41.鳴海宿〜宮宿



ここから先は海・・・



2006.09.23.(土)  天気 : 晴れ
鳴海宿〜宮宿の地図






今回は妻と歩く事になった。午前9時、鳴海ではなく手前の「名鉄 有松駅」に降り立った。折角一緒に歩くなら、妻に有松の町並みを一度見てもらいたかったからだ。
前回同様のルートを歩き、午前10時「鳴海 本陣跡」に到着。今日の本番はここからだ。100m先の「作町信号」で大きく右へとカーブし、先へと進むと黒塗りの立派な家が目に付いた。玄関先には日の丸が掲げてあった。そう言えば今日は「秋分の日」であった。

その少し先には「成海神社」の入口を示す石碑が建っていて、ちょっと歩くと右手に丹下町常夜灯が見えた。・・・鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。寛政4年(1792年)、篤志家の寄進により設置されたものである。・・・と、説明書きがあったので、鳴海宿はこの辺までだったのだろう。

500m程歩いたであろうか、右手の空き地に説明看板が立っていたので読んでみると、鉾ノ木貝塚と書いてあった。・・・縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。土器が出土しており、上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている。・・・

そしてその横の細い道を上って行くと公園になっており、千鳥塚というのが建っていた。・・・この碑は、貞享4年(1687年)冬11月、寺島安信宅での歌仙「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥」の巻が、満尾した記念に建てたもので、文字は芭蕉の筆。これは、芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚であり、俳文学史上稀有の遺跡といってより。・・・ここの公園は「千句塚公園」といい、街道から随分と上った所にある。10時38分、坂を上った疲れもあり、ここで休憩とした。階段に腰を掛けてみると、見渡す限りビッシリと家やビルが建っているのが見えた。ここはもう都会であることが感じられた。

10分休憩後、街道のある「鉾ノ木貝塚」まで戻り、「山王山信号」や「天白川」を越え、緩やかな坂を下って行くと左手に新しい「東海道」の石碑が建っていた。この先、この石碑を何度も目にし、私達を道案内してくれることのなる。

その目と鼻の先に、東海道分間延絵図を大きく再現したものが、突然道中に展示してあるように設置されていた。絵図は、「有松」付近から「宮宿」まで表示されていた。正に今日歩くルートで、指でたどってみる。海で東海道が分断されているのが、ハッキリと目で確認する事ができた。

街道はこの付近で右へ大きく曲がっていた。そしてカーブを過ぎると、目の前に榎が植わっている笠寺一里塚が目に入ってきた。・・・ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道に残る唯一の一里塚で、東側の塚だけが現存している。・・・

430m進む、街道右手に門前に池がある笠覆寺に着いた。池には亀がウヨウヨいる。門をくぐると赤い幟がたくさん立っていた。「笠覆寺」は通称「笠寺観音」と言われていて、地名や駅名になっている。折角なので妻と道中の無事をお祈りした。
時刻はお昼前の11時35分、ここで10分休憩した。チャボと猫が休憩場所の周りをウロウロしていて、身体のみならず気持ちまでを和ませてくれた。

建物に向かって右手には玉照堂が建っていた。玉照姫と藤原兼平公が祀られているらしいが、そのいきさつは説明看板に書かれていた。・・・元は「天林山 小松寺」と言い、善光上人が作った観音像をおさめ天平8年(736年)に建てられた。約二百年後寺は荒廃し、観音様は風雨にさらされるようになっていた。ある美しい娘が雨の日、ずぶ濡れになっていた観音様を気の毒に感じ、自分の笠をはずして観音様にかぶせた。その縁か後日、関白・藤原基経公の息子、中将・藤原兼平公が下向のおり、その娘をみそめ、自分の妻とした。妻となった娘は、それから「玉照姫」と呼ばれることとなった。・・・

門を出ると街道の左手には「笠寺由緒 當山安置 玉照姫」と書かれている泉増院があったが寄らずに先へと進んだ。

寺を出ると街道はすぐ右へ曲がり、そして左へと曲がっていた。そして「笠寺商店街」を抜け、広い道路の「環状線」を渡る。道はすぐ「名鉄」の踏切を渡り、余り道幅が広く無いが四方に横断歩道がある十字路へと出た。東海道はここで右折するが、角の「はんこ屋」さんの前には新しい「東海道」と書かれた石碑が建っていたので迷わずに済んだ。

400m程歩き左手に曲がって見ると、神社の赤い鳥居の横に「東海道」と大きく書かれた石碑があった。よく見てみると、「宿駅制度制定四百年記念碑」と書かれていた。平成13年に建てられたものらしいが、何百年後に「東海道」を歩く人達は、ここを撮影スポットとして、写真を撮られるのであろうか!?(最も、その頃には写真というものが無くなっているかも知れないが・・・)

街道に戻り先へ進む。「呼続小学校前 信号」で、通称「東海通」を渡り、そこから160m余り進むと、右手にまた「東海道」の新しい石碑があった。そして右折して延びる細い道は「鎌倉街道」と明示されていた。
150m歩いた所に喫茶店があったので、そこで冷たいアイスコーヒーを飲んで休憩した。時刻は12時25分だ。

冷たいコーヒーで生き返り、12時40分に再出発。120m先の右手に「熊野三社」の鳥居があったが、脇には先程も見た「宿駅制度制定四百年記念碑」が建っていた。

420mで「山崎川」に架かる「山崎橋」があり渡る。下を見ると鯉が泳いでいた。案外綺麗な川の様だ。ところで街道は、ここを左折して進むのだが、前を見るとフェンスに囲まれた道標が建っていた。

景色はビルが建ち並ぶ都会の景色になってきた。「名古屋高速道路」が見えてきた場所で、ふと下を見ると歩道上に小さくなってヒッソリと建つ「東海道」と書かれた近代の石碑が建っていた。

先程の橋から約600mで「国道1号線」と「高速道路」に上下を挟まれた歩道橋で道の反対側に渡る。

南から来た「国道1号線」はここで旧東海道と合流して先へと延びていた。次の「内浜 信号」辺りから国道は高架へ、そして旧街道は側道となっていた。

国道左側の側道を進み、JRの踏切を渡る。すぐ先で喫茶店に裂かれる様に道が延びているが、旧道は左斜めなのでそちらに向かって進んだ。

150m程で今度は「熱田橋」を渡るが、現在の東海道では愛知県最後の橋だ。そしてすぐ「名鉄 常滑線」のガードをくぐる。この辺りから歩道と車道の境目に小さなコンクリート製の杭の様な物がいくつもあり、茶色で包まれていて、そこには「東海道」と書かれていた。

そしてガードのすぐ先左手には、裁断橋址都々逸発祥之地の石碑があった。「裁断橋」は、ここのすぐ東に流れていた精進川に架かっていたが、大正15年に埋立られたらしい。なお、「裁断橋」を渡ると「宮宿」だったらしい。

そしてこの建物は姥堂で、階段を上った2階に復元された「姥像」が安置されていた。・・・延文3年9月(1358年)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。昭和20年3月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の座像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。・・・

そこから200m近く歩くと街道は、緑の中央分離帯がある道路で遮られていた。仕方が無いので、少し右へ歩き「国道1号線」の「伝馬町 交差点」を渡り、再び向側に見える旧道までUターンした。

旧道は200m程先で、T字路の突き当たりとなっていた。その左角に道標が建っていた。・・・ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。・・・ここを左折すれば東海道の続きで、右折すれば美濃路となる。

そしてその突き当たり場所に、ほうろく地蔵があった。・・・この石地蔵は、もと三河国重原村(現在知立市)にあったが、野原の中に倒れ、捨石のようになっていた。ところが、三河より焙烙(ほうろく)を売りに尾張へ来るものが、荷物の片方の重しとしてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売りつくした後、石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこの石仏を発見し、安置しようとしたが、動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、皆が不思議なことだと思い、その台石を掘り出し、この石仏を置いたのが、すなわちこの地蔵である。・・・

分岐点(追分)を左折して進むと「国道247号線」が斜めに横たわっていた。ここは「熱田区伝馬一丁目」と書かれた歩道橋を渡る。と、すぐに「蓬莱軒」といううなぎ屋さんがあった。もう午後2時だが、今日のゴール地点である渡し場はすぐ近くなので、食事は後回しにしよう。

うなぎ屋さんから150mも歩けば、もう渡し場(宮の渡し公園)が見えた。道を右へとカーブして行くと、右手に現在は「グループホーム」になっている熱田荘という建物があった。・・・この建物は明治29年(1896年)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭であった。建造時期は新しいが、近世の町屋の形式を継承しており、旧船着場に面して建ち、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の有形文化財に指定されている。・・・

その数軒先には丹羽家住宅が建っていた。・・・丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の藩名入りの提灯箱が残されている。創建は不明であるが、天保12年(1841年)の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。・・・

そして左手は、七里の渡しがあった船着き場である。今日の東海道歩きは、ここがゴール地点だ。お江戸日本橋を出発して、とうとうここまで来た!・・・そんな感じである。東海道は、ここから海を渡って桑名宿へと続くのである。名前の通り七里を舟に乗って行くのだが、実際は引き潮で遠回りとなり、十里くらいにもなったらしい。

「宮の渡し公園」内には、再建されたという熱田湊常夜灯が建っていた。・・・常夜灯は寛政2年(1625年)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応3年(1654年)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791年)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年復元した。・・・

また、その横には時の鐘も再建されていた。・・・延宝4年(1676年)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人びとや東海道を旅する人びとにとって重要な役割を果たしていた。昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。・・・

「七里の渡し着場跡」を眺めていると、ここから桑名に向かう人々を乗せた舟が、思い浮かぶ様な感じがした。船に乗って桑名まで行きたいところだが、残念ながら現在は遊覧船の船着き場しかない。ここからは佐屋街道を通って桑名に向かう手もあるのだが、江戸時代は途中からやはり舟を使っていたらしいので、次回は桑名から歩く事にする。旅人が七里の渡しを利用していたということは、宮宿〜桑名宿間は結局歩いていないという事だから、前々からそうしようと考えていた。
ところで写真を撮った後、公園内の休憩できる場所で一休みしようと思ったら、一杯荷物が置かれて座れない!どうやらボランティアで公園内を掃除する子供達の荷物の様だ。掃除するのは感心するが、ここは一部の人達の物では無いのだ。指導者の方達は、ここは他人が使う場所であるという事も教えていただきたい。ゴミを勝手に捨てるのも迷惑なら、公共物を他人が使用出来なくするのも迷惑になるのだから・・・

気を取り直し、来た道を戻る。2筋目を左に曲がってみると、「白鳥消防団詰所」の前に説明看板があるのが目に付いた。西浜御殿跡と書かれていた。・・・西浜御殿は承応3年(1654年)尾張藩二代藩主徳川光友が造営したもので、東西36間(約65m)、南北33間(約59m)に及ぶ豪壮なものであったといわれ、幕府高官や公家、大名の客館として使用されていた。・・・

ひつまぶしを食べるために先程の「蓬莱軒」に寄ってみる。しかし昼の部は午後2時でオーダーストップ!!時計を見ると3時前になっていた。残念・・・!
悔やみながら横の道を入ってみると、駐車場に宮の宿赤本陣跡の説明看板を見つけた。来る途中で本陣跡を探してみたものの分からなかったので不幸中の幸いとなった。

気を取り直して、熱田神宮へ行くことにした。そして昼食は、開いているうなぎ屋さんを見かけたところで、という事にした。「ほうろく地蔵」まで戻り、そのまま真っ直ぐと佐屋街道へと進めばよい。しかし、「国道1号線」は真っ直ぐ渡れないので近くの歩道橋を渡る。神宮手前にも「蓬莱軒」があったが同じく準備中だ。
熱田神宮に着くと大きな木の鳥居があった。「広重」の浮世絵に出てくるこの鳥居なのか?と思いながらくぐって中へと進んだ。

境内は神社なので木々で薄暗い。どんどん進んで行くと、大きな楠の木があった・・・境内には楠の木が多く、特に大きな楠七本を七本楠と呼び古くから有名である。この楠は、弘法大師お手えとも言われ樹齢は千年以上と伝えられている。・・・

その先には瓦を何枚も重ねた信長塀が横たわっていた。・・・永禄3年(1560年)織田信長が桶狭間出陣の際当神宮に願文を奏し、大勝したのでその御礼として奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び、日本三大塀の一つといわれている。・・・

そして本殿前まで進み、ここまでの旅の御礼と、残りの旅の無事を祈願した。
帰りは「JR熱田駅」から乗る予定だったので、そちらに向かった。途中「名鉄 神宮前駅」付近でうなぎ屋さんを発見!夕方4時前に妻と二人で、やっと昼食にありつけた。大望のひつまぶしを美味しく頂き、気分良く帰途に着いた。


鳴海宿〜宮宿の地図