45.庄野宿〜亀山宿



今日も祭だ!



2006.10.14.(土)  天気 : 晴れ後曇り
庄野宿〜亀山宿の地図






前回帰りに途中車両故障の影響で20分遅れたが、今朝は時刻通り9時15分に「加佐登駅」についた。最も今回は車で関駅前まで来て、駐車後JRでここまで来たので帰りは安心だ。
この前は祭を見るため時間待ちを兼ねて宿内を散策したので、この日は「庄野宿」を素通り状態で歩いた。宿の出口付近に「東海道 庄野宿」の石碑を見かけた。

宿場を出て「国道1号線」に合流し右へ、そしてすぐ「県道637号線」から「鈴鹿川」に架かる「汲川原橋」へと繋がる陸橋の下をくぐった。そしてタイヤショップのすぐ次ぎの道を左折。しかし旧道は、現在通れないが陸橋とタイヤショップ裏の間を通って続いていた様だ。

国道から入って215m、左に続いている道の傍らに、「平野道」と彫られた小さな道標を発見した。

「真福寺」の前を通り進むと、やがて左手に従是東神戸領の領界石があった。ここで5分休憩とした。

そしてその横には女人堤防と書かれた石碑があった。これは、・・・村人達が付近の川の水害を防ぐために堤防を作る事を願い出たが、その堤防のために下流の城下町が水害となるので藩主の許可が下りなかった。しかし水害を防ぐために女人達が打ち首覚悟で堤防を築き上げた。・・・という事が書かれているものらしい。

また、近くにも領界石があったが、こちらは真ん中辺りで折れたり一部削られていた。見るからに何かに使われていたのだろう。なお、折れた部分は修復されていた。推測ではあるが、こちらが本当の領界石で、前述の物は新しかったので、復元したものだと思う。

530m歩くと左手に「川俣神社」があり、その境内(と言っても、街道から見えるが。)に中冨田一里塚跡があった。
ところで近くにあった説明書きを見ると、「東百里屋(ともりや)」という屋号の家があるらしいが、何でもここから江戸へおよそ百里であったので、そう呼ばれているらしい。しかし、残念ながらどの家か分からなかった。

また、右横のは従是西亀山領の領界石が並んで立てられてあった。

「常念寺」・「福萬寺」を過ぎて先へ進むと、右側の道端に小さな「ひろせ道」と書かれた道標があった。

しばらく歩くと左手に、また川俣神社があった。先程の「一里塚跡」があった神社より少し大きそうだが、前回「庄野宿」で立ち寄った所を含めて、これで三ヵ所目だ。

境内に入るとすぐ「庚申塚」などがあった。また、「常夜燈」や昭和十年六月竣功と書かれた「和泉橋」の親柱が置かれていた。

その他にも、写真の道標や、「無上冷水井跡」と書かれた石柱などが並んでいた。

本殿の入口は街道とは逆方向にあり、その前が広場の様になっていて、ベンチもあったのでそこで休憩をする事にした。堤防を東海道歩きらしい人が2人歩いて行った。
時刻は11時07分、少しお腹が空いてきたので、持ってきたパンを食べ始めた。するとワゴンタイプの車が一台止まり、運転していた人が中から出て来て本殿の方へ向かった。頭はツルツル。お坊さんかと思ったが、神社に来る訳が無い。もしかしたら、コワイ人・・・???顔を合わさない様にしよう。しかし、拝み終わった後、こちらへ近づいて来る・・・どうしよう。話しかけられて分かったが、やはりお坊さんだった(ホッ!)。神社に来るから話しがヤヤコシイ。「東海道を歩いている。」と言うと、「これから先の街道沿いに、親戚の寺がある。」との事。「接待してくれるので、是非寄ってください。」と言われた。

親切なお坊さん(先程とは大違い・・・)とも分かれ、11時30分、わざわざ神社入口まで戻り、休憩場所の前に見えていた堤防側の道へと進んだ。そして「和泉橋」を渡った。この橋はチョット変わっていて、橋の両側ともT字路になっていた。つまり橋の両側とも突き当たりで、真っ直ぐ進めないのだ。
橋の途中から河原を見ると、「広重」が描いた「庄野宿」の浮世絵に出てくる様な竹薮が、アチコチに見えた。

橋を渡ると前述の通り行き止まりで、目の前は「井田川小学校」になっている様だ。そしてここを右折して進むと「泉町公民館」の前に出た。玄関前の木の根本を見ると、こちらにも「和泉橋」の親柱が置かれていた。先程神社で見た物の、川向かいにあった物だと一目で分かった。

200m程進むと右手へ入る小道の所に、傾いたまま半分埋もれた「道標」があった。「右のぼ」までしか分からない。小道の右側にも長方形の「道標」があるが、同じ様に全部分からなかった。

しばらく歩くと右手に明治天皇御小休所の石碑があり、その横にまたあった!「和泉橋」の親柱である。残すのはとても良い事だと思うが、どうしてこうバラバラに保存しているのか不思議に思った。それも無造作に・・・

そして、永禄11年(1568年)織田信長の戦火に遭い消失した「地福寺」の観音堂跡があった。当時の瓦の一部がそこに置かれていた。すこし先の説明書きを読んで見ると、とても大きいお寺だった様だ。

街道は、現在ある「地福寺」を右手に見て、左斜めへと下っていた。そして「止まれ」の標識がある場所で少し広い道を斜めに横切り、狭い道が先へと続いていた。

細い道を進むと右手に「JR関西線」が見えてきた。そして人や自転車が通れる程の幅しかない遮断機付きの踏切を渡った。踏切を渡ると細い道は左へと曲がり、50m程線路と平行して進む。そこから今度は右へカーブして、少し広くなった道を100m弱歩くと三差路となっていた。この辺りは地図をじっくり見ながら歩かないと間違えそうだ。

三差路を左折してしばらく進むと、「JR井田川駅」の前に出た。

「井田川駅」を過ぎてすぐ右手に旧井田川小学校跡があり、休憩できるようにベンチが置かれていた。「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」と書かれた看板も建っていた。
時刻は12時20分、小休憩をとった。すると男性二人連れが歩いて来た。しかし普通の街道歩きとはチョット違う感じだ。お話しをしたら、三重県生活部文化振興室の方で、「歴史的・文化的資産データベース調査」と言うのを行っているらしい。そして一人は県の職員さんで、もう一方は大学の先生との事。例の如く東海道を歩いていると話しをすると、大学の先生が持っていた「亀山ウォッチングマップ」と言うのを下さった。このマップには亀山宿近辺の東海道筋が、イラスト示されていた。とても参考になる良い物を戴いた。そして県の方達は先へと急がれた。ちなみにこのマップによるとこの休憩場所は、「海善寺休憩所」と記されていた。

10分程休憩後、出発した。今日は色んな方と会うものだと思いながら歩いていくと、道端に変わった花が咲いていた。名前は分からないが、イチゴを逆さまにした様な綺麗な花だった。

さて街道は、花が咲いていた先から右へカーブし、「川合町北信号」で「国道1号線」を横断していた。横断は、歩道橋があったのでそれを利用した。歩道橋の上から左(京都方向)を見てみると、道路上に「亀山」の文字と共に「大津」の文字があった。「大津市」は私が住んでいる「草津市」の隣だ。東京から、こんな所まで歩いて来たのかと、何やら不思議な感じがした。

そしてここ「亀山市」は、現在ロウソクの生産が有名だ。だから歩道橋上に亀とロウソクのイラストが記されていた。

歩道橋を下りて60m程進んだ一つ目の細い道を左折。「西信寺」の前を通り進むと、やがて「椋(むく)川」を渡る。そしてその先に見える「国道1号線」の高架下をくぐった。そこには「浮浪雲さん」の「東海道一人旅」に書かれていた「ハトちゃん」が何羽かいたので、つい思い出し笑いをしてしまった。私もその時誰にも会わなかったので、変な人に思われず済んでホッと一安心。

少し歩くと右手に谷口法悦供養塔があった。・・・この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、十七世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。・・・塔の裏側に回って見ると、確かに「施主 谷口法悦」とクッキリ刻まれていた。

そこからまた少し歩いた左手の細い路地の角に、和田の道標があった。車が当たって一度折れた様子で、まるでギブスをはめたような鉄の枠で補強されていた。・・・道標は、東海道から旧神戸道に分かれる所に立つ。「従是神戸 白子 若松道」「元禄三庚午年(1690年)正月吉辰 施主渡会益保」と刻まれている。東海道文間延絵図には「脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、若松村へ三里三十四丁」と記され、亀山城下より亀山藩領若松港への重要道路であった。・・・今で言えば、この脇道方向に「鈴鹿サーキット」がある。そう言えば、藤枝宿に入った時、「白子由来記」と言うのがあったが、そこに出てくる白子(しろこ)は、この道標にある所だ。

その少し先で左に平行している「県道28号線」に急接近するが、右へとカーブし、再び離れていた。付近には、これも交通事故!?に会ったのか、上部少ししか残っていない石碑があった。修復は大事だが、中途半端でうっかりつまずいてしまいそうな、可哀想な姿だった。ちなみにこの祠(ほこら)は、「シャングリサンの小祠」と言うらしく、通行人による悪疫から子供を守るために祀ったらしい。
時計を見ると午後1時を回ったので、県道に架かる歩道橋を渡り、「食事処 千元」で昼食を取った。

昼食後街道に戻り150m程歩くと、左手の細い道に道標があった。「井尻道」と書かれていた。

「福善寺」を右手に見ながら200m進むと、右手のちょっと小高い場所に「石上寺(せきじょうじ)」。この寺は延暦15年(796年)に神宮寺として開創されたという歴史のあるお寺で、鎌倉から室町時代の古文書が20通(21点)残されているらしい。

街道は、先程の「石上寺」手前から広くなり上りになっていた。余りキツイ坂では無いが、上りになると少し体が重く感じる。290m程進むと右手に和田一里塚跡が見えた。ちょうど塚跡の前に軽四が止まっていたので、少し通り過ぎた場所から写真を撮影。・・・慶長9年(1604年)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。・・・私の若い頃には、一部とは言え在ったのだ。歴史的遺産となるような物は、できるだけそのままの姿で残してもらいたいのだが・・・

左に全国的に有名な「カメヤマローソク」の工場を左に見ながら800m程歩くと、右手に鳥居があった。「能褒野神社」の鳥居らしいが、その脇に「従是西亀山宿」と書かれていた。ここからが亀山宿になる。

そして足下にはチラッと道標の頭が見えていた。なぜこんなに埋もれているのか分からないが、「従是北境町」と書かれているらしい。

そこから目と鼻の先に露心庵跡があった。・・・天正12年(1584年)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか十三騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。この仏庵が露心庵で、本来の名称は友松庵という。・・・

この辺りの街道を歩いていると、円柱形の提灯が幾つも掛かっている家があちこちに見えた。「献登」(と思うのだが・・・)と書かれている同じ提灯が並んでいるのもあれば、写真の様に提灯ごとに武将が物語風に描かれているのもあった。どうやらまた祭の日に訪れた様だ。

将軍の代替わりごとに、世情調査のため派遣されたという巡見使が通った「巡見道」の追分まで来ると、祭の列が近づいて来るのが見えた。担ぎ手がいないのか、神輿はリヤカー風の台車に乗せられていた。祭を続けたいが参加してくれる若者が少ない、しかし何とか神輿行列を続けたい・・・現在の地方の現状を、垣間見た様な気がした。

行列を見送って街道を250m歩くと、右手にお城の様な建物が見えた。店名看板にも「衣城しもむら」と書かれていた。

道は大きく左にカーブ、400m進んだ所で県道のT字路に突き当たった。ここは江戸口門跡だ。・・・延宝元年(1673年)、亀山城主板倉重常によって築かれた。東西120m、南北70mで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。・・・

「江戸口門跡」を右へ90度曲がる。ここからは商店街となっていた。ここにも七福神などが描かれた提灯が並んでいた。
門跡から210m歩いた左手に休憩場所があった、「東町ふれあい広場」というらしい。ここには緩やかな滝の様に水が流れていて、トイレもあった。時刻は14時43分、15分程の休憩時間を取った。

広場内をふと見回すと、「旧佐川邸跡」と書かれた石碑がポツンと建っていた。説明看板等が無かったので、どんな建物だったかよく分からなかった。

休憩後140m歩くと左手の「しぼりや」という洋品店の前に、椿屋脇本陣跡と書かれた木札を発見した。

そこから40m先には樋口本陣跡の木札が、アーケードの鉄柱にくくり付けられていた。
時刻は15時04分、今日は車で帰るので時間を気にせず歩けると思い、チョットのんびりしすぎた・・・私の悪い癖だ!果たして日暮れまでに無事関に着けるのか!?この先は相当ピッチを上げなくては。


庄野宿〜亀山宿の地図