44.石薬師宿〜庄野宿



獅子舞、うまいぞ〜!



2006.10.07.(土)  天気 : 快晴後曇り
石薬師宿〜庄野宿の地図






本陣から100m歩くと、佐佐木信綱の生家があった。「佐佐木信綱」は国文学者であり、また「夏は来ぬ」の作詞者として有名だ。なお、生家の左には「佐佐木信綱記念館」、右には信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈した「石薬師文庫」があった。

その先の街道は、殆ど車も人も通らない静かな道だった。江戸時代の東海道だったら信じられない光景だろう。

やがて「国道1号線」を越える青い「瑠璃光橋」を渡る。

橋を渡ったらすぐ右手に「石薬師寺」の門があったので中へ入ってみたが、何も無く雰囲気がおかしい。街道を少し歩いてみるともう一つ門があった。先程より立派だ。中へ入ると今度は間違いない、入口だ。

中に入って本堂を見てみると、思ったより小さかった。「広重」の浮世絵にも描かれているし、宿場名もこのお寺から名が付いたらしいので、勝手に京都の有名な寺院と同じ様な規模があるとイメージしていたからだ。表にあった説明書きによると、・・・御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永6年(1629年)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。・・・
ちなみに正式名が「高富山瑠璃光院石薬師寺」と言うので、先程渡った青い橋はここから名付けられたと言う事が分かった。

「石薬師寺」の門を出ると道の反対側に蒲冠者範頼之社と書かれた道標があった。「蒲冠者範頼(がまかんじゃのりより)」とは「源頼朝」の弟の「範頼」の事らしく、後で調べたら、ここから80m程行った所に社(やしろ)があるらしい。ちなみに、その社から右手に60m程行くと、「蒲桜」と呼ばれる桜があるらしく、「範頼」が鞭に使っていた桜の枝を地面に逆さに突き刺したところ、そこから生えてきたと言われているらしい。

さて、話しは東海道に戻して先へと進もう。「石薬師寺」を出て250m進むと道は左右に分かれ、右の道は右にカーブしながら上り坂となっていた。この先は一部街道が無くなっているらしい。そこで、三重県庁のサイト内に「みえの歴史街道」というのがあったので、それを参考にさせてもらった。
現在先へ進むには右の道へと進むのだが、「みえの歴史街道」地図によれば、「当時の街道は真っ直ぐ延びて土橋がかかっていた」と書かれていたので、左の道を少し進み、60m程行った先で右上の道に上る階段を利用し、そこから小さな橋を渡って進んだ。

橋を渡って左折すると石薬師の一里塚阯があった。木も植えられてあったり、「町内安全」と書かれているものの常夜灯もあり、雰囲気が出ていた。

本来はこの先、線路を斜めに横切るように街道は続いていたみたいだ。しかしそれは不可能なので、「みえの歴史街道」が推奨する迂回路を進む。「一里塚阯」から線路のガード下を直角にくぐるようになっていたので、その通り進んだ。

ガードをくぐるとすぐ右折。右の「JR関西線」と平行して進む。線路は「国道1号線」の高架下をくぐり真っ直ぐ延びているが、迂回路はその付近から左にカーブし、今度は国道と平行して続いていた。なお旧道は、線路が国道をくぐる手前辺りで迂回路と合流している様だ。

国道と平行して100m程で、国道下をくぐれる様になっていたのでそこを右折した。くぐった後は左折、今度は国道を左に見て進む。しかし25m程で全面に川が流れており、自然と道は右へ90度カーブ。

85m川と共に進むと左に渡れる橋(白いガードレールが見える場所で、右手には小さな踏切)がある。そこを渡って真っ直ぐ進んだ。

すると、すぐ「県道27号線」の青い橋桁の下をくぐった。

県道をくぐると、250m程で「国道1号線」と合流し、そのまま国道を歩いた。ちなみに合流地点の国道左側には「JOMO」のガソリンスタンドがあったので、それが目印となる。

ここから国道を1.3km歩く。そして「庄野町北」の信号で右折した。曲がると「庄野宿資料館」の案内看板がすぐに建っていたので、宿場に近づいた事を感じた。右手に川が流れていて、その対岸には比較的大きな工場が建っていた。

150m進むと信号があり、ここを左折した。ふと見ると、「東海道 庄野宿」と書かれた石柱と、庄野宿を説明した看板が建っていた。ここが宿場の入口らしい。

宿場に入るとアチコチで提灯が飾られて、道の真ん中をハッピを来た人達が占領していた。もしかしたら祭なのか!?・・・はたして、御油宿に続いて祭の日だったのだ。御輿を横に置いて、獅子舞をしていたがとても可愛い獅子頭!まるでヘルメットを被っている様だ。舞っている人は一人だが、チャンと笛のお囃子付きだ。そう言えばNHKの「街道てくてく旅」でも紹介されていた。

やがて御輿も担ぎ始めたが、これも小さい!まるで子供御輿だが大人が4人で担いでいた。
ハッピを着た一人に伺った。すると夕方5時頃から大きな獅子頭の舞があるとの事。現在は午後4時なので宿場内の散策を続ける事にした。

先程の信号から350m歩くと左手に古い建物が建っていた。現在「庄野宿資料館」となっている旧小林家住宅だ。中に入りたかったが午後4時で閉館だった。時計を見ると午後4時8分・・・惜しかった!

街道を先に進もうと思い右手の民家の外壁を見ると、何か説明看板が掛かっていた。ここは問屋場跡だった。

その少し先の「庄野集会所」前に来ると、庄野宿本陣跡と書かれた石柱があった。いつもなら本陣跡でゴールだが、獅子舞までまだ時間があるので先へと進む事にした。

「集会所」にはもう一つ石柱があり、「距津市元標九里拾九町」と書かれていた。

細い道を一本隔てた民家の角に、また木製の説明看板があった。ここは高札場跡だ。
また玄関引戸の上には脇本陣跡の説明看板があった。それには「楠与兵衛家」と書かれていた。

50m程進んだ右手の散髪屋さんには郷会所跡の説明看板があった。・・・郷会所は、助郷の割当てを受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。江戸時代も後期になると助郷人馬の割当てが多くなり該当の村々の疲弊が重なり、減免陳情のための会合が繰り返された。・・・

180m進むと右手に川俣神社があった。どうやら今日は、この神社のお祭りらしい。ここで時間調整を兼ねて休憩を取った。しかし10月に入っての曇り空の夕暮れは寒い。水筒に入ったお茶を飲んだが、朝に入れた物なのでぬるくなっていた。

時計を見ると4時40分、そろそろ獅子舞が始まる頃だろうと神社を後にした。JRの駅は少し戻った所にあるので、街道を逆に歩き始めた。
少し歩くと笛や太鼓の音がする。もう始まっているようだ。ムシロを狭い街道一杯に広げ、今度は普通サイズの獅子が舞っていた。それを囲むように地元の人々が見つめている。切りのいい所で周りの人々から獅子舞に向かって「うまいぞ〜!」の声。これも「街道てくてく旅」でやっていた、そう思いながら熱気のある舞を見つめた。最後まで見ていたかったが5時前、そろそろ駅に向かわなくてはいけない時間だ。お囃子の音色に後ろ髪を引かれながら「JR 加佐登駅」へと向かった。

「JR 加佐登駅」は「東海道 庄野宿」と書かれた石柱があった信号を真っ直ぐ進み、320m行った踏切を越えると右手に見えた。10月ともなると、午後5時過ぎでも駅の外灯が灯されていた。寒がりの私は、少し寒さに身を縮めながら24分発のディーゼルカーを待った。


石薬師宿〜庄野宿の地図