47.関宿〜坂下宿



立派な本陣が、茶畑に・・・



2006.10.15.(日)  天気 : 快晴
関宿〜坂下宿の地図






昨日に引き続き、「関」に車でやって来た。当初は次週「関宿」から「土山宿」まで歩くつもりだったが、妻が箱根越えに続き、鈴鹿越えをしたいと言い出したので、急遽残りの「関宿」から「坂下宿」までを今日歩く事となったのだ。
さてまずは、昨日日没による時間切れとデジカメの電池切れのため写真撮影出来なかった「関宿」東入口付近まで戻った。今日のスタートは東追分からだ。「坂下宿」までは約6.5kmなので家をゆっくりと出て、ちょうど12時にスタート地点に立った。最初に伊勢神宮一の鳥居をパチリ。ここは「伊勢別街道」との追分で、「津」から「伊勢街道」へと入り、「伊勢神宮」へとつながっている。江戸時代にとても多くの人々が通った道だ。「鳥居」の横には「常夜灯」も見えた。

鳥居付近をウロウロと行ったり来たりしてみると、常夜灯裏手の少し高くなっている所に、一里塚阯の石柱を発見した。「追分(関)の一里塚」だ。

今日は日曜日、時刻は12時過ぎだが人が少ない。昔風の関宿内の町中を誰もいない瞬間にパチリ。いい雰囲気の写真になった。

宿内を歩くと、隣家との境目の出っ張った壁に穴が空いていた。これは昔、馬をつなぎ止めるための手綱を通す穴なのだろうか。

少し歩くと、右手に「御馳走場」というのがあった。ここは、関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所らしい。そしてその向かい辺りに、雲林院家という建物があった(二階の窓格子が、あみだくじ状になった建物)。・・・同家は昔は「かいうん楼」と称し、隣の「松鶴楼」と並んで芸妓置店であった。街道筋の宿場ではたいていの旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。「かいうん楼」は、その代表的なもので、表の立繁格子やべにがらぬりのかもいや柱にその面影を遺している。・・・ちなみに向かって右側の商店が、「松鶴楼」だ。

そこから90m程行った右手に、三重県の地方銀行である「百五銀行」があったが、宿場に溶け込んだ造りにしてあった。ちなみにこの銀行は、私が三重県に住んでいた時、個人的にも仕事上でもお世話になった銀行である。

その斜め向かい付近のお店の一階庇屋根上に、漆喰彫刻がなされていた。向かって左に虎、右に龍が東海道を行く人々を睨み付けていた。また、向かい辺りの建物には虎の細工瓦がなされていた。

その付近から右手奥へと入って行くと、延命寺があったが、ここの山門は、明治5年に中町にあった「川北本陣」から移築されたものだ。

街道へ戻り少し歩いた左手に、「関まちなみ資料館」があり、箱階段が置いてあった。そして2階には、「川北本陣」で使われた、「有栖川親王宿札」や「高札」などが展示されていた。(入館料は、一般300円。)

斜め向かいには千鳥破風で飾られた、旧旅籠の鶴屋があった。幕末には「脇本陣」となっていた所だ。

「鶴屋」と1本通路を隔てた場所に、山車倉があった。「関の山」という言葉の語源になった関宿の山車は、最盛期には16基だったらしいが、現在は4基だけらしい。そしてその前に問屋場跡の石柱も建っていた。ちなみに「関の山」という言葉は、私が昔テレビで見聞きした記憶では確か・・・関の山車はとても立派で、これ以上の物が無いという意味で使っていたのが、いつしか限界点という意味合いに転じたと言っていた。

また、ちかくには川北本陣跡があったが、昔の建物は何も無かった。

ちょっと忙しいが今度は街道左手だ。ちょっと先の電気屋さんの看板が出ている建物の前に伊藤本陣阯の石柱が建っていた。昨日は写真が撮れなかったが、ここまで歩いた。

少し先の右手に「関宿旅籠玉屋歴史資料館」があり、中に入ってみた。入館料が要るが、先程の「関まちなみ資料館」の入館券と共通になっているので、それを提示して入った。
中に入ると帳場に番頭さんが座って出迎えてくれた(もちろん人形)。そして当時の食器・食膳が並べられた部屋があり、隣にはせんべい布団が敷かれていた。

外に出て向かいを見ると、銘菓「関の戸」で有名は「深川屋」さんがあった。看板は、屋根がついた「庵(いおり)看板」で、文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっている。ちなみにこの写真は、振り返った形で撮ったので漢字になっている。

先程の「関宿旅籠玉屋歴史資料館」は昔風の建物になっているので気が付かなかったが郵便局になっていて、その前が高札場跡となっていた。

100m歩いて右奥へと入って行くと、福蔵寺の鐘楼門があり、植えられた松の木がとてもマッチしていた。

中に入って見ると関の小万の墓があった。・・・関の小万は、若くして父の仇を討った烈女と伝えられる。15才から風雪にもめげず、亀山の道場に通って修行につとめ、武を練り、天明2年(1782年)8月本懐を遂げた。享和3年(1803年)没。・・・

街道に戻り歩き始めると左前に地蔵院が見えてきた。・・・「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院。天平13年(741年)行基菩薩の開創と伝えられています。近郷の人々に加え、東海道を旅する人々の信仰を集め、現在でも多くの参拝客でにぎわっています。・・・

境内の入口付近には、「停車場道」の石柱や「常夜灯」が建っていた。「停車場道」とは、明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として整備されたものらしい。

そして、東海道を挟んで現在「あいづや」という名のお蕎麦屋さんがあるが、ここは昔「山田屋」という旅籠だったらしい。前述の「小万」は、この「山田屋」で育ったそうだ。

ここから先は、右に「聖正寺」や「長徳寺」を見ながら街道は続いていたが、段々宿場の外れに近づいている雰囲気がした。途中、祭の準備なのか、虎や熊の人よりも大きい張り子が表に出され、10人近くの人が竹を組んでいた。
そうこうしていると、右手に観音院が見えてきた。・・・古くは「関西山 福聚寺」と言います。嵯峨天皇の御代(820年)に開創されたと言われ中世土地の豪族関氏の祈願寺として栄えました。当時は城山の西方に在り、戦国末期兵災にかかりすべてのものは消失しましたが、幸い御本尊一体は難を免れました。寛文年間に至り(4代家綱−1665年)当地にお堂を建立し「関西山 観音院」と号するようになりました。・・・

すぐ先は少し下りとなっていて、左手に休憩施設があった。関宿はここで終わりとなり、大和道との分岐点である西追分という場所だ。髭題目が建っていて、「ひたりハいか やまとみち」と刻まれていた。

この後街道は、左手の「国道1号線」と平行し、右手のテニスコートを回り込むように進み左折、そして国道に合流していた。そこから夢が覚めた様に、現代の国道を歩いた。途中左手にスーパーの流通センター(配送センター)があるだけで、道は確実に上り坂になっていた。鈴鹿峠が近づいていることが肌で感じ取られた。470m程歩くと、橋の手前を右に曲がる旧道があった。そこを鈴鹿川沿いに歩いた。

170m進むと左手に橋が架かっていて、そこを渡りT字路の突き当たりを右へと曲がった。

そこは小さな集落となっていて、家が途切れた所に、自然石の常夜灯があった。空を見ると、真っ青だった。

その先は、先程の国道を斜めに横切り、旧道は続いていた。左手に小さな常夜灯、右手に小さなお地蔵さんを見ながら小さな川を渡る。右に緩やかにカーブしながら小さな「西願寺」と数軒の民家を過ぎると、すぐ「国道1号線」に合流してしまった。

国道はやはり上り坂、右側に歩道があり、そこを歩くが他に誰も歩いていない。車で鈴鹿峠を越える人や越えてきた人は、「この人、何でこんな所を一人で歩いてんの!?」と言いながら通り過ぎているのだろうと、そう思いながら一人でトボトボと坂道を歩いた。

そうこうしていると、右手の道端(後ろ向きの撮りました。)に、「東海道シンポジウム」と「東海道 阪之下宿」のノボリを発見。「東海道歩きを応援してるよ!」と言ってくれている様で、元気が出てきた。

そのまま歩くと、右手に民家が数軒見えた。ここは大きく左カーブとなっているが、その民家の間を縫う様に旧国道らしい細い道が、現国道より緩やかなカーブを描いていた。持ってきた地図を見るとこの辺りに「筆捨山」の石柱があるはずだが・・・無い!振り返って見ると手前にもう1ヵ所取って付けた様な左カーブの細い道があった。そこまで戻ろう。
戻ってみるとそこは先程のノボリがあった場所だ。その細い道を右に入ってみると、テレビの「街道てくてく旅」で見た覚えのある場所だったが、結局石柱が見つけられず聞く人も居なかったので、残念ながら「筆捨山」が分からずにその場を後にした。

今度は見逃さない様にキョロキョロしながら歩いて行くと、右手に「国道改良記念碑」、そして少し先の左手に草に埋もれた一里塚阯の石柱を発見した。ここは「新茶屋(弁天)の一里塚」と呼ばれていたらしい。

すぐ先に横断歩道があり、旧道はここから右へと入って行く。入口付近には「東海道」の標識があり、電柱にも矢印付きの「旧東海道 これより沓掛」の小看板(写真右上)があった。これだけ丁寧だと地図を忘れても間違えずに歩ける。
これから団塊の世代が定年退職を迎えるので、街道を歩く人が増える事が予想される。車用の看板は昔に比べとても多くなってきているが、歩く人用の看板を他の地域にも、もっと取り付けて欲しいものだ。

沓掛の集落は、田舎の家が並んでいて目の前に山が押し迫っていた。少し歩くと、「観音山歩道案内図」や「東海自然歩道」の道標などがあり、ハイカー達もこの辺りを歩くのだろう。

田舎の家々、刈り取った後にまた少し青い葉が出かけている田んぼ、そして青い空と緑の山々・・・街道歩きを堪能しながら国道と分かれて約1.5km歩くと、右上へと細い道が延びている場所に来た。旧道はこの方向だ。そしてこの細い道の左側に、細い木柱が等間隔に並んでいてそれぞれ白いペンキで「日本橋」「品川」「川崎」・・・と東海道の宿場が順に書かれていた。

木柱を一つ一つ見ながら坂道を上って行くと、左手に鈴鹿馬子唄会館があった。外に人影が無いので躊躇しながら入って行くと、広間で何やら踊りの練習をしているらしい。靴を脱ぎ見学させてもらっていると練習が終わったらしく、数人が帰って行かれた。そして事務所らしき部屋から一人の男性が出て来られたので挨拶をし、いつもの様に「東海道を京に向かって歩いてます。」と言うと、近江歴史回廊発行の「近江東海道中絵巻」と「近江中山道絵巻」という街道地図をいただいた。たまたま割り当ての分が残っていたみたいだ。
館内は、「正調鈴鹿馬子唄」の楽譜が黒板に書いてあったり、NHKの「街道てくてく旅」で登場した等身大?の馬の人形が展示されていた。この人形は、移動が便利な様にキャスター付きの台に乗せられたユニークな馬だ。そして、馬子唄の歌詞が書かれたボードや「東海道分間延絵図」の復刻版なども展示されていた。また、前述の「街道てくてく旅」の放送時に配られた番組のガイドブックもコピーされて貼られていた。

そして「鈴鹿馬子唄会館」で10分程休憩させてもらった。伊勢坂下バス停発の最終バスは16時14分、間に合うかを係りの人に聞いた後、街道を再び歩き始めた。
時刻は15時45分。先程の宿場が書かれた標柱が続いていたが、「坂下」から先は数本だ。この旅の終わりが近づいている事を感じた。そしてすぐ旧国道に合流した。

旧「国道1号線」は、当然センターラインの入った比較的広い道だ。しかし旧道として取り残された今となっては、田舎にしては不釣り合いな道だ。その道を550m歩くと小さな「河原谷橋」を渡る。すると家々が続く集落があった。一目で「坂下宿」に入った事が分かった。
その道を280m程歩くと左手に松屋本陣跡の石柱が建っていた。その隣はバス停がある「坂下集会所」だった。時刻は15時56分、発車までは20分程ある。そしてバスもまだ来ていないので、もう少し散策をする事とした。

目と鼻の先に大竹屋本陣跡の石柱があった。馬子唄には「坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや 小竹屋に」と唄われている。その本陣が今では茶畑となっていた。とても立派な本陣があったとは思えない、凄まじい変わり様だ。

その先にも梅屋本陣跡があったが同様な姿。明治になり鉄道が敷かれたが、ルートはここを離れて現在の「JR関西線」が走る加太峠越えとなった。当然この山の中には誰も来なくなってしまった事は、私にも容易に想像できる。まさに栄枯盛衰の世界だ。

その脇を見てみると、細い木柱に「東海道松並木復元 坂下宿 第一号」と書かれていた。しかし松の木などどこにも無い。よく見ると、斜め後ろに木の切り株があった。比較的新しく、松ボックリも幾つか転がっていたので、多分今年に切ったのだろう。松並木と言う割には途中それらしき物を見なかったし、ここも簡単に切ってしまってそのままだ。中途半端過ぎて残念だ。

その向かい(街道右手)には法安寺があった。入口付近には古そうな石柱があり、脇には古くからあったと思われる松の木があった。そして石段の先には立派な門が建っていた。
お寺の中を見て回っていると、バス発車10分前となったので先程のバス停へと戻る事にした。しかし今日は、一日天気は良かったが風が強かった。バス停に戻るとまだバスが来ていない。日が陰ってきて余計寒くなってきた。発車時刻が迫って来たがまだバスが来ない。最終バスなので時刻を間違えたかと発車時刻表を見に行き待つ事暫し、少し遅れてバスはゆっくりとやって来た。中は温かくホッとした。乗客は勿論私一人だった。妻との約束を果たし、ここまで歩いたので次回は二人で鈴鹿越えだ。箱根越えの様に無事越えられるのだろうかと考えながら、バスに揺られて関へと向かった。


関宿〜坂下宿の地図