亀山宿〜関宿の地図 |
さあ、急がなくては!すぐ先に見える信号の交差点を左折して進むが、その付近に亀山城大手門跡の説明看板があった。この看板だけで、他にそれらしい物が何も無かった。
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先程の信号から下りとなり、車道は土色のカラー舗装がなされて、東海道を演出していた。100m程下ると街道は、城下町特有の右へ左へと直角のカーブ。
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その先も右へと曲がりながら下って行く。すると左手に「遍照寺」の鐘楼があった。本堂はそこから階段を下った先の様だ。街道はその先今度は左にカーブしながら下っていた。
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下り切ると普通舗装の道路を越え、少し上って右に曲がりながら街道は続いていた。そこには「東海道 亀山宿」と刻まれた石が置かれ、ミニ日本庭園風に整備されていた。
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170m進むと一つ目の十字路があるが、街道の左右に小さな道標があった。左側には「左停車場 右東海道 道」、右側には「左東海道 右郡役所」と書かれていた。
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ここから少し東海道を離れ、城跡方面へ向かう事にした。道標のあった十字路を右へ曲がる。50m程先で左へ直角に曲がっていたが、その場所に青木門址の標柱があった。・・・亀山城の搦手門で、亀山城に泊まった徳川家康がこの門を通るときに、門一帯にアオキが茂っていることを賞賛したことから青木門と呼ばれるようになった。・・・
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その後はまた右に直角カーブ、そしてすぐ十字路になっていた。そこを右へと曲がったが(東方向)、左手に加藤家屋敷跡が整備されていた。加藤家は、江戸時代後期の亀山城主石川家の家老を務めた家らしい。
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そこから真っ直ぐ進むとT字路に突き当たり、前は「池の側(いけのかわ)」という外濠となっていた。左折し進むと、左手に松が植えられていた。池の側松並木というらしい。
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そして近くに藩主交代之碑というのがあった。横にあった説明看板に依ると、・・・伊勢亀山藩主板倉勝澄(かつずみ)が、延享元年(1744年)備中松山(岡山県高梁市)へ移った。板倉氏は重常(しげつね)が初めて入城した寛文9年(1669年)以来五代に及び亀山領有が終わり、石川総慶(ふさよし)が備中松山から、亀山に替わった。石川氏は、昌勝(まさかつ)(憲之)の時代に慶安4年(1651年)から、寛文9年まで亀山に在城したので75年ぶりに旧領に戻った。板倉氏とは、2度目の交代になる。・・・どういう理由で国替えになったのかは分からないが、江戸時代に同じ板倉家と石川家が、同じ領地に再び戻って来るというのは、珍しい事ではなかったのだろうか。
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城跡周辺に来ると、飯沼慾斎生誕之地という石碑があった。・・・慾斎は、亀山出身で12歳の時、美濃大垣の飯沼家に身を寄せ、後に養子となりました。京都で漢方医学と本草学を学び、さらに江戸に出て蘭学を修め、大垣で医者を開業しました。50歳で引退後、わが国で初めてリンネ分類法による植物の分類を行い、「草木図説前篇」を著しました。・・・
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また道を挟んだ公園内には、亀山城楠門跡の標柱があった。なお、後方にはSLの「C58」が展示されていた。
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折角城跡近くに来たので、多門櫓を写そうとしたが、残念ながら木々に邪魔されて綺麗な写真が撮れなかった。
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街道に戻ろうと思い、池の側付近まで来ると、左手に石碑が見えたので近くに行ってみた。石碑を見ると、石井兄弟亀山敵討遺跡と刻まれていた。・・・元禄14年(1701年)5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟は亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀水之助を討ち果たしました。また、28年目にして仇討ちの本懐を遂げた石井兄弟敵討ちが、「元禄曾我」として歌舞伎や絵本などに取り上げられました。・・・
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「池の側」沿いに南に歩いた。そして「東海道 亀山宿」と刻まれた石が置かれていた、ミニ日本庭園風の場所に戻った。つまりグルーッと一周してきた訳だ。(時間が無いと言っておきながら・・・)そしてそこで10分程休憩した。先程は気が付かなかったが、近くに西町問屋場跡の説明看板が建っていた。
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街道左右に道標があった場所を今度は真っ直ぐ進み、その後突き当たりを右へ左へと曲がり進むと下り坂となっていた。そして京口門跡の説明看板があった。写真は、門があったであろう方向に向かっての物だ。一応「広重」の浮世絵に描かれていた、「雪晴」と同じ構図で撮ってみたつもりだが・・・
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770m西へと進むと、右手に大きな木が見えてきた。野村一里塚である。・・・もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。本県における旧東海道において残るものは、この一里塚だけである。・・・なおこの一里塚は、国史跡に指定されているらしい。
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550m進むと左手に、大庄屋 内田権四郎昌克宅跡と書かれた碑があった。碑があるが、周りは空地で何も無かった。
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120m進んで三差路を右折した。そこから630m進み、オスカーというレストランの手前を左折する。すると県道と「JR 関西線」を越えて右方向に道は続いていた。少し歩くと左手に「鈴鹿川」が迫ってきた。東海道は川沿いの道となり、遠くまで続いていた。途中左手に標柱があり、大岡寺畷と書かれていた。・・・鈴鹿川の北堤を1946間約18丁に及ぶ東海道一の長畷であった。江戸時代は松並木だったが、明治になって枯松の跡へ桜を植えたが、その桜も殆ど枯れてしまった。・・・
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しばらく歩くと、三重に住んでいる時よく通った「名阪国道」の下を潜る。そのガード下の両側には、「広重」の版画が各4枚ずつ描かれていた。周りには東海道らしい物が何も無いが、このガード下だけは東海道である事を主張している様だった。
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もう日暮れが迫ってきた、オマケにデジカメの電池も少なくなっている警告ランプが点滅しだした。急がなくては、急がなくては・・・時たま走って来る車を除ける時以外は、いつもの私ではない早足で歩いた。西の空近くには、この先越える事になる鈴鹿の山々がギザギザと、ノコギリの歯の様に私に近づいているのが見えた。
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「名阪国道」と「東名阪自動車道」を潜った地点から約860m歩くと、「国道1号線」に合流。左折しすぐ鈴鹿川の支流小野川を渡って120m程行った地点から、右の旧道へと街道は続いていた。やっと「関宿」の看板が見え、少しホッとした。
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看板のすぐ先に、関の小萬(こまん)のもたれ松という松があった。・・・江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門(まきとうざえもん)の妻は良人(おっと)の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を生んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して3年程亀山城下で武術を修行し、天明3年(1783年)見事、仇敵軍大夫を討つことができた。この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。・・・ この後、本陣跡まで歩きこの日の旅を終えたが、少し暗くなってきたのと電池切れのため、デジカメ撮影は次回とした。
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