42.桑名宿〜四日市宿



雨で散々な目に・・・



2006.10.01.(日)  天気 : 雨
2006.10.04.(日)  天気 : 曇り後一時雨
桑名宿〜四日市宿の地図






10月1日、予定通り今回は桑名からスタート!
今回は三重県の実家(伊賀市)に帰っていたので、行き帰りは近鉄電車を利用して歩く。桑名に着いたのは8時20分、駅を出ると雨がポツポツ。今まで雨にあまり縁が無かったので、止むだろうと思いながら傘をさして「七里の渡し」へ出発した。途中、六華苑に寄りたかったので少し北方向へ遠回りした。残念ながら見学時間前だったので外から写真だけ撮らせてもらった。・・・六華苑は、二代目諸戸静六の邸宅として、大正2年に竣工しました。苑内は、鹿鳴館を設計した英国人ジョサイア・コンドルの設計による木造洋館を中心として、和館とその前庭の池泉回遊式庭園などがあります。・・・

東側には大きな川の堤防があったので行って見た。この川は「揖斐川」で、すぐ東隣の「長良川」と河口付近で合流し、伊勢湾に注いでいる。また、その東側真横には「木曽川」も流れている。いわゆる「木曽三川(きそさんせん)」である。
堤防から少し上流を見てみると、悪名高き「長良川河口堰」が見えた。

堤防上にある、場違いな感じがする「住吉神社」を見ながら「県道613号線」へ出て、南へ向かって橋を渡ると駐車場敷地内に伝・沼波弄山生誕地と書かれた説明看板が目に付いた。・・・沼波弄山(1718〜77)は万古焼の創始者であり、船馬町の商人の家に生まれた。幼時より茶道に親しみ、京都にて尾形乾山に作陶を習い、元文年間(1736〜41)に小向(現三重郡朝日町)に窯を築いて万古焼を始めた。中国や南蛮風の情緒を描いた赤絵を特色とする。のちには江戸でも築窯し、将軍家の御用もつとめた。・・・

駐車場手前の道を左折し、東方向へ入って行くと大塚本陣跡である「船津屋」があった。・・・大塚本陣は桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で裏庭から直接乗船できた。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業。・・・
そして、塀際に「歌行行燈句碑」というものがあった。これは、明治の文豪・泉鏡花が書いた小説「歌行燈」を、昭和に入って映画化するために訪れた劇作家・久保田万太郎が読んだ句が刻まれているらしい。

その東隣には脇本陣「駿河屋」跡もあった。・・・脇本陣は桑名宿に4軒あったが、そのうち最も格式の高いのが駿河屋であった。建物は変わっているが、現在は料理旅館「山月」の一部となっている。・・・

そして道なりに右へと曲がり、すぐ左へ入ると、いよいよ桑名側の七里の渡しだ。・・・この七里の渡しは室町時代から栄え、慶長6年東海道五十三次の制度が定まると、宮(熱田)からの海上七里が本往還とされ、またのちに脇往還として宮から佐屋を経てくる道筋も認められた。鳥居は伊勢神宮一の鳥居で天明以来建てられている。・・・
(写真は少し離れた所から撮影。)

鳥居の横には「常夜灯」もあった。しかしこの付近は「伊勢湾台風」で滅茶苦茶になり、後日整備されたらしい。「常夜灯」も実はその時、別の場所から移設されたものらしい。

さて、いよいよ本格的に東海道の旅を再開!昔の人達と同じ様に、「一の鳥居」をくぐって雨の中、旧東海道を歩き始めた。先程ここへ来た道を歩き、左へと曲がる。右手には東海道は左へと、現代の道標が示してくれていた。ちなみに先程訪れた「本陣跡」「脇本陣跡」は、ここを右折した方向になる。

左折してすぐの月極駐車場の所に舟会所跡問屋場跡の説明看板看板があった。・・・舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの舟会所に乗船の申込みをして料金を支払い、乗船した。現在は跡地は定かでない。・・・・・・問屋場は東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で人馬継問屋場とも人馬会所とも言う。宿場町には必ず設けられていた。現在は跡地は定かでない。・・・

街道は昔ながらの狭い道幅で真っ直ぐ続いていた。舗装は少し茶色のカラー舗装で、街道の感じが演出されていた。少し先の左側に「北大手橋」が架かっていたが、その橋の両側には「広重」の桑名宿の浮世絵が、カラーで両側に各3枚描かれていた。
街道歩きを楽しみながら少し歩くと、通り井跡というのがあった。・・・桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626年)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言う。昭和37年(1962年)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の一つが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめこまれている。・・・
説明看板にあるように地面を探してみると、確かに「井」と書かれた石があった。

広い通りを渡ると右手に春日神社の青銅鳥居が見えた。・・・慶長7年(1602年)初代桑名藩主本多忠勝によって奉納された鳥居(木造)が大風によって倒壊したため、寛文7年(1667年)桑名藩主松平定重によって、慶長金250両を費やして再建されたのがこの鳥居です。・・・
しかしこの鳥居も伊勢湾台風の被害で倒れたが、翌年修復されたらしい。

その鳥居の脇にはしるべいしが建っていたが、これも台風の被害のためかパズルの様に砕けたものを積み上げ、鉄製の枠で留めてあった。いかにも古そうの見えるが、裏に「明治18年2月」と刻まれていた。
・・・「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。東京浅草観音のしるべいしは有名です。自分の子供が迷子になると、左側面の「たづぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いて貼って、この子供に心当たりがある人は右側面の「おしへるかた」へ子供が居た場所などを書いて貼ります。・・・

神社から80m歩くと左手に公園があった。歴史を語る公園と書かれていた。雨の日なので傘を差して地図をみながら歩き、時々写真を撮るのは手が疲れる。入口付近に四阿(あずまや)があったので、まずそこで休憩をとった。・・・江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園である。・・・
休憩後公園の日本橋を出発し、三条大橋まで歩いてみた。途中にはコンクリート製の「富士山」もあり(写真右上)、実際旅をしているように造られていた。しかし、本物の東海道を歩いて来た人間にとっては、簡単すぎて物足りなく思った。

ミニ東海道を歩きながら左を見ると、桑名城城壁が見えた。・・・正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されている。戦前までは南大手橋から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦直後、またたく間に埋めたてられた。この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった。・・・
私はミニ東海道を歩いた後、入口まで立ち戻り、本物の東海道を律儀に歩き始めた。

街道はミニ東海道の終点辺りで突き当たりとなり、そこを右折。160m程進むと左手に「桑名市博物館」があり、建物沿いに「道標」があった。・・・「右京いせ道」「左江戸道」江戸時代旧東海道筋(場所不詳)にたてられていたものを移設しました。・・・
「道標」に指で方向を示しているのが面白いと思った。雨で気温が低いためかトイレに行きたくなり、博物館へ入り声を掛けた。しかし気が付かない様子だったので、そのままトイレを探してお借りした。

博物館前の交差点を越えた次の交差点の右角に「京町公園」があり、そこに京町見附跡の説明看板があった。・・・京町の西端の東海道上に京町門があり、その南側に番所があって、ここを京町見附と言い、旅人を監視していた。また北側には郷方役所(のちに市役所跡)があった。門の西は外郭堀で橋はなく、東海道は南に曲り、さらに東へ曲り、もう一度南へ曲がる升形道路となっていた。現在は門も番所も役所も升形道路も廃止されている。なお外郭堀には明治時代に京橋がかけられた。・・・
説明の通り升形が無いので、ここは左折して南へと進んだ。

350m進むと右手に吉津屋見附跡の説明がされていた。・・・江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。のち鍛冶町として独立したので、鍛冶町門(または小字名の七つ屋門)と言う。ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。・・・
こちらは升形が残っていたので「見附跡」を右折し、次の角を左折した。すると志ぐれ蛤の「貝増本店」というお店があったので立ち寄った。実家と自宅の土産にと思い、志ぐれ煮を購入した。お店で「東海道を東京から歩いているが、朝から雨に降られたのは初めてです。」と話すと、気の毒に思ったのか、雨水を拭くためにお店の名前入りのタオルを下さった。御礼を言い、残りの升形を左へ左へと曲がり、歩を進めた。

升形を抜けたすぐ左手に鍛冶町常夜燈跡と書かれた説明が目に付いた。・・・鍛冶町の七ッ屋橋の近く、東海道北側にあり、天保4年(1833年)に、江戸、名古屋、桑名の人たち241名が寄進して建立された多度神社常夜燈である。しかし、戦後に道路拡張のため、七里の渡し跡に移転されて、一部補修されて保存している。なお七ッ屋橋は外郭堀にかかっていたが、現在は堀も橋もない。・・・
そうなのだ、「七里の渡し」にあったのは、ここに元々立っていたものだったのだ。

その次の小さな十字路まで来ると、右手に手書きで何かゴチャゴチャと店先に書かれている「いもや本店」と言う変わったオモチャ屋さんがあった。結構テレビの取材があるらしく、どこどこのテレビや新聞で紹介されたとか(街道てくてく旅の岩本輝雄さんや、CBCテレビの板東英二さんが来店などなど・・・)、また「おじさんおばさん口と態度が悪いかも」「あまり長い時間みえる人はレッドカードになります」など普通書かれていない様な事も書かれていたりしていた(写真左上)。中に入らなかったが、とにかく変わったお店の様だ。
なお、ここを右折して進むが、店前の電柱に東海道は右折している事を矢印で示した手書き看板があったが、オモチャ屋さんが書いたものだと容易に分かった(写真右下)。近くには東海道の方向を示した石柱も立っていたが、たまにはこんな案内も良い。

260m程進むと右手に小さな「泡洲崎八幡社」があり、その入口の鳥居の脇に小さな「道標」があった。元々天保13年(1842年)先程のオモチャ屋さんがあった付近に建立されたものらしく、「右きゃういせみち」「左ふなばみち」と書かれている様だ。

300mで左に走る「県道613号線」と合流。道路左側の「日進小学校」を見てみると、七曲見附跡の説明看板があった。・・・桑名城下の南端の見附であり、東海道上に七曲門(または釘貫門とも言う)と番所があった。ここは東海道が川口町から7度曲がった所なので、七曲(ななまがり)と言った。門の位置は現在の日進小学校の西端あたり、番所は消防車庫のあたりにあったと思われる。門の南は升形道路になっていたが、現在は廃止されている。・・・
ちなみに説明看板があった付近(写真の場所)が門のあった所になるのだろうか。また、消防車庫は道路右側だ。
升形道路が無いので県道をちょっと南へ歩き、「日進小学校前信号」を右折して進んだ。

街道右手に、文政9年(1826年)にシーボルトも見学したという「広瀬鋳物工場跡」や、壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなみ建立されたという「天武天皇社」を見ながら進む。と、右手にまた道標があった。「右 西京伊勢道」「左 東海道渡舩場道」と書かれていた。

先へどんどん進むと、先程の鋳物工場跡の流れを汲む鋳物屋さんらしき家があり、表に鐘が幾つか並べられていた。そして「国道1号線」を横切りT字路に突き当たる手前右手に平成3年に再建されたという「火の見櫓」があった。説明看板には、この福江町も矢田立場の続きだと書いてあった。
ここで東海道は左へと曲がる。(写真では左下方向)

曲がって370mで左手に鐘楼が見える「了順寺」を過ぎ、伊勢湾台風前まで松並木が残っていたらしいが今は一本も無い「江場松原跡」を見ながら640m程進むと、「国道258号線」の高架が見えた。地平部分の道路も残っていて、歩行者は地下道を通る様になっていた。雨が降りっぱなしなので傘を持つ手が疲れ、この遠回りも今日はありがたい。
そこから200mちょっと歩くと左手の料亭に「藤棚」があった。樹齢は二百数十年にもなると説明されていた。
その先約50mに立派な「常夜灯」があった。伊勢両宮常夜燈である。・・・この常夜燈は、文政元年(1818年)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込め桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。石工は桑名の根来市蔵とある。・・・周りには彼岸花が咲き、手前の小さな川近くにはカニが動いていた。こんな所にと思いながら、つい眺めてしまった。

この先は、「安永第一公園」となっていて行き止まりだ。江戸時代はこの先に「町屋橋」が架かっていたらしい。現在は、左の下流側100mに架かる国道の「町屋橋」を渡る。

渡った後、「町屋橋南詰信号」を右折、80mで左折し街道の続きを歩いた。右手に「真光寺」を見ながら進むと、左手の民家の前に一里塚跡と書かれた石碑を見つけた。
ところで今日はお祭りなのか、街道上に鳥居の様に木を組み、御神燈と書かれた提灯が幾つか上部に並べたものが何ヵ所かあった。(写真左端に見えるのがそれです。)残念ながらこの雨では、盛り上がりにも欠けるであろう。

雨の中をトボトボ歩いていくと、「近鉄 伊勢朝日駅」横の踏切に出た。ちょうどお昼を回った所なので、食べる所が無いか見てみたが無い!食堂らしき店が一軒あったが日曜日なのでおやすみ。傘を差し続けていたので手は疲れるし、その上地図とカメラを持って写真も撮りにくい。四日市まで歩くつもりだったが、ここで断念した。昔の旅人を模して、宿場から宿場まで歩く事を基本としてきたが、残念ながらそれを破る事になった。雨中の街道歩きは、一つも楽しく無くなかった。
トイレに行きたいが小さな駅でその設備も無い。仕方無くホームで持参のパンを食べながら実家へ帰る電車を待った。とても残念な1日だった。

10月4日、平日だが時間が取れたのでリベンジだ。もう一度桑名から歩こうかと思ったが、無駄なので続きから歩く事にした。今回は滋賀県草津市の自宅からJR草津線・JR関西線を経由し、一旦乗り換え便利な桑名駅で下車。そして近鉄線に乗り「近鉄 伊勢朝日駅」まで戻ってきた。
8時40分出発。駅を出てすぐ左手に小さな公園があり、新しい「旧東海道」と書かれた石柱。そしてそのまた先の民家前には、説明看板に推定年齢約300余(300年という事だろう)と書かれた「榎」があった。どうやら松並木に混じって植えられていたらしい。

少し歩くと左手に江戸時代後期に活躍した国学者の「橘守部(たちばなもりべ)」の生誕地。そして右手に、徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたので、門などに葵の御門が入っている「浄泉坊」を見ながら歩く。開基が明応5年(1496年)という「西光寺」を過ぎ200m程行くと道は左へ右へと曲がり続いていた。そこから700m程歩くと前に「伊勢湾岸自動車道」の高架が見えてきた。高架手前の交差点で右の方を見ると多賀大社常夜燈があった。

高架をくぐると「朝明(あさけ)川」に架かる「朝明橋」を渡った。空を見ると今日は雨が降っていないが、どんよりと曇り、先日の悪夢がよみがえった。この辺りから四日市へと入った。

川を越えてしばらく歩くと左手に松寺の立場跡と書かれた説明看板があったので写真を撮っていると、先程から道端に座って雑談をしていた三人のおばちゃんの一人が話し掛けてきた。「にいちゃん、何撮ってんの?」私・・・「にいちゃんとちゃいますが・・・東海道を東京から京都まで歩いてます。看板の後ろの石碑は何ですか?」おばちゃん・・・「東京から歩いてんの!?石碑は、そんなん個人が立てたものやで。」碑は私にとって余り値打ちが無い物と分かったが、おばちゃん達と話しが出来て心が和んだ。
おばちゃん達と会話を終え、その場を気分良く後にした。しかし、ここは旧東海道。今で言えば道では「東名・名神高速道路」、鉄道では「東海道新幹線」にあたる。そんな所でおばちゃん三人が玄関前の石段に座って井戸端会議・・・とても滑稽に思えてきて、一人でついニヤリと笑ってしまった。

心軽やかに歩いて「県道26号線」と交わる信号のある交差点を越えると、民家の前に鏡ヶ池と書かれた石碑があった。・・・聖武天皇が行幸の際、風が吹き天皇の笠が池に落ちた。ちょうどその時洗濯をしていた娘が笠を拾い上げ、その縁で宿を取られたという。翌朝、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇と見送る娘の姿が、鏡のような池に映り絵の様だった。以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになった。・・・

道はすぐ「JR関西線」の踏切となっていて、ちょうどその上に「三岐鉄道」の高架が架かっている場所を過ぎ、その先では一応小さな十字路になっているが、道路の白線に従い左へとカーブ。再び「三岐鉄道」の高架があり、続けて「近鉄 名古屋線」の高架をくぐる。するとすぐ右手に冨田の一里塚阯があった。

240m歩くと左手に八幡神社址。があり、「力石」というのがあった(写真左下)。・・・「力石」は、鎌倉の頃より、江戸、明治、大正と時代を越えて若者たちに愛され継承されてきた。ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう。・・・その先右手には「行啓(ぎょうけい)記念道路」と書かれた石碑があった。明治43年に皇太子時代の大正天皇が来られ、通られたことを記念して建てられたらしい。

そこから約190m歩く。この辺りで右折するのだが、少し不安があったので近くの果物屋のおやじに聞いて確認した。資料の通り、果物屋さんの手前を右折で合っていた。(写真右下から「止まれ」の道路標識を右折)

すぐ右手に「津市元標へ拾里」と書かれた石碑や、その少し先の「富田地区市民センター」にも同じ様な石碑で「右 富田一色 東洋紡績 川越村 道」と書かれたものがあった。

そしてその隣に「市立富田小学校」があり、明治天皇富田御小憩所阯の石碑(写真左)や、明治天皇御駐輦跡の石碑(写真右)が並んで建っていた。近くにあった説明看板によると、明治天皇がここにあった広瀬五郎兵衛方に都合4度休憩されたと記されていたので、石碑が2つあるのもうなずけた。

150m歩き「十四橋」という小さな橋を渡ると、すぐ右手に常夜燈があった。この常夜燈は、天保10年(1839年)のものだ。
そこからしばらく歩いた右手に「常照寺」というお寺があり、そこで10分休憩させてもらった。

10時45分、休憩を終えて歩き始めた。「常照寺」を出るとすぐT字路になっていて、突き当たりには、「新設用水道碑」というのがあった。そしてその横にまた「力石」があった。ここには2つあり、一つには「三十二メ」(32貫・約120kg)、そしてもう一つは「五メ」(5貫・約19kg)で子供用らしい。

突き当たりを左折すると、街道は右へ90度カーブ。「右 いかるが、左 四日市」と書かれた小さな道標を見ながら進む。「県道64号線」の高架下をくぐり、400m程歩くと橋の手前に大きな常夜燈があった。

そこからしばらく歩くと、左手に松の木が1本立っていた。「東海道 名残松」と書かれていたので、松並木の生き残りの様だ。しかし、「浮浪雲」さんの「東海道一人旅」のサイトには、2本の松が写った写真が載っている。残念ながら1本枯れてしまったみたいだ。う〜残念!!

600m程進むと街道は右へと曲がり、「国道1号線」に合流。280m進むと右手に大正時代の小さな道標があった。

380m進むと旧道は左斜めへと細い道に入る。(写真左上の「東海道」看板が目印)
また入口付近には、大正4年建立の「国寶之三大御道」と書かれている道標もあった。(写真右上)

100m程進むと突き当たりとなり、「海蔵川」手前の緑地に平成13年3月に建てられた、三ツ谷一里塚跡の石碑があった。「一里塚」はもう少し南にあったらしいが、昭和20年代に海蔵川を拡幅したため、川の中に取り込まれたらしい。

この先は現在橋が無いので、川沿いに40m右へ進み、「国道1号線」の海蔵橋を渡る。そして渡ったら左折し、二又に別れている道の右へ進む。道は右に90度カーブし、ちょうど先程の「海蔵川緑地」へと進んだ道の、続きになっているのが分かる。
少し歩くと街道は茶色にカラー舗装され、東海道らしさを演出していた。

「海蔵橋」を渡った付近から750m進むと、今度は「三滝川」に架かる三滝橋を渡る。ここは「広重」の浮世絵に出てくる「四日市」の場面だ。・・・江戸時代は東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10年に板橋に架け替え、さらに大正13年6月、鉄構橋に改めました。・・・

60m進むと左手に、名物「なが餅」を売る笹井屋があった。400年以上の歴史があるらしい。

テレビの「街道てくてく旅」を見ていたが、案内看板も無く、この辺りの「本陣跡」がハッキリ分からない様子だった。そこから260m進んだ右手に、その番組で「本陣」はここだっただろうという建物があったので、撮影した。(本陣跡の確証は、ありません。)

50m歩くとすぐ次の交差点、「国道164号線」を渡る。ところで、この道は見覚えがある。10年近く前、仕事でこの近くの銀行に来た時、通った道だ。その時は興味が無かったので東海道とは思わず、広い国道だけしか通っていないので、勿論街道は歩いていない。
「国道」を渡ると道は、右に緩やかな弧を描いていた。変形の交差点には「道標」が見えた(赤っぽい瓦屋根の建物の角)。右下の写真は、道標近くにあった地図で、右上から歩いてきて左下方向へ進んでいるが、東海道は、「国道1号線」を斜めに横切っていたのが分かる。

「道標」には「すぐ京いせ道」「すぐ江戸道」と刻まれていた。ちなみに「すぐ」とは「まっすぐ」の意味である。文化7年(1810年)12月の建立で、またここにも指で方向を示す手の形が彫られていた。

せっかくなので、前に仕事で来た銀行を探してみたが、駐車場に化し、跡形も無かった。関西の地銀だったが、当初からなぜこんな場所に!?と思っていた銀行だったので、景気悪化で当然の様に撤退したのだろう。
「国道1号線」を渡ると、先程地図で見た、東海道名残の斜めに横切る道が続いていた。国道沿いで歩いて来た方へ振り返ると、旧東海道が頭の中に浮かんで来た。

その斜めの道を歩き始めると、すぐ右手に諏訪神社があった。先程から少し雨が降ってきたが、今日はもう少しなので最後まで頑張れそうだ。

神社の先は「表参道スワマエ」と書かれた商店街で、アーケードになっているので傘を差さずに済んだ。(今日は少しツイてるかも!?)

230m程で広い道に出た。アーケードは終わりだ。(やっぱりツイて無いのか!?)
地下横断歩道を通って反対側に渡る。新しい「東海道四〇〇周年記念」の碑が建っていた。今日はここまで!
(写真は通って来たアーケードを振り返って撮影。)
「近鉄 四日市駅」までは進行方向の右手350m程、しかし「JR 四日市駅」までは左方向へ780mもある。前回雨に降られなければ「近鉄」で実家へ帰る予定だったが、今回は自宅へ帰るので「JR」を利用しなければならない。少し多めに歩かなければ・・・(やはりツイて無かった!)
「JR」の駅は「近鉄」に比べ古くて人気が無い。少し侘びしい気がした。


桑名宿〜四日市宿の地図