」と書かれたレリーフ風の道標があるので間違い無さそうだ。

300m程進むと、十字路があり再びレリーフ道標が。そこに「ご注意」と書かれた案内板があり見てみると、旧東海道はこのまま真っ直ぐ行き野洲川を渡っていたらしいが、現在は行き止まりのため、ここを左折し国道左側の自転車道を通るように勧めていた。「坂下宿」手前の「鈴鹿馬子唄会館」でいただいた「近江東海道中絵巻」にも同様に書かれていたので左折する事にしたが、折角なので川辺まで旧街道を歩いてみた。
高圧電線沿いに進んで行くと、「野洲川」が見えてきた。川岸に下りてみると川幅はありそうだが、水量はそんなに無さそうだった。どうやって渡ったのか分からないが、この分だと徒歩(かち)渡しだったのかも知れない。

川をどうやって渡ったのか、反対岸はどうなっているのかと考えながらしばらく川を眺めた後、先程のレリーフ道標まで戻り、看板のお勧め通り国道へ向かって歩いた。
270mで国道へ合流、そして反対側に横断し、60m程先で国道左側の自転車道へと進んだ。220m程行くと、国道右手に「喫茶軽食 あすか」があるのが見えた。12時半も回っていたので、休憩も兼ねてここで昼食を取る事にした。
午後1時10分再出発。先程の自転車道を210m程進むと「歌声橋」が「野洲川」に架かっていた。小高いので川の景色が思ったよりも良かった。右手の国道に架かる橋を見ながら、生まれて初めての自転車専用橋(歩いて渡っているが・・・)を渡り終えた。

川の反対岸に行ってみる事にした。橋を渡ってすぐの道を右折、国道の信号を越えて進んだ。信号から300m進んだ所を右へと下り、川岸へ行ってみた。道が付いているギリギリまで行き、そして振り返ってそこから街道歩きをスタートさせた。
川が増水すれば水没してしまいそうな場所なのに田んぼがあり、道は左にカーブしながら坂を上る様に上の道に続いていた。

先程来る時には気がつかなかったが、坂を上がって上の道路に出た所の左に、小さな「鈴鹿馬子唄」の石碑があった。ここに石碑があると言う事は、東海道に間違い無いと確信した。

先程来た道は左側からだが、真っ直ぐと進んだ。80m歩くと、左に「土山宿」で沢山見かけた石碑があった。「旅籠 水口屋 跡」とある。いつも東海道を歩く前に、ネット上で東海道歩きのサイトをあちこち見せてもらっているが、この碑は見かけた記憶が無い。それにこんな離れた場所にポツンと1ヶ所だけ旅籠跡があったので、二重にビックリした。

300m程歩くと旧道は「国道1号線」を斜めに横断(と言っても国道の方が後で出来たのだが・・・)していたが、ここで少し寄り道をした。

国道を右折して進む。そしてお目当ての垂水頓宮跡の碑を見つけた。甲賀市観光ガイドによると、・・・天皇が即位するたびに伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女または女王を斎王といい、その一行が都から伊勢斎宮まで5泊6日の旅へと御出駕されます。この旅を斎王群行といい、その一つの宿泊所が頓宮です。・・・とあった。しかし、この斎王郡行は、鎌倉時代の終わりには無くなってしまったらしい。

旧街道へ戻り国道を横断すると、左手に「伊勢大路(別名 阿須汲道)」と書かれた碑が建っていた。東海道は昔、そう呼ばれていたらしい。

110m進むと茶色くカラー舗装された道に合流した。左からの道は「野洲川」を渡ってきた「歌声橋」を真っ直ぐきた道だ。合流地点に「江戸時代の東海道と近辺地図」があって、明治13年3月1日にその道に東海道の道路が変更されたと説明されていた。

そこから200m歩くと左手に「瀧樹神社 従是四町」の石碑があった。新しい家の前に、古い石碑は何と無く似合わないと思った。なお、この瀧樹(たぎ)神社には、子供が頭上に鳥の羽根飾りを付けた冠をかぶり踊る祭で、「ケンケト祭」と言うのがあるらしい。

620m程歩くと右手に鐘楼門が立派な「地安禅寺」があった。お寺の入口左側を見るとお茶の木が植えられている所に何やら石碑が建っている。近づいて見ると、林丘寺宮御植栽の茶と書かれていた。・・・御水尾法皇(1596年〜1680年)の御影・御位牌安置所建立の宝永年間(1704年〜1710年)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と林丘寺宮へ献納されていた。この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている。・・・

しばらく行くと、左手に垂水頓宮御殿跡の石柱が。えっ、ここも頓宮!?
説明書きには、・・・伊勢神宮に伝わる『倭姫命世記』によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。・・・とあった。当時は頓宮関係の施設が、とてつもなく広い場所に散らばっていたのだろうか。

午後2時10分、少し先の「長泉寺」で5分間休憩。そして300m弱歩くと右手に「一里塚跡」の石柱があった。市場の一里塚と呼ばれていたらしい。

そこから70m先左手に、田舎でもあまり見られなくなった茅葺きの家があった。現在は屋根をトタンに変えてしまった家が多くみられるが、昔ながらの茅葺きは田舎者の私にも珍しいと思った。

右手には川の近くに大日川堀割と書かれた石柱が建っていた。説明書きは橋を渡った先にあった。・・・往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。元禄12年(1699年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703年)に完成した。・・・

橋を渡ると「東海道 反野畷」の石柱があり、松並木が続いていた。一度枯れてしまったので再び植えた松らしいのだが、東海道には松並木がよく似合う。

松並木が終わりに近づくと、左手に「従是東淀領」と彫られた領界石があった。淀と言えば現在の京都市になる。こんな離れた所にも淀の領地があったのだ。

しばらく歩くと左手に新しい石碑があった。「眞風軒(しんぷうけん)」という人の歌碑だ。土山のお茶についての歌で、「土山を過ぎて即興する。採茶の時節、事怱忙(そうぼう)す。緑髄(りょくづい)の青芽(せいが)壮なり。僻郷(へきごう)に清風あり。一れん、君知るや否や、遠きに到る。紅洋黒漠として香し。」と詠むらしい。意訳・・・茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙がしく働いておられた。茶園を見ますと、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。

この付近は大野という集落だが、立場だったらしい。しかし土山宿にあったのと同じ「旅籠跡」の石柱がいくつも建っている。宿場でないと旅籠は禁止のはずだが、どうしてここにあったのか私には分からない。なお、少し歩くと右手に明治天皇聖蹟の碑が建っていた。その大きな石碑の隅には、「旅籠 小幡屋 跡」の石柱があったのでここで休まれたのだろう。

少し先で「国道1号線」に出るが、その手前右手に三好赤甫旧跡と書かれた説明看板があった。・・・赤甫は待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嵯峨上田村の宍戸霞洲に就き、教えを請うたが、晩年、家業を子に譲り、京都に上り、東福寺の虚白につき、十年余り修行され、その間、京都大阪の諸大家と交わった。その後、郷里に帰り、後進の指導をなし、この地方の俳諧の基礎をきずかれている。俳著に「窓あかり」がある。 碑銘 「ほととぎす 早苗に影を のこし行く」・・・
しかし、近くにその石碑が見当たらなかった。代わりに、「三浦赤甫先生をしのんで」と書かれた石碑があった。

街道は国道を挟んで斜めに続いていた。歩道橋を渡り先へと進んだ。最初は少し高い所を歩くので、左下に国道を見下ろしながら歩いた。そしてしばらく歩くと、田んぼの他に茶畑も所々に見えた。

1.6km程歩くとやがて「大野西交差点」に出て、今度は国道を左に渡り、斜め左に続く「県道549号線」を歩く事になる。近くに松や灯篭に囲まれた「東海道 土山 今宿」の新しい石碑があった。

信号を渡るとすぐ「甲賀市水口」の道路標識があった。そしてその先すぐ左手に大きく縦に「水口宿」と書かれたモニュメントがあり、そのには和風公園風の休憩場所があった。
時刻は15時20分、ここで休憩を取ったが、自転車に乗った男性に道を聞かれた。「東海道はこの道でいいのですか?」自転車は普通の自転車で、サイクリング仕様では無い。聞いてみると東京方面から自転車で旅をして来たらしい。見るからに私も旅人なので、ここから先は道を確かめながら歩いて行くため、地図上しか分からない。そんな人に聞いていいのだろうか?そして普通は旅をしている事を先に言ってから道を尋ねると思うのだが、いきなり質問・・・「この道ですが、旧道はこのすぐ先で右の方へ入って行く様ですよ。」と言ったら、ここまで走って来たのはほとんど国道で、きっちりで無くてもいい様な返事でそのまま県道を走って行かれた。旧道にこだわる私には理解出来なかったが、私がこだわりすぎなのか???

休憩中にもう一つアクシデントが。座りながら歩いて来た道の地図をしまって、これから歩く分を整理していたら強風にあおられて地図が飛んで行ってしまった。休憩所横の白い塀を越えて行ったので、それこそこちらが道に迷う!慌てて塀の外へ回り込み、落ちていた地図を必死で捕まえた。そんなこんなで休憩時間は20分間にもなってしまった。
気を取り直して再出発!すぐ先のタイヤ屋さんを過ぎた所で右へと入り、旧道を歩いて行った。

400m程歩くと木が植えられた今在家(いまざいけ)一里塚跡が左手に見えてきた。説明書きを見てみると、明治維新後に撤去されたのを再現した物の様で、実際の場所はこの近くにあったらしい。

街道は「一里塚跡」のすぐ先を左に曲がり、木製の塀の家を右手に見ながら少し下ると、先程の県道へと合流していた。
県道を右方向へと歩き、「街道を行く」の碑を探したがなかなか見つからない。ウロウロしていると、近くの家の窓が開いて、「何かお探しですか?」と聞いてくれた。碑を探している事を伝えたが、残念ながら知らないとの事だった。少し戻って見るとあった!見過ごしてしまった様だ。石に字が彫られているのを想像していたのだが、見てみると石に看板を貼り付けた様な碑で少しガッカリした。しかし、親切に声を掛けてもらったので少しも落ち込まずに旅を続けた。

旧道は、すぐ先を再び右斜めへと続いていた。右手に「宝善寺」を見ながら500mで、また県道に合流していた。

120m程で旧東海道は、右斜めへと進む事を記した比較的大きな看板が建ててあった(写真右)。これは分かり易い!車からでも良く分かる看板だ。道路標識や静岡県の夢街道碑を除いて、今までで一番分かり易い看板だと思った。
そしてそのすぐ横には「岩上不動尊 岩神社 参道」と書かれた石柱があった(写真左)。近くには、例の「街道を行く」碑と同じ造りの「岩神のいわれ」と書かれた説明碑もあった。・・・かつてこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政9年(1797年)に刊行された『伊勢参宮名所図絵』には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣のあったことを記しています。・・・

看板の通り、この先を右斜めへと進んだ。これで県道とはお別れだ。

左の「永福寺」や右手の「八幡神社」を遠くから眺めながら歩く。その先にはコスモス畑もあり、秋の美しさを感じながら歩を進めた。すると県道と別れてから約900mで道が左右に分かれていた。一瞬迷ったが、持っていた地図と「旧東海道→」の看板を頼りに、右の「止まれ」と書かれた道に進んだ。

300m進むと右手に、「竜が丘団地」と書かれた市営住宅らしき建物があり、その前にそんなに大きくない松の木が何本か植えられていた。よく見てみると、「東海道の松並木」と書かれた説明碑もあったので、再現されたものの様だ。

この先は、昔「すべり坂」と言われていた下り坂となっていて、下りきると「国道307号線」のバイパスを横切る。このバイパスは前に三重県在住時、何回か通った事があるが、途中から有料道路となっていて、「日野水口グリーンバイパス」いう名が付いている。
その先すぐ橋があり、渡ると右手に休憩施設があった。トイレは無いが、四阿風の屋根付きベンチになっていた。ここで休憩をしたが、時計を見ると午後4時35分を回っていた。いくら天気が良いと言っても日没まで後1時間も無い。すぐに暗くなるので、5分足らずで再び歩き始めた。

120m程歩くと右手に東見付(江戸口)跡があった。宿内に入れたとので何とか日暮れまでに「本陣跡」に着けると思いホッと一安心。

110m程で「国道307号線」(バイパスで無い道)を渡り、古い家並みを見ながら旧道を右へとカーブして行く。この近くで「脇本陣」や「本陣」が分からなかったのでキョロキョロしていると、近くで遊んでいた小学生が、家の中からおばあさんを呼んできてくれた。夕げの時間に恐縮に思ったが、その辺は子供には関係無かった様だ。しかし見知らぬ旅人に、何と優しい子供だ。教えてもらったおばあさんにお礼を言って、子供の親切心に心を打たれ、先へと進んだ。

結局、看板も無いので「脇本陣」は分からなかった。しかし「本陣」こそはと思いながら進むと、左手にプラスチック製の竹塀に囲まれた小道があった。中をのぞくと石碑らしき物が見えたのでお墓の様に思えたが、入口付近に「水口宿」の説明看板があったので奥へと進んでみた。

周りを見ながら進んで行くと、あった!水口宿本陣跡と書かれた水口特有の石碑だ。午後4時47分、無事今日のゴール地点に到達した。

そして入口付近から見えていた立派な明治天皇聖蹟と書かれた石碑。近くにはもう一つ明治天皇行在所御旧跡の石碑もあった(写真左上)。

街道に戻り、帰りの電車に乗るためもう少し先へと進む。50m程歩くと道が二手に分かれている。そしてその別れ道の所に高札場を発見。地図を見ると東海道は左側の道だ。

そして80m程でまた二手に、ここは右側の道だ。「水口宿」は道が三本に分かれ平行している珍しい宿場だ。三本の道はどれを通っても良い様だが、手持ちの資料を見ると真ん中の道が東海道になっている。

190m歩くと左へ行く道との角に問屋場跡があった。ここも石碑風説明書きとなっていた。

ここから110m程歩くと右手が古い建物風のバスターミナルとなっていて、交差点の角に「からくり時計」が建てられていた。

ここから右へ曲がってちょっと進んで見ると、左手に道標があった。この少し先に「大岡寺」というのがあるが、そこへの道標らしい。ちなみにその「大岡寺」には芭蕉の句碑があるらしいが、日暮れが近づいていたし、少し坂を上らないといけないので(もう元気が無かった。)、行かなかった。

急いで街道に戻り先へ進んだ。途中、「本町商店街」と書かれたアーケードを通り600m程進むと、タイル状の石張りの道が左右から重なり一本になっていた。ここで平行して進んできた三本の道が一本になったのだ。

辺りは少し暗くなりかけてきた。デジカメも景色全体を写すのも、そろそろ限界だ。合流地点で振り返ってみると、ここにも別の「からくり時計」があった。

合流地点のすぐ先に「石橋」が架かっていた。小さい割には少しオーバーな造りの橋だった。欄干には「東海道」の文字も見えた。
そして目の前には「近江鉄道」の踏切があり、左手に「水口石橋駅」が見えた。午後5時18分、今日の旅もやっとここで終わりだ。ここから近いが、初めて乗る「近江鉄道」で「貴生川駅」へと行き、そこから朝に止めた駐車場に向かい、車で自宅へと帰った。


土山宿〜水口宿の地図