38.藤川宿〜岡崎宿



二十七曲がりは、間違えそう。



2006.08.14.(月)  天気 : 晴れ
藤川宿〜岡崎宿の地図






1日おいてまたここ「藤川」にやって来た。9時35分、「名鉄藤川駅」を出発し街道へ。スタートしてすぐ藤川小学校前にある西棒鼻跡に着いた。ちょうどお爺さんとお孫さんが蝉を捕りに行くのか、虫取り網を持って近くのベンチに座っていた。今日も天気が良いので暑くなりそうだ!

近くに「藤川の しゅくの 棒ばな みわた せば 杉の しるしと うで蛸の あし」と刻まれた、歌川豊広の歌碑が建っていた。ちなみに「豊広」は、あの「歌川広重」の師匠らしい。

小学校を過ぎると、すぐ左手に十王堂があった。説明書きには十王についても記載されていた。・・・「十王堂」は、十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは、冥土にいて、亡者の罪を裁く十人の判官をいう。秦江王(しんこうおう)初江王(しょこうおう)宗帝王(そうていおう)五官王(ごかんおう)閻魔王(えんまおう)変成王(へんじょうおう)平等王(びょうどうおう)太山王(たいざんおう)都市王(としおう)五道転輪王(ごどうてんりんおう)の総称である。藤川宿の「十王堂」はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710年)の紀年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。・・・

また近くに芭蕉句碑があったがとてもデカイ!説明書きには・・・「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」碑の裏に「寛政五歳次癸丑十月 当国雪門月亭其雄并連中 以高隆山川之石再建」と、建碑の書誌的事項が彫られている。この碑の高さは1.65m幅1.07m厚さ約0.2m。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。・・・通りで大きい筈である。またその近くにも高さ0.9mの芭蕉句碑も建てられていたが、これは別の場所にあったものを大正初期にここへ移したらしい。

持ってきた資料に依ると、この近くに「一里塚跡」があるらしいのでキョロキョロ行ったり来たりして探したがどうも見つからない。近くを歩いていたおばさんに聞いてみたが知らないとのこと。(後で地元の人間では無いと言っていたが・・・)諦めかけた頃、街道左手に一里塚跡と書かれた木製の立札と説明看板を見つけた。資料には街道右手にある様に書いてあったので右ばかり見ていた。考えてみれば「一里塚」は本来街道の両側にあった物だから、左手に示されていても良いのだ。これは「思い込みをして探してはいけない!」という教訓となった。東海道を歩いていると、いろいろ勉強になる。

感心しながら歩いて行くと、道が二手に分かれていた。そこに文化11年建立の吉良道道標が建っていた。「吉良道」は左の緩やかな坂道を上がって行く道で、右の真っ直ぐな道は「東海道」だ。・・・東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。また伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると、雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。・・・

この写真は、株式会社デアゴスティーニ・ジャパン様発行の「週刊 江戸」第37号に掲載されました。

「吉良道」との追分から50m程で名鉄の踏切があり、そこを過ぎると私の好きな松並木がまたここにあった。説明看板も建っていて、「岡崎市指定文化財 天然記念物」となっているらしい。・・・現在は藤川町の西端1kmの間の90本あまりからなり、クロマツが植えられている。・・・と書かれていた。

踏切から先は約550mで松並木が終わると共に、国道1号線と合流となった。街道歩きとしては嫌いな国道1号線を約900m歩き、左手に赤文字で「愛知産業大学 留学生会館 美合寮」と書かれた建物付近から左斜め方向へと入って行った。
そこから200m程入ると左手に、「東海道」と書かれた石のモニュメントの様な物と長椅子が設置されていた。時刻は10時半前、1時間位歩いたので5分間休憩を取った。夏の街道歩きは、こまめな給水と体力をあまり消耗させないため1時間おきで休憩をする事が必要だと悟ったからだ。

休憩を終えて歩き始めると、そんなに多くは無いが、松並木が見えてきた。そして800m程歩くと「高橋」という橋に辿り着いた。資料には、その付近に「源氏蛍発祥地碑」があると書いてあるので、何度も行ったり来たりして探して見たがとうとう見当たらなかった。

「高橋」を渡ると左手には緑一色の田んぼが見えた。案山子がひとつふたつ、ポツンポツンと立っていて、収穫時期まで一生懸命田んぼを守っていた。
そして道はT字路に突き当たった。前には「大平川」が流れていた。街道は川向かいに続いている様子だが橋が無いので右手に見える「大平橋」を渡る事になる。一旦そのまま川岸まで降りて見ると、今は段々に川を堰き止める様な水の流れを調整する工事がされてあった。水量がちょうど川遊びに適した感じなので、何人かの子供達が暑さ凌ぎで川の中に入っていた。私も入りたい気持ちだが、今日は歩きに来たので「大平橋」の方へと向かった。

橋を渡って先程歩いてきた街道の対岸辺りに来ると、「大平川水神社」があり、ここに「大岡越前守縁りの堰堤」があったことの説明も少し書かれていた。

250mで「国道1号線」を斜めに横切り、「常夜灯」を見ながら200m程歩くと「道標」があった。「つくて そこ」と書いてあるらしい。

100m歩いて街道を少し離れる事にした。右折してそこからまた100m程行くと、大岡越前守陣屋跡が整備されていた。・・・「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところです。陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復活しました。・・・ここでトイレを借りたが、仮設トイレだったので蚊がブンブン!慌てて用を済ませて出てきた。

街道に戻り200m程歩く。大平一里塚が左手に見えた。・・・東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。塚の規模は、高さ2.4m底部の縦7.3m、横8.5mの菱形である。塚の中央の榎は巨木となっていたが昭和28年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。・・・片側だけだが、こんな立派な塚が残っているととても嬉しい。

「一里塚」から250mで「1号線」と合流。そして170m程先「ダイソー」付近で歩道が途切れていた。歩行者と自転車はここから右へと曲がり道路の下を3ヶ所潜る。この道路は国道から「東名高速道路 岡崎インター」への出入りの道で、危険なため歩道が迂回する形になっているのだ。
歩道は無事国道と再び合流。道路の向い側に「マクドナルド」があったので、アイスコーヒーを飲みながら軽く食事をする事にした。しかし直接渡れないので、少し先の「岡崎インター西」交差点で前へ左へ後ろへとコの字形に横断歩道を渡り、やっと辿り着いた。

「マクドナルド」は夏休みのお昼時だったのでガキ・・・いやいや子供達が沢山で結構込んでいたが、無事食事と休息を済ます事ができた。
信号を渡り、国道の右側へ戻り午後のスタート!信号付近は街道を模した公園風となっていてそこを歩いてみた。旧道はすぐ先のガソリンスタンド(写真にも少し写っている)の裏手を通っていて上り坂になっていた。350m程歩くと道は右斜め方向に曲がっていて、国道が見えなくなった。

そこから少し先の右手に「法光寺」があり、300m近く歩くと、冠木門と木が植えられ一里塚の様な三角公園風の場所に出た。そこには岡崎城下二十七曲りと書かれた新しい石碑があり、二十七曲りの説明書きと地図が記されてあった。・・・岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590年〜1600年)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本多康重が伝馬町を慶長14年(1609年)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。そのねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁盛することになりました。・・・

「二十七曲り」は、まず三角公園風の場所から前に見える山本農機を左に見るように右斜めに曲がる。そして2筋先の「若宮町二丁目」信号(立体駐車場があり、一角に標石もある)を左折し、「根石原観音堂」を右手に見ながら進む。そして「両町二丁目」信号の2筋先を右折する(「若宮町二丁目」信号から約640m)が、街道右手曲がり角付近に「両町より伝馬町角」と書かれた標石がある。すぐ先は突き当たりとなっていて、前に「ガソリンスタンド」、また右手には「ファミリーマート」がある場所で、そこを左折した。またここを曲がったすぐの所にも標石があった。どうやら「二十七曲り」はヤヤコシイので、曲がり角には標石を建ててある様だ。

その先はしばらく真っ直ぐで、緑道がある広い道を越え進んで行く。500m程進んだ「伝馬」交差点の手前に複製された道標が建っていた。・・・この「道標」は伝馬の脇本陣であった杉山家の所蔵の物を複製しました。素材も当時そのままの岡崎産の良質な「花崗石(みかげいし)」を使用しております。建っていた場所はここより北と推測され、東海道より足助街道へ行く道を示しております。・・・なお、裏面には「左 信州道」と「世話人」が彫られていた。

信号を越えると今度は道路の左側に、東海道に関するものを表したユーモラスなモニュメント風の石碑がいくつも並んでいた。お茶壷道中・朝鮮通信使・助郷・飯盛女・等10体程あった。

石碑をひとつひとつ見ながら歩いて行くと、「伝馬通1丁目」信号手前の道路右側に東海道岡崎宿 西本陣跡の石碑があった。ちょうどコンビニのミニストップの前になる。街道はここでまた左折して続いていた。

そしてすぐ次の交差点で右折する。曲がってすぐ道路左手に石碑を発見!この碑は江戸時代の物かと思ったら、明治二年の物だ。写真では分かりにくいが、指で方向を示した物だった。刻まれた文字は、「きらみち」「西 京いせ道」の他に「東 京みち」になっていたが、明治の碑なので「東京(とうきょう)みち」と読めば良いのだろうか?

200m程進むと街道右手に煉瓦造りのモダンな建物が見えてきた。旧商工会議所で現在は「岡崎信用金庫資料館」となっている。・・・大正6年、岡崎銀行本店として建てられた、赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。戦後、商工会議所として使われていました。・・・

その先2つ目の交差点を右折。ここは道路中央に緑地帯があり少し広くなった道だ。そして曲がってすぐの緑地帯部分に籠田惣門跡のモニュメント風記念碑が建っていた。

そのまま真っ直ぐ進み、「籠田公園」で休憩する事とした。時刻は午後1時35分、とても暑い。木陰のベンチを探しそこで腰を下ろすが、木に多くの蝉がたかっていてとてもやかましい!持参の扇子で扇ぎながら15分程休憩をした。

公園内を散策してみると、籠田総門角常夜灯があった。・・・この常夜灯は寛政10年(1798年)岡崎城下三番目のものとして石工、七左衛門作により籠田総門付近に建立され町内と旅人往来安全の灯として、市井の人々に愛され温かく守護され続けてきたものである。大正時代に旧市役所北側に移転し幸いにも昭和20年7月20日未明の岡崎空襲の災禍を免れ、昭和25年戦災復興事業により整備された籠田公園の一角に再移転、さらに昭和56年4月籠田公園地下駐車場の新設により装いも新たにこの地に再建された。・・・

二十七曲がりは本来籠田公園の中を通っていたらしいが、私は入ってきた公園南側入口から西の方角に進み(道路中央に緑地帯がある道からだと左折になる。)、すぐ次の角を右折、籠田公園沿いに歩く。そしてすぐにある「籠田公園北西」信号を左折した。
ここからドンドンややこしくなる。本町一丁目の信号を過ぎると左には「岡崎シビコ」が見えるが、信号の次ぎにある細い道を右折する。そして突き当たりに「前川内科医院」が見える所で左折。2筋目の「材木町1丁目」信号を右折し、3筋目(左側は3筋目だが、右は1本道が少ない。)を左折する。右手には「ファミリーマート」がある交差点だ。そこから約300m程進むと右手に古い家があり、「唐弓弦(とうゆみづる)」と書かれたこれまた古い看板が掛かっていた。ちなみに「唐弓弦」とは綿を打つ道具らしい。

街道はその先の「伊賀川」の手前を左折、川沿いに歩く。そして一つ目の橋である「三清橋」を渡る。曲がり角に例の標石、「下肴町より田町角」と書かれているのがある。その後三本目の道を左折する。目印は赤い「消火栓」と書かれた背の高い看板位だ。そこから140m程で一つ目の道を右折する。角には銭湯が残っている。道は100mも行かない内にT字路となり、前方は「白十材木店」となっていた。そしてそこを左折すると「国道1号線」に出るが「東海道」はそのまま真っ直ぐ続いていた。しかし中央分離帯にフェンスが張られていて通れないので、右に見える「八帖」交差点に架かる歩道橋を通って迂回した。

反対側に回って来たが、時刻はまだ午後2時半なのでここで一旦街道歩きを中断し、朝から予定をしていた岡崎公園へ行った。公園入口付近には、松の木と共に「岡崎城下東海道二十七曲り」のモニュメントがあった。しかし直接公園へ来られた人は何の事なのか、二十七曲りがどこにあるのか分からないだろう。

「大手門」を潜り、中へと進むと徳川家康公銅像があった。・・・この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。・・・と説明されていた。

そこから右の奥の方へと行ってみると、東照公産湯の井戸が残っていた。・・・天文11年12月26日(1542年)徳川家康公が岡崎城内で誕生した。この井戸の水を汲み、産湯に使用した。・・・

城を左手に南方向へと進むと、東照公胞衣塚というのがあった。・・・この城で生まれた徳川家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものを、ここに移して記念とした。・・・

そのまま南へ進むと川が見えてきた。「乙川」である。そして御城下舟着場跡の石碑を見つけた。・・・昔は帆掛け舟が荷物をたくさん積んで菅生川(乙川)を上り下りした。ここが積荷をあげおろしした昔の舟着き場である。岡崎には「五万石」という古謡がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」。この帆掛け舟を形どった碑は当地方特産の花崗石で出来ており、その古謡に因んで「五万石舟」という。・・・

欄干が朱色の太鼓橋を渡って、岡崎城の見える所まで戻った。お城はそんなに大きくないが、立派な建物だった。いい写真を撮ろうとベストポイントを探してみたがダメで、松の木に遮られた写真となった。折角なのでお城の中に入り見学。そして4階から外の景色を楽しんだ。時刻は午後3時半、時間がまだあるので、もうひとつ見に行こうと予定していた「八丁味噌蔵」を見学しに行く事とした。

「八帖」交差点の歩道橋を渡り迂回してきた場所まで戻り、再びスタート!「国道1号線」を背にして南進。240m歩いたT字路で右折。目印は右の曲がり角が散髪屋さんで、左手にはカーブミラー後ろに「板屋町角」と書かれた標石があった。
そこから100m程で「国道248号線」を横切る。国道を渡った付近に松葉総門跡と書かれた石碑が建っていた。

そこから170m程で「愛知環状鉄道」のガード下を潜る。今日の街道歩きはココで区切りとし、「八丁味噌の郷 工場見学 受付」と書かれた看板に従いガード下沿いに右折して進んだ。

ここは「カクキュー」さんという味噌会社だった。丁度この歩いた時期に放送中の、NHK朝の連続ドラマ「純情きらり」が撮影された場所だった。撮影に使われた小道具等も展示されていた。そう言えば、この写真の味噌蔵も最初の頃に映っていた記憶がある。なお「八丁味噌」の名の由来は、「岡崎城」から八丁(約900m)離れた場所で作られた味噌なのでそう呼ばれる様になったらしい。
夕方5時頃、お盆休みで大勢の見学者が居る味噌蔵から、場違いなリュックを背負った一人のおじさんが、お土産にタダで貰った八丁味噌の小袋を嬉しそうにリュックに詰めて、「愛知環状鉄道」の「中岡崎駅」へと向かって行った。


藤川宿〜岡崎宿の地図