赤坂宿〜藤川宿の地図 |
宿場を通り過ぎると、久々に山が気か付いてきた。道端は田んぼで、のどかな田舎道である。稲穂の頭は、もうかなり実った様子で重そうに垂れていた。
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15分程歩くと左手に「一里山庚申道 是ヨリ・・・」と途中までしか見えない小さな碑が建っていた。どう見ても、そんなに古くはなさそうだ。
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その先には、「三河湾オレンジロード」の高架が見え、街道はその下を潜って先へと伸びていた。
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高架下を潜ると、左手に一里塚跡の木碑があり、そのてっぺんにこの付近の昔の絵図が描かれていた。
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少し先の右手に「長沢小学校」があり、「長沢城跡」の説明看板が建っていた。・・・長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。東海道を挟んで南に岩略寺城跡、北に長沢城跡がある。また、寛永11年(1634年)家光上洛のときに休憩所として建てられたといわれる御殿が、長沢小学校地内にあった。・・・
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左手に流れる川を見ながら「長沢」の集落を進む。「誓林寺」を過ぎてしばらくすると、右手に見た目はそんなに古く見えないが、寛政10年に建てられた秋葉山常夜灯があった。
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少し先には、磯丸「みほとけ」歌碑と書かれた木柱があったが、どれが歌碑なのか良く分からなかった。
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すぐ先で「唯心寺橋」を渡るが、手前の右手、道両側に小さな祠と常夜灯が建っているのが見えた。
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その先の街道は、これまた小さな「千両橋」いう橋を渡り左折するが、目の前は「国道1号線」の「関屋交差点」となっていた。 時刻は12時半だ。写真中央に写っている交通標語が書かれた青い看板の下で休憩をした。看板の下はコンクリートの土台になっていたので座って見たが、やはり夏の日差しに照らされて、とても暑くなっていた。ゆっくりと座れず、結局休憩は3分で終了した。
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細い裏道の様な所を歩いていくと、結局「国道」に合流してしまった。真夏に「国道1号線」を歩くのはイヤなのだが、仕方がない。
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国道の反対側は「名鉄線」が走っていて、赤い電車が駆け抜けていった。またその右側には「東名高速道路」が走っている様だ。
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嫌いな国道歩きを、好きな電車が通過するのを見て気を紛らわし、先へと進んだ。途中工場が2〜3あったがお盆休みなのか、人の気配はあまりなさそうだった。 国道に出てから約1.3km、この辺りでは食べる所があまり無さそうだったので、昼食場所と決めていた「ドライブインまんぷく」に午後1時前、無事到着した。
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食事を済ませ街道を歩き始めると、130m程ですぐ「岡崎市」に入った。
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すぐ先には「自然と歴史を育むまち 本宿」と書かれた石碑があり、冠木門や常夜灯等が新たに造られていた。「是より西 本宿村 藤川宿へ壱里」と題された説明書きもあった。・・・近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。享和2年(1802年)の本宿村方明細書上帳によれば、家数121軒、村内往還道19丁、立場茶屋2ヶ所があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。・・・歩道上がまるで公園の様になっていた。
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「国道473号線」へと別れる「新箱根入口」信号を越え、130mで左へと入る旧道入口に、「左 東海道」と書かれた真新しい道標や本宿の案内看板などが建っていた。ここも綺麗に整備されていて、100年後の人達も間違えずに歩けそうだ。
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やっと静かな旧道に入れた。150m程で左に「法蔵寺」があるが、その入口付近に御草紙掛松があった。・・・この松は家康公手植えの松といわれ、幼少の頃手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。代々受け継がれてきたが、虫害により枯れ、平成18年3月、四代目の松が植樹された。・・・ また門前の茶店で団子が売られていて、法蔵寺団子とよばれていたという説明看板もあった。
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法蔵寺は少し奥まった所にあり、門を潜ると階段が見え、また立派な山門があった。・・・古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳2年(1385年)京都円福寺より来住した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。江戸時代には、東海道に接していることから、参詣者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。家康が幼時この寺で勉学をしたとされ、徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。・・・本堂へ行ってみると賽銭箱に「三つ葉葵」が金色に光っていた。まるで水戸黄門の印籠の様だ。
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境内には新撰組隊長 近藤勇 首塚が胸像と共にあった。説明書きでは、・・・近藤勇は、慶応4年(明治元年)4月25日東京都板橋の刑場の露と消えました。勇の首は、処刑後、塩漬にして、京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼することにしました。しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の39代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。・・・とあった。徳川幕府を最後まで護るため戦った近藤勇の首が、徳川初代将軍の家康ゆかりの寺に埋葬されているとは・・・単に「縁」という一言で済まされない様な、不思議な力が働いた様な気持ちにさせられた。
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街道に戻り約170m歩くと左手に、「本宿陣屋跡と代官屋敷」と書かれた説明看板が目に付いた。・・・元禄11年(1698年)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827年)の建築である。・・・と書いてあった。地図もあり、少し坂を上った所に見える「冨田病院」が本宿陣屋跡の様だ。そして向かって右手に代官屋敷があるらしい。見に行ってみると、駐車場の一角に古い大きな屋敷があった。もちろん蔵もある立派な建物だった。
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街道を180m進むと右手の松の木の先に小さな本宿村道路元標があった。
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少し先の左手にある「本宿町集会所」は「十王堂跡」らしい。「名鉄本宿駅」を越えるとすぐ右手に一里塚跡を発見した。
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街道を進むと変わった松の木を発見。横から伸びてきた木が、まるで車を避けるように途中から上方向に曲がって伸びている。これも現代を生きる松の木の知恵なのか!?
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暑さに耐えながら歩いていくと、左手に古そうな門が見えた。宇津野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡と長屋門と書かれている。・・・本宿村医家宇津野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751-63年)三代立碩(りっせき)が当地において開業したのが始まりといわれている。七代龍碩はシーボルト門人青木周弼(あおきしゅうすけ)に医学を学んだ蘭方医として知られている。・・・
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少し歩くと「国道1号線」と合流するが、手前のサークルKでスポーツドリンクを購入し木陰を探しながら駐車場の一角に腰を下ろして10分間休憩した。合流地点を過ぎた所で振り返り松の木を撮影。国道脇に場違いの様にポツンと立っている大きな松の木が、「ここは江戸時代の東海道が通っていた場所だー。」と自己主張している様に思えた。
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国道を約800m歩くと右下に降りる様な歩道が見え、先を見ると旧道らしき道に続いていた。「名電山中駅」を過ぎ、どんどん歩いて行くと左手に街道ミニ公園風の場所があり、1時間歩いたのでまた10分間休憩。舞木橋を渡って進むと左手に「東海道」と書かれた新しい石碑があった。
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その先は左手から合流してきた「国道1号線」をまた歩く事になるが、「舞木町西交差点」で一旦国道を渡り反対側に進んだ。そして天保4年に建てられた常夜灯があるらしいので見に行った。
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国道へ戻り約700m程歩くと旧道は左へと分岐して行くが、工事中のためちょっと分かり辛かった。この道は「県道327号線」だが、右へと曲がって行く。旧道は県道から離れるように真っ直ぐ進むが、そこは藤川宿 東棒鼻跡だった。・・・宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元に保存されている街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔(はっさく)、朝廷へ馬を献上する一行がきこ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。・・・
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「東棒鼻」の先は細い路地の様になっていて、突き当たりを右へと曲がると先程の県道が左右に延びている。そこを左折して進む。旧道はしばらく真っ直ぐな道となっていて、400m程歩くと左手奥に「片目不動尊」と書かれた赤いのぼりが沢山挙がっている「明星院」があった。そして街道右手には高札場跡と書かれた説明看板が建っていた。
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その先の民家の前には問屋場跡の石碑と説明看板が建っていた。
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もう少し行くと普通の民家に「藤川宿第二資料館」の看板が掛かっていた。その庭先には本陣跡の石碑が建っていた。また、広重の浮世絵が看板に大きく描かれていた。説明看板には・・・藤川宿の「本陣」は、もともとは二軒であったが退転(落ちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には「森川久左衛門」が勤めていた。・・・とあった。
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この裏手に「本陣」の石垣が残っているらしいので、見に行くことにした。二軒隣の「藤川宿資料館」の横から下へと下り(資料館の横に「本陣石垣」と書かれ、矢印で場所を示している。)、「本陣」の裏辺りに回ってみた。確かに石垣らしいのがあるが、ハッキリとは分からない。また場所を探すのに少し分かり難かった。付近に立札でもあれば良く分かるのだが・・・と、一人でブツブツ勝手に文句を言ってしまった。一応写真を撮ってみたが、確かにココなのか不明である。
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元来た道を街道へと戻った。先程の藤川宿資料館へと入ってみた。中は誰もいないし電気も点いていない。どうやら自分で電気を点けて自由に見学してください・・・と言う事の様だ。ゆっくり見たかったが中は締め切ったままなので、とても暑い!また夕立が降りそうな気配だったので駆け足で眺めさせてもらった。
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外に出てみると敷地内に、慌てて建物に入ったため見逃した藤川宿脇本陣跡の石碑があった。・・・江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜太夫」で、「橘屋」と呼ばれていた。入り口の門構えは、一般の家では構えることは許されず、「本陣」「脇本陣」だけに許された。・・・
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夕立が来そうなので、慌てて「名鉄 藤川駅」へ向かった。駅前には綺麗な花と共に、「東海道 藤川宿」と書かれた石碑の様な物が建てられていた。しかし、駅前にはそれ以外何も無い。駅を利用する人も2〜3人見かけただけで、駅構内に入るのを躊躇してしまいそうになるくらいだった。16時10分、今日の旅はここで終了だ。
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赤坂宿〜藤川宿の地図 |