知立宿〜鳴海宿の地図 |
8時38分「名鉄 知立駅」を出発。前回通った「了運寺」を通り「国道155号線」へと向かう。「国道」を渡る前に右手の総持寺跡大イチョウを見に行った。民家の立ち並ぶ中にポツンと大きな木があった。少し場違いな気がした。・・・元和2年(1616年)ここに玉泉坊を創建、貞享3年(1686年)総持寺と改称、明治5年(1872年)廃寺となり境内は民間の手に移った。総持寺はその後大正15年(1926年)に西町新川に再建され、現在に至っている。いちょうの木の高さ12m、目通り3.57m、樹令250年と想定されている。・・・
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国道を通り「知立神社」の入口前まで来た。左手に総持寺があった。鐘楼門は少し変わった形をしていた。
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その門の向かって右側に於萬之方誕生地の石碑がわずかに見えた。於萬之方は家康の妾らしい。
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200mで広い道に合流、右折して「逢妻橋」を渡る。そしてすぐまた「国道1号線」に合流、左折して進む。そして「刈谷市」へと入る。しばらく歩くと歩道橋に「一里山町」の文字が・・・近くに一里塚があった事を証明している。しかし現在は跡形も無く、どこに存在したのか分からない。
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750m位歩いて、「刈谷市今岡町」と書かれた歩道橋の手前を左へ入り、細い旧道へと進む。230m先の左手に「洞隣寺」があり説明書きを見てみると見てみたくなる墓が二つ紹介されていたので、寄り道する事にした。一つは中津藩士の墓で、もう一つはめったいくやしいの墓だ。・・・中津藩士の墓→寛保2年(1742年)豊前国(大分県)中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に斬りつけ2人とも亡くなったため2人の遺骸は洞隣寺に埋葬された。ところが2人の生前の恨みからか、いつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は改めてあつく葬ってからは墓は傾かなくなったといわれる。・・・めったいくやしいの墓→昔、洞隣寺の下働きの娘が高津波村の医王寺へ移ったところ、住職に一目ぼれした。しかし僧は修行の身で娘を寄せ付けなかった。娘は食も進まずに憤死してしまった。洞隣寺の和尚は亡骸を葬ったが、墓石から火玉が浮かび油の燃えるような音がしたり「めったいくやしい」と声になったりして医王寺の方へ飛んで行ったといわれる。・・・
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ところで後で写真を見て分かった事だが、先程の「洞隣寺」の説明書き下部にあった地図には、「一里山町歩道橋」の少し先から旧道は右へと入り、そして「今岡町歩道橋」手前で「国道1号線」に合流する様表示されていた。 さて街道に戻るが、寺を出てすぐ右手にひもかわうどん発祥地と書かれた木柱があった。説明看板には「いもかわうどん」と書かれていたが、・・・この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。・・・
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600m程歩くと右手奥に「乗蓮寺」があり、大きなシイの木があるらしいので寄ってみた。門を潜ると左手に立派な木があった。・・・樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定された。幹の根本に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられる。昭和34年の伊勢湾台風で、大部分に損害を受けたが、現在は樹勢を回復し、今では実も付き始めている。・・・
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200m弱で道は行き止まりになっていた。よく見ると左右に走る「県道282号線」は、左に旧道と平行して走っている名鉄線を潜るため、一段低い位置を通っていた。街道は前に見える「今川歩道橋」を渡って先へと続いていた。
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350m程で「国道1号線」にまた合流するが、地下道を使って右側へ出て、国道の右側に平行している旧道を進む。そして「境川」に架かる境橋を渡るが、ここで三河から尾張へと入る事になる。・・・慶長6年(1601年)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち会いで橋が架けられた。この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。・・・
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橋のたもとには、「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」の石碑があった。・・・狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666年)当時の境橋は、尾州側は木橋三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。読み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸殿と称せられた。・・・
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橋を渡ると目の前に「伊勢湾岸自動車道」が見えた。それを避ける様に左の平行している「国道1号線」と合流し、そしてすぐその高速道路を潜った。ちなみにこの付近は「国道1号線」や「国道23号線」から「伊勢湾岸自動車道」に合流する複雑な立体交差で、頭の上が賑やかな場所だ。すぐ先の「名鉄 豊岡駅」付近を過ぎる頃に雨がパラついたが、すぐに止んだ。いまだに天候にはツイている様だ。 駅前から600mちょっとで国道と分かれ左の旧道へ進む。その分岐点には「阿野一里塚」の看板があるが「この先200M」と書かれている。「浮浪雲」さんの「東海道一人旅」のサイトには、「この先200M」の文字が無く、看板の近くを探されたと書かれていたので、それを見て書き直されたのかな!?・・・と思い、少し笑ってしまった。
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そこから看板の通り200mで街道の両側に阿野一里塚があった。まず右側の塚に寄ってみた。少し土が盛り上がり、塚の形がまだ残っていた。
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そして左の塚には、森市雪(いちせつ)作の「春風や 坂をのぼりに 馬の鈴」の句碑や、文化年間の石碑が建っていた。 時刻は11時で、ここで10分間休憩する事にした。するとスポーツ体型の中年の男性が来られた。私と同じく東海道を西へ歩いているとの事だったが、この方はスポーツとして歩く事を重視されている様な感じで、スタスタと先へ歩いて行かれた。そう言えば「洞隣寺」付近でも街道歩き風の男性2名を見たが、何やらジックリ碑を眺めておられたので声が掛けられなかった。東海道を歩くのも、色んなタイプの歩き方があるものなんだと知らされた。
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再び歩き始め、300m行くと左手の「豊明小学校」前に大きな松の木がポツンと一本立っていた。この木だけは枯れたり切られたりせずに、無事現代まで残った様だ。
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一度聞いただけで覚えてしまう、「名鉄 前後(ぜんご)駅」近くまで歩くと右手に古い道標が建っていたが、何が書かれているのかよく分からない。
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「神明社」の入口を過ぎ、道標付近から600m程歩くと、右手の「落合公会堂」前に寂応庵跡と書かれた石碑を発見。しかしどういう場所だったのかは説明が無いので分からなかった。 私は少し先の「新栄町信号」で右折し、前もって調べてあった一号線沿いの「吉野屋」で昼食を取った。時刻はちょうど12時前だった。
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12時17分街道へ復帰。650mで右側の「国道1号線」へ合流すると馬と蹄鉄をかたどったモニュメントが右前方に見えた。信号には「競馬場入口」と書かれている。そうここは「中京競馬場」の近くだったのだ。国道は名鉄の下を潜り、先へ進んだ。
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ガードを潜って170m先を東海道から離れて左折。大きな病院の渡り廊下の下を潜って進むと、左に桶狭間古戦場が見えてきた。・・・この地は、永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。・・・
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中は小公園風になっていて、たくさんの石碑が建っていた。そしてやっと今川治部大輔(じぶたいふ)義元の墓を見つけた!・・・ここには、その霊が祭られている。以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月に、この墓を建てた。・・・
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そして近くに、説明書きに「七石表の一」と書かれていた石碑があった。・・・今川義元の戦死した場所を明示する最も古いものである。元来塚のみであったが、明和8年(1771年)12月に鳴海下郷家の出資により人見弥右衛門黍、赤林孫七郎信之によって建碑された。・・・
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近くの「高徳院」の法面には徳本の名号というのがあった。・・・徳本行者(江戸浄土宗の高僧、文化文政の頃の人)がこの地を訪れて、敵味方の戦死者の霊を弔うために建てたものである。円筒形の小塔であり「南無阿弥陀佛」の六字の名号がみざまれている。・・・また近くには、義元公の三百忌(万延元年)に建てられた墓もあった。
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そして立派な門の「高徳院」へ行くと、境内に今川義元公本陣跡の石碑を見つけた。芭蕉に句碑もあるらしいが、とうとう見つけられず諦めて寺を後にした。
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街道へ戻り(国道1号線)西へ進むが、すぐさま左の旧道へと入る。しかし340m程で、すぐ国道へ。そこから230mで「大将ヶ根信号」を今度は右の旧道へと進む。ここからの道は、茶色のカラー舗装がなされていて、ちょうど土の上を歩いているように工夫されていた。街道内の建物には「有松絞り」で作られた「のれん」がアチコチに掛けられていた。
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郵便局にも「のれん」が掛かっている。そしてその少し先の右手に「東海道」の道標が建っていた。
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左手先に有松・鳴海 絞会館があった。中に入って見ると「有松絞り」の商品が色々並べられていた。妻の土産に、夏らしい涼しそうなデザインの小物入れを購入した。ここに喫茶店もあるのでアイスコーヒーでも飲もうと思ったが、残念ながら閉まっていたので諦めてここを後にした。
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有松の町並みは、古い家がまだまだたくさん建っていて、江戸時代の雰囲気がするとても良い町並みだ。(後ろを振り返って撮影) 右へ行くと「名鉄 有松駅」の場所まで来た。駅前に行けば喫茶店があるだろうと思い駅前へ。そして大望のアイスコーヒーをクーラーで涼みながら飲んで休憩を取った。
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30分近く休憩し、午後2時35分に喫茶店を出発。街道に戻ってすぐに唐子車(からこしゃ)山車庫というのがあった。そう言えば途中にも「山車庫」をいくつか見かけた。・・・乗せている三体のからくり人形が全て唐子であるところから「唐子車」と呼ばれている。天保年間(1830年〜1843年)に知多の豪商が20年余りの歳月をかけて製作した山車であると伝えられている。その後、明治8年にここ有松に譲られたものである。毎年10月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。・・・
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左手には竹田家住宅の立派な家があった。・・・当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造(ぬりごめつくり)、書院、茶席とも建築的にたいへん優れている。竹田家は、屋号を笹加と言う。・・・
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少し歩くと「広重」の浮世絵に描かれている様な場所があった。岡家住宅がある場所だ。・・・当住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では、現存する唯一の例で意匠的にも優れている。・・・
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そして小塚家住宅と有松のタイムスリップは続いた。・・・当住宅は重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。小塚家は屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいた。・・・
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街道右手を見ると「天満宮」への参道があり、その横には東海道五十三次二代目松があった。・・・この松は、東海道が開かれた当時からこの場所にあった。樹齢三百年のなごりの大木から採種し育てたものです。・・・
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そしてその隣の「祇園寺」を最後に、夢から現実に呼び戻された。有松の町並みはここで終わり名鉄の踏切を渡るが、その真上を高速道路だろうか、建設中の高架道路が横たわっていた。
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踏切から700m位歩くと右手にポツンと一本の松が、しかし大事に残されていた。
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350m先の「平部北信号」を越えた左手に平部町常夜灯が建っていた。・・・文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる。・・・
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そこから先の街道は、しばらく真っ直ぐな道が続いていた。そして緩やかに左へ右へとカーブしている所に、昔の旅をしている人物を現したモニュメントがあった。
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「中島橋」を渡り「鳴海宿」へと入る。そしてすぐ右手に見えた瑞泉寺へと寄ってみた。・・・鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396年)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失。文亀元年(1501年)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている。・・・
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街道は210m程で右へ左へとクランク状に曲がり、170m先で「本町信号」を渡る。そして右折して「誓願寺」へ寄り道した。そして芭蕉最古の供養塔を見せてもらった。・・・誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60cmほどの青色の自然石で、表面に「芭蕉翁」、背面に没年月日が刻まれている。芭蕉が没した翌月、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門下下里知足(しもさとちそく)の菩提寺である当寺に移られた。・・・
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「本町信号」に戻り街道を歩くと80m程で細い道が十字に交差しているが、その手前左手に鳴海宿本陣跡の説明看板が建っていた。看板は、西に向かって歩くと逆方向を向いているので、良く見ながら歩かないと通り過ぎてしまいそうになる。(写真は東向きに撮ってます。)・・・鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。また、予備の脇本陣は、二軒あった。・・・午後3時40分、まだ早いが切りが良いので今日はここまでとした。
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本陣を後にして10分足らずで「名鉄 鳴海駅」に着いた。実はここに来るのを前々から楽しみにしていた。40年程前の小学校時代に祖母に連れられて、鳴海に住んでいた叔母さん夫婦の家に来たことがあるからだ。叔母さん一家もその後引っ越したので、鳴海駅で降りたのは一度切りだった。記憶を呼び戻そうとしたが、残念ながら全然思い出さない。また名鉄は高架工事をしていて、この地平ホームも後1年程でなくなりそうな雰囲気だった。また一つ古い物が無くなる・・・寂しいが仕方の無い事だ。
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ホームで普通電車を待っていると、古いパノラマカーが入線して来た!実はこの電車は子供の時にここへ来た当時から走っていて、一度乗りたいと思っていた電車だ。当時は確か特急のみに使用されていたと思うので、残念ながら長距離で名鉄を利用した事が無かったので、乗った事が無い。どうせなら一番前に乗ってみたい(運転席は2階にある。)と思い、車内で先頭まで行ってみると、みごと空席があった!鳴海駅記憶は思い出せなかったが、子供の頃の夢を叶える事ができて、今日一日歩いた疲れが全て吹っ飛んだ気がした。
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折角パノラマカーに乗れたが、普通なのでスピードは余り出ず、また途中で夕立が降ってきて前方の景色が余り見えなくなってしまった。しかしもう廃車が近いこの電車に乗れて、いい思い出ができた。乗り換えのため後ろ髪を引かれる様な思いで「金山駅」で降車し、JRの特別快速で帰途に着いた。
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知立宿〜鳴海宿の地図 |