岡崎宿〜知立宿の地図 |
約2週間ぶりに、「愛知環状鉄道」の「中岡崎駅」に降りた。この前気が付かなかったが、駅前にNHK朝の連続ドラマ「純情きらり」に関するモニュメントが作られていた。
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駅から100m程北へ進み、前回ゴール地点とした「愛知環状鉄道」のガード下まで戻った。そこから左へ曲がり「東海道」を歩き始めた。110m歩いた所で右に狭い路地が続いていた。看板には八丁蔵通りと書かれていた。説明看板もあり、・・・江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみではなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。・・・とあった。
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街道を90m進むと突き当たりのT字路となり、ココを右折。その場所には新しい道標も建てられていた。これは、私の様な現代の街道歩き人のために建ててくれたのだろうか?なお、この通りは、「八帖往還通り」と言うらしく、そう書かれた石碑も少し先に建てられていた。
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T字路から北へ170mで「国道1号線」へ。そして左折して矢作橋を渡った。現在は270m程の橋だが江戸時代はこれより100m程長く、また50m程下流に架かっていたらしい。なお写真は、橋を渡った西側から撮ったものだが、「東海道五拾三次 保永堂版 岡崎宿」の浮世絵に合わせた感じで撮影したものだ。
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またここは、「日吉丸と蜂須賀小六」が出会ったと伝えられる場所で、橋の西詰めに「出会之像」があるはずだったので楽しみにしていたが、残念ながら橋の工事等で現在は一時移転となっていた。
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橋を渡った所から右斜めへと入る道が旧道だ。入ってすぐ右手に勝蓮寺の門が見えた。この寺は家康の長男信康との関係が深かったらしい。
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550m程進むと今度は誓願寺十王堂があった。建物の前には石碑に「浄瑠璃姫菩提所」と書かれている。説明書きに・・・寿永3年(1138年)3月、矢作の里の兼高(かねたか)長者の娘浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生(すごう)川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造(木像の事か?)を作り、義経が姫に贈った名笛薄墨と姫の鏡を安置した。・・・と書かれていた。
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600m歩くと「国道1号線」に合流、またまた嫌いな1号線歩きだ。1.5kmただ歩いて行くと、右手に「薬王寺」があり、入口付近に多分「三河国薬王寺刀匠鍛刀造址」と書かれている石碑があった。(崩した字なので良く分からない・・・)どうやら、刀鍛冶の碑らしい。道の向かいもお寺で「聖善寺」と言うらしい。どちらも中に入らず国道から写真だけを撮った。
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その先400m程で「安城市」に入り、そのすぐ先の「尾崎東」の信号で国道は左へ旧東海道は右へと分岐していた。旧道に入ると松並木が続く。木は好き勝手に延びているので道にかぶっている物もあり、「ここから樹木に注意」と書かれた道路表紙が建っていた。「さすが東海道。他では見られない標識だ!」と感心しながら先へと進んだ。
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880m程進むと右手に「熊野神社」があるが、その手前に予科練之碑と言うのがあった。説明書きもあり、・・・此処はは第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり・・・と書かれていた。太平洋戦争で戦死した戦友らが建てたものらしい。東海道とは全然関係ないが、ここでこの碑と出会ったのも何かの縁だろうと思い、写真に撮らせてもらった。
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その「熊野神社」で15分程休憩し、再出発。すると鳥居のすぐ横で、東海道 一里塚跡と書かれた石碑を発見。ここは「尾崎の一里塚」と呼ばれていたらしい。そしてその脇に「鎌倉街道跡」と書かれた説明看板も建っていた。・・・1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63ヵ所が設置された。・・・とある。そしてその「鎌倉街道」は、この「熊野神社」の中を通ってた様だ。
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そこから500m程歩いた左手の「妙教寺」入口付近に2本の松が並んで建っているのが見えた。松には名前が付けられていて、街道から向かって右が「格さん」、左が「助さん」と看板が書かれていた。「水戸黄門」からとったものと容易に推察できるが、主人はドコに居るのか?また住人が作った「三河路に 昔をしのぶ 夫婦(めおと)松」という句が書かれた看板も建っているが、これは夫婦の松なのか?名前を付けるのなら統一すればいいのにと思いつつ、いつまでもこの2本が枯れずにいてほしいと思った。
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少し先の左手に明治天皇御駐蹕之所と書かれた石碑があった。ここで天皇が休憩されたので、由緒がある屋敷でもあったのであろうが、その事に関して何も書かれていなかったので分からなかった。
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その少し先右手には、助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられる庄屋柴田助太夫の霊をまつる「永安寺」があり、街道から立派な雲竜の松が見えた。・・・この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は300年くらいと推定されます。この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。・・・
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200m近く歩き「明治川神社 信号」を越えた右手には、明治用水開渠記念碑・通水百周年記念碑があった。ここにも「明治用水」が引かれている様だ。
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そこから松並木が続く。そして1.2km程歩くと、右手に「青麻神社」と言うのがあったが、ここは煩雑な神社で、石碑等が無秩序にゴロゴロ。鳥居に掛かっている神社名が書かれた石盤の様な物も、鳥居の片足に立て掛けてあった。そこには石作りの力士像もあった。地元出身の「濱碇又七」と言う力士らしいが、余り有名では無さそうだ。
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言って悪いが、本当にここは管理がズサンだと思った。明治天皇御野立玉跡と書かれた石碑もあったが、なんと、二つ折れで地べたに寝かせたままだった。誰か管理をしっかりとしてほしいものだ。
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先へと歩くとアチコチに松が残っている。今日は本当に松並木が堪能できる日だ。
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「青麻神社」から約1.6km歩いた「来迎寺公園」で休憩をした。もうお昼を過ぎたが近辺に食事ができる所が無さそうだ。昼食はガマンをして歩かなければ・・・公園の一角に「玉乃井」と言うのがあったが、何か分からず写真を撮った。
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公園から270m〜280m行くと、右へ行く道との三差路があり、その両側に石碑が建っていた。八橋山無量寿寺道標で、見てみると元禄9年に建立された物だ。西暦では1696年となり、300年以上前の物になる。ちなみに「無量寿寺」とは、「在原業平」ゆかりのお寺らしい。地図を見ると700m以上先で往復では1.5km位になる。寄り道にはちょっと遠すぎるので、そのまま街道を進む事にした。
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そこから200m歩くと左手に「一里塚」が見えた。来迎寺の一里塚だ。説明看板があったが、「知立市教育委員会」の看板以外に、「来迎寺小学校6年生」が作った看板もあったのでそちらを一部紹介する。・・・この塚は江戸日本橋から数えて89番目の塚です。また、制作に協力した人々の中に大久保長安という役人がいたそうです。この塚は北と南、両方ほぼ完全に残っており、日本中探してもほかにはありません。そのため愛知県の「県指定文化財」に登録されています。この大切な歴史を守ってください。・・・ちなみにHPアドレスも書かれていた。・・・http://rekisi.ninja-x.jp/ なお、「両側とも残っている」とあったので探してみると、右手の公民館裏手に北側の一里塚があった。ちょうど公民館が塚を隠すように建っているのですぐには見つからなかった。写真は北側から撮ったものだが、なるほど綺麗に2つとも残っていて、涙が出るほどに(冗談抜きです!)感動した。
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一里塚を後にし、900m程歩くと「衣浦豊田道路」の高架が見えてきた。東海道は先へと続いている。
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その手前にまた八橋山無量寿寺道標があった。街道右側で、こちらは元禄12年と書いてあったので、数年新しいものだ。
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資料を見てみると、少し手前に道標があったのを見忘れているのに気が付いた。少し戻って見ると街道左側に見つけた。「見返弘法大師 従是十・・・」下の方が埋もれてよく分からなかった。でも、ブロック塀の一部にされているのは、少し可哀想な気がした。
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再び先へと進む。先程の高架下には歩道橋が架かっていて、まず街道右側を前方に渡り、そして左側へと渡るようになっていた。その途中から先の方を見てみると、見事に松並木が続いていて、道路左側には遊歩道が整備されていた。また、この歩道橋の名は、「東海道並木歩道橋」と書かれていて、ずばりその名の通りだと思った。 午後1時を回ったので、食事が出来そうな所が無いか、歩道橋の上から左に平行して走る「国道1号線」を見渡して見たがどうも無さそうだ。もう少しガマンしよう。
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遊歩道には新しい石柱に「旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒(ちりゅう)」と書かれていた。また「江戸日本橋 八拾四里拾七町」「京都三条 四拾壱里」という事も明記されていた。日本橋から約3分の2歩いたのが分かる。後約124kmあるが、残りが少なくなってきて少し寂しい気分になってきた。他にも「東海道 知立松並木」と書かれた石柱や「道祖神」等も近くに並んでいた。
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すぐ先には四阿風の休憩所があったのでとりあえず休憩。すると30歳前後の若い夫婦が歩いてきて同じく休憩をされた。「東海道を歩かれているのですか?」と声を掛けてみると「いえ、この辺りを今日初めて歩いてみました。」との事。こちらは約3分の2歩いたベテラン気取りで、「楽しいので、ずーっと歩いてみたら?」とお勧めした。他人に歩く事を勧める事が出来る自分に、「我ながら少し成長をしたんだ」と、感じたのだった。
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お二人と別れてスタートすると、近くに小林一茶 歌碑があった。説明書きによると、「はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)」の碑らしい。・・・文化10年(1813年)一茶51歳の時、池鯉鮒の木綿市の繁盛を詠んだ。下句を「銭の山」と詠んだのもある。これよりさき元禄5年(1692年)に芭蕉は「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」と詠んでいる。奇しくも江戸期俳壇を代表する二人が当地の繁盛を詠んだのである。・・・
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その先には馬市が描かれた「広重の浮世絵」、そしてタイトルが「やすらぎ」と書かれた馬の像があった。知立宿は(江戸時代は池鯉鮒宿と書かれていた。)馬市が有名だったので、この様な像が建っているのだろう。
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近くには万葉の歌碑が建てられていた。碑を見てみると、よく分からないが持統上皇が三河御幸の時に詠まれたものの様だ。・・・「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。・・・
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また、その右側には馬市句碑も建っていた。・・・「かきつばた 名に八ッ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。・・・と、説明書きされていた。
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その先「御林交差点」で「国道1号線」を斜めに横切るが、交通量が多いので地下道があり、そこ潜って先へと進んだ。交差点から550m程進んだ所で右折し、「慈眼寺」へ寄ってみた。そこには、馬市の跡と書かれた説明看板と、馬頭観世音菩薩 家畜市場と書かれた石碑があった。・・・池鯉鮒の馬市は、広重の浮世絵「東海道五十三次」で「首夏馬市」と題して描かれている。その昔、池鯉鮒宿は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係で馬市が栄えたと言われている。馬市は毎年4月25日に始まり5月5日に終った。宿駅の東の野(松並木)には四・五百頭の馬がつながれ、馬の値を決める所を「談合松」と言った。明治になって慈眼寺境内に移り、昭和の初期までは馬が牛に変わったものの鯖市も兼ねられ賑わっていたが、昭和18年を最後にその歴史を閉じた。・・・
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再び東海道へ戻り先へと歩く。なお、先程「慈眼寺」へと曲がった付近が、どうやら「知立宿」の入口らしい。 ここも550m程歩くと、複雑な六差路になっている「中町」で右斜めへと旧道は続いていた。(写真では右手から歩いてきて、「知立メリヤス」とトラックが止まっている間の道へと進む。) この付近で、四阿風の休憩所で出会った若い夫婦をまた見かけたが、ここで話し掛けると、またこの先何度も出会った時、その都度話しをしないといけなくなると思ったので視線を合わさずに細い道へと進んだ。そして街道右手の信号から5軒目辺りの「愛生庵」と言う大衆食堂で遅い昼食とした。時刻は午後2時20分だった。ここのご主人と「来迎寺の一里塚」の話しをし、午後2時50分再び出発した。
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食堂を出てすぐ左手に建っていた「旧東海道跡 五十三次 池鯉鮒」の石碑で街道を歩いている事を確認した。
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また右斜め前のマンション前に池鯉鮒宿問屋場之跡と書かれた石碑を見つけた。石碑に書かれていた説明書きを読むと、残念ながら昭和46年に取り壊されたらしい。
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そこから「知立セントピアホテル」の横を通り、広い道を越える。左手角の看板に「池鯉鮒銘菓」と書かれた和菓子屋さんを通過し、街道から離れるが次の細い道を左へ入ると、「国道419号線」手前の左側に池鯉鮒宿本陣跡の石碑が建っていた。また横には一段高く明治天皇行在所聖蹟と書かれた石碑もあった。・・・本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文2年(1662年)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治8年(1875年)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。・・・
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街道まで戻り、100m程歩くと三差路に突き当たる。ここを右折するが、「東海道 池鯉鮒宿」と書かれた石碑があった。今から行く「鳴海宿」と、今日歩いて来た「岡崎宿」の方向をカラーで指し示していた。現代の分かりやすい道標だ。
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その少し先(街道左手)の公園入口に、立派な明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)地と書かれた銅製の碑があった。
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公園内に入ると知立古城址の丸い石碑があった。入口の説明看板には・・・知立城は、元来知立神社の神主であった永見氏の居館であった。29代貞英(さだひで)まで続いたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦で落城した。その後、天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応(きょうおう)のため約三千坪(一万u)の土地を整備した。寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われたが、元禄12年(1599年)の大地震により倒壊した。・・・と言う様なことが書かれていた。
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また、公園内にも明治天皇御小休所阯と記された石碑が建っていた。
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街道はすぐ了運寺に突き当たる。目立つ鐘楼門前を左折し、先へと続く。
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「了運寺」とは道を一本隔てて知立名物の「あんまき屋」さんがあるが、その店の角に少し頭でっかちの「池鯉鮒大明神」と書かれた常夜灯が建っていた。裏を見てみると、弘化4年3月の年号が書かれていて、幕末近くの西暦1847年の物だった。
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「国道155号線」を地下道で潜り160m進むと、右手に「知立神社」の入口があった。しかし神社は、ここから100m以上奥にありそうだ。
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右折して神社に向かって歩く。途中左手に「花菖蒲園」があり、散策してみた。園内には芭蕉句碑があって、「不断堂川(ふだんたつ) 池鯉鮒の宿農(しゅくの) 木綿市」という句が刻まれていた。
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そして「知立神社」に入ってみると(こちらからは、横からの入口となるが・・・)、正面に立派な「多宝塔」が見えた。
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左へ進むと池が見えた。昔は周辺に鯉や鮒が住む池がたくさんあったので「池鯉鮒」と書いて「ちりゅう」と読んだらしいが、この池はその名残なのだろうか。 ちなみの写真の石橋は享保17年(1732年)に掛けられたものらしい。
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本殿の前に位置する拝殿には大きなしめ縄が掛けられてあったが、建物自体は以外と小さかった。 今日の旅はここで終了だ。15時50分、休憩所があったので境内にある自販機で缶ジュースを買って休憩させてもらった。次回は名古屋市に入る。果てしなく長い旅だと思っていたが、この旅の終わりが見えてきた。最近はゴール出来る喜びより、終わってしまうという寂しさを感じる様になってきた。どうしよう・・・! 先の事をあれこれ考えながら15分程休ませてもらい、「名鉄 知立駅」へ向かった。そこから「刈谷駅」へ行き、「JR」に乗り換えて家路についた。
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岡崎宿〜知立宿の地図 |