36.御油宿〜赤坂宿



待望の大橋屋へ



2006.08.12.(土)  天気 : 晴天
御油宿〜赤坂宿の地図






あれから一週間後、再び「名鉄御油駅」に降り立った。街道へ戻る前に、前回時間切れで寄れなかった「御油の松並木資料館」へまず向かった。午前10時開館と書かれてあったが、今9時半過ぎ。あと半時間待てばいいのだが、見学時間も30分位必要だろうから入館を諦めた。外には明治時代の御油橋の親柱が展示されていた。また、残念ながら枯れてしまった松並木の松の根が展示されていた。・・・この松の根は、樹令約380年のものです。慶長9年(1604年)徳川家康が東海道に松を植えた最初のものと推定されます。・・・

東海道へ戻って御油橋付近からの宿場内を歩き始めた。前回はお祭りでとても賑やかだったが、普段の静かな町並みに戻っていた。人は誰も見当たらない、これが現代の「御油」だ。
江戸時代は、むしろ前回歩いたお祭りの時と同じ位の賑やかさがあったのだろうかと思うと、時代の移り変わりを感じぜずにはいられない。しかし、旧街道にはこの静けさが、今は似合うのだ。

前回同様「県道374号線」に出て、本陣前を9時55分頃通過。100mちょっと歩くと、左手に東林寺があった。ここには「飯盛女の墓」があるらしいのだが、パスさせてもらった。真夏にフラフラになりながら「二川宿」まで歩いたトラウマがあり、少しでも午前中に歩を進めたかったからだ。

そこから少し歩くと、いよいよ待望の松並木が見えてきた。松並木が始まる街道右手に天然記念物 御油ノ松並木と書かれた新しい石碑が建っていた。説明書には・・・第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、国指定の天然記念物となりました。・・・と書かれていたのは驚きだった。
しかし今日は車が多い!数珠繋ぎで車が並び、その対向車が来る度に、私は避けながらここまで歩いてきたのだが、それでもこの狭い道ではサイドミラーに何度も引っかけられそうになった。

素晴らしい松並木を歩き始めた。車の数も気が付いたら数える程になていて、快適に歩けた。先程の石碑辺りから真っ黒に日焼けされた男性が一人歩いていた。私はゆっくり歩くので追いつかれ、話しかけてみると東海道は前に歩かれていて、この日は「姫街道」を歩いてきたとの事。最後に松並木を見て神奈川県へ帰ると言っていた。

ゆっくり歩いて10分程で松並木は終了し、「赤坂宿」のある「音羽町」へと入った。そしてすぐの右手に見附跡の説明書を発見した。「御油宿」と「赤坂宿」の間はとても近いとは分かっていたが、こんなに近くとは驚いた。

狭い旧街道を歩いて行くと、大きな楠が見えてきた。街道左手にある関川神社の楠だった。

そして境内に芭蕉の句碑があった。「夏の月 御油よりいでて 赤坂や」の句だ。
時刻は10時半、ここで5分間の休憩を取った。

一息付いた後歩き始めると、何やら太鼓の音が聞こえてきた。建物の中をのぞいてみると、子ども達がお祭りの練習をしていた。
左手の「長福寺」越えると本陣跡が見えた。・・・赤坂宿の本陣は、宝永8年(1711年)の町並図によると、4軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。・・・

少し先に右手には古い建物の「尾崎屋」という店があった。行灯の形をした看板がある店であるが、丁度建物の横が道路となっていて、よく車がその角を曲がるため店の写真を撮るのに苦労をした。

その「尾崎屋」の向かいを入った所に浄泉寺があった。境内には広重の浮世絵に出てくる「蘇鉄」が植えられていた。・・・この「ソテツ」は広重の東海道五十三次の内、赤坂「旅舎招婦図」と題された、はたご風景の中に描かれていた「ソテツ」である。明治20年頃道路拡張により当宿の旅籠より当寺境内に移植された。(樹齢・推定260年 樹高・3m 幹周・4.6m)・・・

「浄泉寺」を出て50m程で左手に今も旅館業を営んでいる旅籠 大橋屋があった。・・・大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716年)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行23間ほどであった。・・・
NHKの「街道てくてく旅」では、ここから中継をしていた。どうしても中を見たい!ダメ元で中へ入り声を掛けると、テレビにも映っていた四角い顔(ゴメンナサイ)のご主人が出て来てくれた。「お忙しいのにすみませんが、東海道を歩いている者ですが、中を少し見せて頂けませんか?」と言うと、快く「どうぞ、どうぞ」と言って下さった。
日本橋を歩き始めた頃は、周りの目が気になって、少しオドオドしながら歩いていたが、ここまで来たら積極的になってきた自分に少し成長があったなーと感じながら中へと上がらせて貰った。

テレビで広重の浮世絵に出ていると紹介されていた「灯篭」を見せて頂くようお願いをすると、わざわざ中庭の戸を開けて見せて下さった。これだけはどうしても見たいと思っていたので、感激しながらデジカメのシャッターを切った。
所で、先程見てきた「蘇鉄」も同じ浮世絵に描かれているのだが、別の旅籠の物らしいからどうなっているのだろうか???

ご主人はとても親切な方で、泊まり客でも無い私に「お客さんがいないので、二階も上がって見て頂いて良いですよ。」と言ってくれた。お言葉に甘えて、急な手摺りが無い昔ながらの階段を上り、見せて頂いた。窓の格子から旧街道を見ていると、フッと江戸時代の旅人になった様な気持ちになった。

一階に戻り、周りを見渡したり、屋根裏の梁に昔から載っている米俵を見上げたり、充分堪能させてもらった。ご主人は泊まり客の食事の支度なのか、奥から包丁のトントンという音を響かせながら忙しそうにされていた。そんな中、私の様な身勝手な者が突然訪れても丁寧に相手をして下さり、とても悪い気がしてきた。
店内を見回すと、板間に昔ながらのお菓子を並べ売っていたので、お土産を兼ねて一つ頂く事とした。ご主人に声を掛けて丁寧にお礼を申し上げ、見学料の代わりと言っては何だがお菓子の代金をお支払いし、「大橋屋」を後にした。

「大橋屋」のすぐ先には脇本陣があった。この辺りでよく見かける行灯型の看板に、雨避けと思われるビニール袋を被せてあった。

そのまた先の左奥にある「正法寺」に入る入口付近に石碑があり、見真大師 聖徳太子 御奮跡と書かれていた。聖徳太子???この場所で何か関係があるのか?後で音羽町役場が発行しているリーフレットを見てみると、「正法寺」は推古天皇の時代に聖徳太子を祀ったのが起源と書かれていた。なるほど。

今度は街道右手を見てみると、溝の所に高札場跡があった。

そして左少し前方には、御休処 よらまいかんという無料の休憩施設があった。街道歩きにとって、日差しや雨風を凌げる建物に休憩施設はとても助かる。まるでオアシスだ。先程の休憩からまだ1時間経っていないが、短い休憩だったし、この先の暑さを考えて15分間ゆっくりとさせてもらった。

「よらまいかん」で生き返った後、再び直射日光の元へと出た。すぐ右手の駐車場の入口に赤坂陣屋跡(三河県役所跡)の看板を発見した。・・・赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大薮地内に設けられたが、元禄2年(1689年)神本屋敷に移された。幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治2年(1869年)再び大薮地内へ新築移転された。廃藩置県後、明治5年に廃止となった。・・・

日陰が全くと言っても過言では無い街道を少し歩くと、右手に「郷社八幡社」の鳥居。そしてその先の住宅の片隅に見附跡の木柱が建っていた。

そして左手を見ると十王堂跡の木柱が建っていた。

ほんの少し先だが、右手にまた西見附の行灯看板がある。どっちが本当の見附なのか?しかし「赤坂宿」は、この付近で終わりだったのには間違い無かった様だ。時刻は11時10分、頑張って歩こう!


御油宿〜赤坂宿の地図