43.四日市宿〜石薬師宿



こんな所に名水が!



2006.10.07.(土)  天気 : 快晴後曇り
四日市宿〜石薬師宿の地図






朝9時半に「JR 四日市駅」に到着。他のホームを見ると列車待ちで沢山の人が並んでいる。なぜ!?・・・そう言えば鈴鹿サーキットでF1レースがある。今日は土曜日なので予選だが、それでも全国から大勢人が押し寄せているのだろう。
駅を出ると前回同様、駅の割には人が極端に少ない。しかし空は前回とは打って変わって快晴だ!

9時50分、前回まで歩いた「東海道四〇〇周年記念」の碑からスタート。185m歩くと左手に丹羽文雄生誕之地と書かれた碑があった。誰か分からなかったが、後で「四日市市」のサイトを見ると、四日市を代表する作家の一人らしい。

細い旧街道を進むとやがて道は右へ緩やかにカーブしていた。先程の碑から420m歩くと「近鉄 名古屋線」のガード下をくぐる。そこから360mでY字路を左へ。(右の道は少し狭いので左と分かる。)

少し行くと右手に古い家があった。外壁も板のままだ。ここからはまた真っ直ぐの道だった。

二つ目の橋「鹿化橋」を渡る。右を見ると鈴鹿の山々が見えた。この先、あの山を越えなければならない。そう思っていると「近鉄 内部線」の電車がゴトゴトと走って行った。

橋を渡ると右斜め下方向へと下り、街道が続く。橋から150mで右手に大宮神明社があった。・・・昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海があって、その海辺に舟付明神があった。その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)に遷ってきたのがこのお社である。・・・東海道に何かの縁で引き寄せられた様な神社。私も何かの縁でこの道を歩いている。初めて出会ったのに、とても親しみを感じてしまう、不思議な感じがした。

300m進むと右手に「鉄道模型専門店」があり、表には懐かしい転轍機標識が置かれていた。また、店内にも昔の鉄道関係の品物が置かれていた。鉄道好きの私としては、東海道を歩いている事を忘れて、つい足を止め眺めてしまった。

その店の横に回ってみると、水沢(すいざわ)道標がこちらを向いていた。・・・大正12年(1923年)の水害まではこの横の道が水沢方面に通じる道路であった。このため、今から約二百年ほど前に大阪の古銭収集家の河村羽積(はづみ)という人が東海道から水沢道が分かれる角に立てたのがこの道標である。この碑の表面には「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」裏面には「猿丸大夫名歌古跡すい澤へ 是ヨリ三里」と彫られている。・・・

そこから200mで、右手に貞観6年(864年)創建という興正寺。時刻は10時半だが、ちょっと休憩させてもらった。ガツガツ歩かずに、1時間くらいに一度休憩しながらゆっくり歩こうと思ったからだ。

「天白川」を越え、「興正寺」から約200mで今度は両聖(りょうしょう)寺が右手に。お盆には境内で「つんつく踊り」というのが披露されるらしい。ちなみに「つんつく」とは、地固め工事の様子から出来た踊りなのでそう言うらしい。

広い道を越え、少し行った右手に「日永神社」の鳥居があり、中へと入ってみた。すると一角に追分道標があった。「追分道標」!?この先にある「日永の追分」か!?なぜここにあるのだろう。説明書きを読んでみると、・・・この石柱は昔、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍に立てられていた道標である。この道標には正面に「大神宮 いせおいわけ」右側面に「京」左側面に「山田」そして裏面には「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。この道標が立てられた明暦2年(1656年)といえば、神宮遙拝鳥居が建立されたときよりも約百二十年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。嘉永2年(1849年)神宮遙拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられたとき、この小さな道標が不要になり、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後、明治40年に追分神明社が日永神社に合祀された際に、道標も一緒にここに持って来られたものと推定される。・・・

350年程前の「日永の追分道標」を発見(ただ見つけただけだが・・・)した。「これは数多い東海道歩きのサイトの中でも見かけていない。」と、得意になりながら街道を先へと進んだ。「日永小学校」や「西唱寺」の前を通り過ぎる。手持ちの資料によると、そろそろ「一里塚跡」だが・・・すると右手の民家と民家の間に、隠れるようにヒョロッと細長い日永一里塚阯と書かれた石碑があった。これはちょっと不親切ではないのか!?考え事をしながら歩いていると、通り過ぎてしまう。東京や京都から折角長い道のりを歩いて来た人も、見逃してしまい悔しい思いをしてしまう。道路上に何か目立つ看板を立ててもらいたいものだ。

しばらく歩くと左手に、ポツンと寂しそうに一本の大きな松の木が立っていた。説明には「旧東海道の松」とあった。この辺りは松並木だったらしいが、残念ながら残っているのはこの一本のみ。生き物だからいつ枯れるか分からないが、出来るだけ永く残ってほしい。
なお進行方向に写真を撮ってみたが逆光だったので、江戸方向に向かって撮ってみた。

そこから10分程歩くと右に走る「国道1号線」と合流して、150mで目の前に待ちに待った日永の追分が目に映った。「東海道」はここを右に、伊勢神宮へ通じる「伊勢参宮道(伊勢街道)」は左へと分かれる。・・・道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774年)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遙拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、20年ごとに建て替えられることとなっていた。また、追分は四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遙拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。・・・

この追分はちょっとした公園風になっていた。まず目を引くのは道端からも見える大きな道標と立派な常夜灯だ。道標は一目で分かる様な太い字で、「右 京大坂道」「左 いせ参宮道」と彫られていた。なお、裏側に回ると「すく 江戸道」と彫られていた。

神宮遙拝鳥居も外から分かり難かったが中に入るとよく見えた。

また井戸があったのには驚いた。私がいた時に、ちょうど車で来て、ポリタンクにこの水を溜めている人がいた。私も一口頂いた。

「日永の追分」を堪能し、街道に戻る。もちろん右へ続く東海道だ。200m進むと「近鉄 内部線」の踏切。近くには「追分駅」があった。その駅前に「おにぎりの桃太郎」という店があり、店内で麺類の販売もあったので、うどんを頼みおにぎりと一緒にお昼を済ませた。時刻はちょうど12時だった。

駅の先を左斜めへと入る。780m歩いた十字路の道路左側の電柱に、「東海道」は右へ曲がる矢印の道案内看板。看板通り右へと曲がるが、道路上に点線でやや広い通りが右へ曲がる様に表示されていた。その先110mで、今度は左へと曲がっていた。

400m歩くと「県道407号線」と交差。左手には「山中胃腸科病院」があり、信号には「小古曽三丁目」と書いてあった。「東海道」は、このまま真っ直ぐなのだが、「近鉄 内部駅 100m」の看板があったので、県道へ進む。60m程歩き左へ曲がってすぐの所に駅はあった。
この「近鉄 内部線」はナローゲージと言い、線路幅が狭い。当然電車も小さく、まるで遊園地の乗り物の様だ。ちょうど発車間際だったので、慌ててカメラを取り出し改札口に向かうと、駅員さんは乗るのかと思い、声を掛けてくれて電車の発車を待たせてくれた。私は「写真を撮るだけです。」と言うとすぐに発車した。のどかな鉄道で心が安らいだ。

電車を見送った後、先程の交差点に戻り続きを歩いた。420mで「内部川」の堤防へと突き当たった。この先には昔「采女橋」という橋が架かっていたらしい。現在は無いので左に見える「内部橋」を渡った。

「国道1号線」の「内部橋」を渡ると右の公園へ降りる階段があり、まだ午後1時前だったがそこで5分休憩。そして国道の下をくぐる。するとすぐ右に階段がありまた小さな川を渡る。つまり国道の左側を歩いた。(写真では上に見える国道を左から来て、右に見える階段を下り、左のトンネルを通り、出た所を右へと階段を上った。)

小さな橋を渡った先を左斜めへと進んだ。300m程で右に90度カーブ。そして125mで酒屋さんの手前を左折。70m先で小さな川を渡ると上り坂となっていて、「金刀比羅宮」を見ながら左折、そのすぐ先を右折すると左手に杖衝坂と書かれていた。・・・杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊(やまとたける)が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、鞘に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになりました。・・・

坂の途中左手には「杖衝坂」の石碑があり、その横には「永代常夜燈」(写真左)や、「芭蕉句碑」(写真右)が並んでいた。句碑には「歩行ならば 杖つき坂を 落馬かな」と書かれていた。・・・俳聖松尾芭蕉が貞享4年(1687年)に、江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに詠んだ季語のない有名な句である。宝暦6年(1756年)村田鵤州が、杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。・・・
またこの場所には、それ以外に現在は蓋をされた井戸が二つあった。・・・坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。・・・

久々の坂道と言う事もあって、息を切らしながら坂を上った。すると左手に「血塚社」と書かれた鳥居を発見。とても生臭い名前だなと思いながら鳥居をくぐる。しかしここには建物は無く、日本武尊御血塚と書かれた石碑だけが建っていた。この名は、日本武尊の足の出血を、ここで封じたとの所伝かららしい。

旧街道は右側を走る「国道1号線」とほぼ並行。そして合流地点の少し先右手のガソリンスタンド横に采女一里塚跡があった。交通量が多いが、ちょうど車の流れが切れたのを見て、国道右側に横断し撮影した。

1100m程歩くと「鈴鹿市」の道路標識。その場所にちょうど信号があり、「国分町」と書いてある。旧道はここから左斜めへと入っていた。

900m程歩くと、坂を下ってまた国道に合流。そして横断地下道を通って右側に渡った。しかしその地下道出口はなぜか道路の端に無く、短い横断歩道を渡った所に出口があった。(写真は国道を渡って振り返った所)
時刻は午後2時、近くの「ミヤコ」というレストランでアイスコーヒーを飲んで、半時間近く休憩した。

先程の信号から250m程行った所から国道と離れ、右斜めへと上り坂の旧道へ進んだ。するとすぐ右に「東海道 石薬師宿」と書かれた石碑。宿内に入って来た事を確認した。

近くには北町の地蔵堂があった。・・・延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている。江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。・・・と説明されていた。

そこから550m行くと右手に小澤本陣阯の石碑があった。ここには元禄時代に、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)も泊まったらしい。
コーヒーを飲んでから10分程での到着であった。まだ午後3時になっていないし、天気も晴れ!無事「庄野宿」まで歩けそうだ。


四日市宿〜石薬師宿の地図