48.坂下宿〜土山宿



あまりキツく無かった、鈴鹿峠



2006.10.18.(水)  天気 : 快晴
坂下宿〜土山宿の地図






妻と平日の休みを合わせて、今日鈴鹿峠を越える。前に住んでいた「三重県」とお別れし、いよいよ現住所である「滋賀県」へと突入する。
今日はJRを「関駅」まで乗り継いで来た。三重交通バスで「関駅前」を9時31分に出発(注意!・・・2009年4月現在、亀山市営バスの運行となり、時刻も変わっています。)。途中車窓から「「筆捨山」らしき姿を発見、急いでデジカメに写した。岩肌も見えるので間違いないだろう(違っていたらゴメンナサイ。)

終点の伊勢坂下バス停で下り、9時50分出発。まず、前回立ち寄った法安寺に再度行ってみた。庫裡の玄関横に説明書きがあった。この玄関は、「松屋本陣」の玄関を明治に当時の「坂下小学校」の玄関に移築し、さらにここへ移築したものらしい。

街道に戻り、さあ出発!まず小さな「中乃橋」を渡ると、すぐ右手に石柱が見えた。小竹屋脇本陣跡だが、他の本陣と同じく周りには建物のかけらも残っていない。
鈴鹿馬子唄に「♪〜 坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや 小竹屋に 〜♪」と唄われている。大竹屋は本陣なので庶民は無理でも、小竹屋なら泊まる事が出来る。しかし、今で言う有名高級旅館であったであろうから、なかなか泊まれないが、一度は泊まってみたい・・・と言う願望が込められた歌詞だと思う。それほど有名な旅籠だったのだろう。

途中右手に、おじいさんとおばあさんの立像が離れて建っているの見ながら550m程歩くと、左側の「国道1号線」上り線に出られる場所に来た。(この付近の「国道1号線」は、上下線が別の道になっている。)その右手には立派な石碑があった。大道場 岩家十一面観世音菩薩と書いてあった。碑に向かって左側に小さな扉があったが、開いていたので中に入ってみた。

奥へ上って行くと、お堂が見えた。「清滝観音」とも言うらしいが、観音さんが安置されているらしきその建物の後ろは崖となっていて、横に水が流れる音が聞こえた。江戸時代には知名度があったらしいので、峠越えの人達は、ここで無事を祈って坂道の上って行ったのであろう。

元に戻るとすぐ先に、右手の山の中へと通じる木で土留めをした階段があった(写真左)。階段脇には木製の道しるべ(写真右)があり、一番下に「旧東海道鈴鹿峠 1.5km」と書いてあった。そう言えば、NHKの「街道てくてく旅」では、岩本さんがここから上り、山道をダッシュしている場面が映し出されていた。しかし、手持ちの資料ではここに上らず、真っ直ぐ進む様になっている。はたして旧東海道は、どっちなのか???

折角歩くのだから、出来るだけ旧道を歩きたいので、持ってきた資料と道しるべを交互に見ながらしばらく考えてみた。道しるべの上にもう一枚板が後から打ち付けられているのを見て、ハタと気づいた。そこには「R1側道500m西進 東海道」と書いてあり、真ん中上には小さく「上 東海自然歩道」ともある。正解は、「このまま真っ直ぐ進む」であった。考えてみればこの道しるべは、「東海自然歩道」の道しるべだ。だから東海道はこの階段では無いのだ。

側道は前には国道だったのであろう、とても広い道幅だ。勿論車が通る道だがほとんど通らないので、広い歩道の様なものだ。私が先程の階段部分で悩んでいるうちに、妻はドンドン先へと歩いていた(小さく写っている白い服)。あまりにも動こうとしないのであきれ返ってしまったのだろう。

妻に追い付こうと必死に歩いていくと、左に墓地が見えた。この付近では川幅が狭くなっている「鈴鹿川」に架かる小さな「極楽橋」を渡って見に行ってみると、「安政」と読み取れる石碑などが建っていた。
すぐ街道に戻り坂道を歩いて行くと、右手にコンクリート製の階段。「東海自然歩道」の道しるべも脇にあったので、おそらく先程の道はここに下りて来るのだろう。そして、「旧東海道鈴鹿峠 0.6K」と書かれていたので、案外簡単に峠越えが出来そうだと、一安心した。
その先には、右へと上る細い舗装道路があり、「片山神社」と書かれた石柱が見える。ここからいよいよ山道だ。

道幅は車1台分が通れる道で、舗装もされていた。街道の両側は杉林となっていて、実家の近くの山と同じ様な風景だ。

途中、「南無阿弥陀仏」と書かれた石があった。「宝永七歳」と書かれていたので西暦で言えば1710年だ。今から300年も前からここに存在していた事になるが、墓なのであろうか。暗い上に年数が経っているので字も良く読めず、分からなかった。

細い道に入りゆっくり歩いて約10分、目の前に片山神社が見えてきた。鳥居は木製で、古そうな常夜灯もあった。そしてやたら高く積まれた石垣が右手に目立つ。

鳥居ちかくには、鈴鹿流薙刀術発生之地と書かれた石碑があった。そこの書かれている知事は、どう見ても「三重県知事」とは書かれていない。後で、ネット上で調べて見ると、鈴鹿流と言うのは仙台に伝わったものという事が分かった。だからやはり「宮城県知事」と書かれていたのだ。しかし、こんな目立たない場所に、立派な石碑があっても、誰も見ないのではないのか?と思った。

さて、神社の中へと石段を上がって行った。すると入口からは想像できない貧相な赤い社があった。屋根はトタン張りだ。ちょっとガッカリ。「文化12年」と書かれた常夜灯もあったが、上部は取れてしまって無く、ただ石柱が立っている様な状態になっていた。「坂下宿」と同じく、廃れてしまったの一言だ。
時刻は10時50分過ぎ、石段に座ってほっこりと休憩をした。

10分間休憩後、神社前まで石段を下り、再出発。街道は「延享元年」「文化十一年」「享保二年」と書かれた「永代常夜灯」を見ながら神社前を右へと回り込み、上へと続いていた。しかし建立した当時は「永代」だと思い建てた「常夜灯」だったのであろうが、人が殆ど通らなくなった現状では「永代」とは言えない。建てた人々は、こんな哀れな姿を想像していただろうか。

街道をクネクネ曲がりながら上って行く。神社が下になって行くのが見えて、だいぶキツイ上り坂だという事が分かる。気が付くと足下は石畳になっていた。

車の音が聞こえたので上を見てみると、「国道1号線」が通っていた。街道は石畳からコンクリートの階段へと変わり、国道下を潜っていたが、クネクネと上りは変わらない。

上り切ると、広場になっていた。横には「国道1号線」の上り側が通っていた。奥に階段が見えたので、再び上り始めた。(写真の反対側方向)

すぐの所に「芭蕉の句碑」があった。「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」と書かれているが、芭蕉の句集に載っていないらしい。季語が入っていないので俳句では無いが、作者は松尾芭蕉で間違い無いらしい。

そして近くには、馬の水のみ鉢というのがあった。・・・かつて街道を上り下りする人馬のために水溜がおかれていた。・・・と書かれていたが、コンクリート製で水は塩ビのパイプで引かれていた。どうせ復元するのなら、石か木で造ってもらった方が良かったと思うのだが・・・

林の中の細い道を上って行くと、シマヘビが二人を迎えてくれた。前にも書いたが、私はヘビが大の苦手だ。今日は二人なので大丈夫だったが、一人だったらブルーな気分になっただろう。
ヘビが行ったのを確認後、再び杉林の峠道を上る。道は細いと言っても人が充分すれ違える幅だ。すると2分程で木に隠れて見えないが、左手に現代の道標があった(写真左上)、どうやらこの辺りが峠の様だ。写真を撮りながら上って来たが、先程の広場から10分も経っていない。箱根越えを経験しているので、ちょっと簡単に着いた様で物足りない感じだった。

現代の道標は、左へ分岐する道の左側にあったが、右側にも「東海自然歩道」の道標があった。その左へ続く道の方には「田村神社跡 10m、鏡岩 150m」と書かれていた。「鏡岩」は、NHKの「街道てくてく旅」で映っていたので、寄り道する事にした。
東海道より細い山道を上り始めると、すぐ右手に田村神社跡があった。現在は、峠道の途中にあった「片山神社」に合祀されてしまったらしい。ちなみに合祀される前の「片山神社」は、「鈴鹿神社」と呼ばれていたらしい。

笹の隙間に人が一人通れる道を上って行くと、三重県指定天然記念物となっている鈴鹿山の鏡岩があった。・・・天下の峻険鈴鹿峠頂上の南方120mにあり、岩石の種類は珪岩。鏡岩の肌面は縦2.3m、横2m。むかし峠に住む盗賊が街道を通る旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたという伝説から俗称「鬼の姿見」ともいう。・・・
しかし岩はゴツゴツとしていて、どう見ても鏡の様な部分が見当たらない。確かに盗賊が隠れる事が出来る大きな岩ではあるが、街道からは少し離れすぎだ。説明看板の通り、伝説として受け止めて置こう。

岩の端に細い道らしきものが付いていたので、岩の上に上ってみた。こわごわ覗いてみると、とても景色が良い!遙か眼下に「国道1号線」が見えた。車がマッチ箱の様に見え、ミニチュアが動いている様だ。ここで景色を見ながら、暫し休憩を取った。時刻はちょうど12時だった。

街道に戻り先へと進むと、小さなお地蔵さんがあった。昔からあった様な感じだ。ここで多くの旅人を見送ってきた事だろう。

杉林を抜けた所に県境の道標があった、昔で言えば国境だ。生まれてから最近まで住んでいた「三重県」から、今住んでいる「滋賀県」へと入って来た。ここから京までは十七里、もうゴールがすぐそこだ。

「滋賀県」に入ったとたん、景色は杉林から茶畑へと変身した。こんなに分かり易い県境も珍しいのではないか。

近くには「東海道」の道標や、「歴史の道 東海道」と書かれたレリーフなどが賑やかに立っていた。道は地道だが、車の通った轍(わだち)が見えた。

しばらく歩くと大きな常夜灯があった。万人講常夜燈だ。・・・江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ38t、高さ5m44cmの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。・・・

この周辺は公園風になっていて、トイレやベンチもあった。そのベンチには、自転車でここまで乗ってきたお兄さんが、横になって昼寝をしていた。また、東海道にちなんでだろうが、松の木も植えられていた。「東海道ネットワークの会 第一回 記念植樹」と看板に書かれていた。松並木となるよう、大きく育ってほしいと思った。

先程休憩したばかりなので、ここはこのまま進む事にした。道は下り坂になり、その先は右側に走る「国道1号線」の下り線と合流していた。坂を下りながら振り返ると、「鈴鹿トンネル」の滋賀県側出口が大きく口を開けていて、その上辺りに先程の常夜灯が見えた。地図上ではもう滋賀県に入っている訳だが、坂の途中に「滋賀県」「甲賀市」の道路標識が上がっていた。

国道に合流すると、上下線に分かれていた1号線も、すぐに隣同士に合流した。ここからしばらく国道を歩く事になる。途中人用の横断トンネルがあり、右側に渡り青空を見ながら坂を下って行った。

途中ふと足下を見ると、国道に水道管が敷かれ、所々水の吹き出し口があった。冬になると雪が積もるので、それを溶かす物の様だ。ここは雪国では無いが、さすが「国道1号線」だと思った。
「山中信号」を越え、左手に「熊野神社」の鳥居を見ながら坂をドンドン下る。気が付くと、人家がアチコチに見えた。国道の標識には「東京より435km」の文字、当然旧道との道のりと一致しないが、それにしてもこんなに歩いてきた自分に感心してしまった。

国道に合流してから約1.8km歩くと、左手に「十楽寺」があったので休憩のため寄ってみた。門の前には古そうな「永代常夜燈」がひとりでぽつんと立っていた。時刻は13時を少し回っていた。

10分程休憩をさせてもらってから歩き出すと、すぐに山中城跡の石柱が草むらの中に見えた。この城は、鎌倉時代にあったらしい。

国道を再び歩き始めると、前方空中に道路が見えてきた。今建設中の「第二名神高速道路」だ。(正式名称は「新名神高速道路」となり、2008年2月に写真の区間を含め一部開通した。)

右手に見える数軒の民家が途切れた辺りから、東海道は国道から離れ、右手の旧道へと続いていた。すぐ小さな橋を渡ると、右手に小公園があり、休憩出来るベンチも備わっていた。公園内には「鈴鹿馬子唄」の歌碑もあり、「東海道鈴鹿 山中」と書かれた石碑や、新しそうな石燈籠などが並んでいた。

民家の間を進むと、すぐ右手に「地蔵堂」があった。中を覗くとドラえもんの衣装をまとったお地蔵さん(らしき)が奉られていた(写真左上)が、何せ地蔵さん全体をくるんだ様に着せられていたので、さっぱりお顔が見えない。堂の両側に立っていた常夜灯から察すると古そうに思うのだが・・・古いお地蔵さんが現代のアニメの衣装にくるまれているのは、失礼ながらとても滑稽思え、こちらの顔がほころんでしまった。

街道を歩いて行くと、頭の上に高速道路がドンドン近づいてきた。旧東海道より、最新の東海道の方が気になってしようがない。
真下辺りまで来ると、モニュメントが立っていた。説明板には、「第二名神」滋賀県起工の地とあり、説明文には・・・平成7年12月18日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部土工事が第二名神の滋賀県での最初の工事として着工されました。当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に栄えてきた”あいの土山”の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します。・・・とあった。
この街道をこれから歩く人々は、頭上の高速道路を見上げ、またこの記念碑を新たな道標として歩く事になるのだと思った。

そのすぐ先右手には、山中一里塚公園と書かれた石碑が立っていた。ここは江戸から109番目の一里塚があった場所らしい。他にも「鈴鹿馬子唄之碑」や、それを形にしたモニュメントなどもあった。

そして近くには櫟野観音道 道標が立っていた。・・・山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村・櫟野村方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白の「盡十方(つくすとも)世にはえぬきや大悲心」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。・・・

国道を左に渡り、車がやっと一台通る坂道を見つけ、上がって行った。数軒の民家横を通り抜けるとコンクリート会社に突き当たった。この先旧道は歩けないので、右後ろから国道へ出る道を通り、1号線へと戻った。

国道を500m程歩くと「猪鼻信号」があり、そこを右折。右へUターンするように「県道507号線」を歩く。左にカーブすると、すぐ左へ入る道があり、そこを進んだ。途切れてしまった旧道が、ここから続いている様だ。
「浄福寺」を右に見ながら進むとすぐ右手に旅籠 中屋跡の石柱が立っていた。まだ「土山宿」は先のはずだが、なぜこんな場所に旅籠があったのか良く分からない。

そしてその左後ろに、大きな明治天皇聖蹟と書かれた石碑があった。ここで明治天皇が休憩された様だ。
街道はこの先で左へ曲がり、坂を上って「国道1号線」に合流していた。旧道はこの先真っ直ぐ続いていた様だが、現在は無くなっているので国道を歩く。
国道を430m歩き右の旧道へと入る。道は茶色のカラー舗装がなされていた。本来の旧道は左から国道を横切っていた様だ。振り返るとそれらしき道が見えた。

旧道に入りすぐ右にあった「白川神社御旅所」となっている「榎島神社」で10分程休憩し、午後2時40分に旅を再開。民家の間を歩いていると、どこかの奥さんが「お茶でもどうですか?」と声を掛けてくれたが、先を急いだのでお断りした。工場の通路らしき下をくぐり進むと、草むらに隠れた小さな蟹坂古戦場跡の石碑があった。説明看板には・・・天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防御体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。・・・とあった。

「蟹坂古戦場跡」の説明看板は、杭の部分が朽ちて倒れていたので、写真撮影後また元の様に置いてその場を後にした。
手持ちの資料によれば、街道はこの先の「田村川」で行き止まりとなり、一旦国道へと出なければならないと書いてあったが、なんと!新しく橋が架けられていた。元々の橋の名は「田村永代板橋」と言ったらしいが、復元された橋は「海道橋」となっていて、前年の平成17年3月に架けられたものだ。時代が進むに連れて、古い物が段々壊されていく中で、昔の橋を再建されていたのを見て、とても感激した。「広重」の浮世絵、土山・春之雨が蘇ったのだ!!

橋を渡ってアスファルト舗装された杉木立の中を歩いて行くと右手に、高札場跡の石柱があった。東海道は、そのすぐ先を左に曲がるが、逆に右に曲がり鳥居をくぐって「田村神社」へと寄ってみた。

奥へ進むと立派な社があり、妻と共に無事鈴鹿峠を越えられた事を感謝した。ちなみにここは、弘仁3年(812年)に創建され、「倭姫命」・「嵯峨天皇」や「坂上田村麻呂」を祀っている神社だ。

来た道を戻り、そのまま真っ直ぐ進むと「国道1号線」に出た。車の交通量が多いので、歩道橋が架けられていた。長い道のりを歩いて来たので足が重いが、何とか国道の反対側に渡った。左手には麦芽糖から作る、名物「かにが坂飴」を売る店があったが、残念ながら閉まっていた。
逆の右手には「道の駅 あいの土山」あるので、そこで休憩することに。鈴鹿の山を無事越えたので、ゆっくりと休憩する事にした。少しお腹が空いてきたので、夫婦二人でうどんを食べた。少し身体も冷えていたので、ほっこりとできた。

「道の駅」午後3時20分頃から約1時間も休憩してしまった。ちょっと、ゆっくりし過ぎ・・・今日のゴールは「土山宿」の「本陣跡」と決めているので、急がねば。午後4時20分慌てて再スタート!
街道は、先程の「かにが坂飴」の売店と「道の駅」の間の道だが、すぐに右へ直角に曲がっていた。その場所には「土山宿」のイラスト看板や、「東海道 土山宿」と書かれた石のモニュメントなどがあった。そこから歩幅を広め、ピッチを上げて歩いて行く。途中に朝顔が咲いていた。こんな時期に沢山咲いていたので驚いた。

右手に「土山宿 旅籠 大槌屋跡」という石柱があった。この場所は、まだ宿場内ではないが、旅籠があった様だ。そしてその少し先の右手の民家の前に東海道一里塚跡の石柱を発見した。「土山の一里塚」と言われたものだ。

その後左右に旅籠跡の石柱を2〜3見ながら進むと、「来見橋」があり、「土山宿」へと入って行った。沢山見所があったがバスの時間が無いので次回にゆっくりと見る事とし、どんどん歩いた。すると左手に二階屋脇本陣跡の石柱が目に留まった。写真をパチリと撮り、「本陣跡」を目指した。

「問屋場跡」などがあったが目もくれず歩いた。すると大きな建物が右手に。土山宿本陣跡の石柱を見つけ、やっと今日のゴールインとなった。その後宿場を通り過ぎ、「国道1号線」に出た先の「土山西口バス停」を目指し、小走りぎみに歩いた。17時05分、無事バス停に到着した。10分程待って「甲賀市コミュニティバス」の「あいくるバス」に乗り、「JR貴生川駅」へ向かった。そしてJRで帰途に着いた。


坂下宿〜土山宿の地図