35.吉田宿〜御油宿



御油は、お祭りだ!



2006.08.05.(土)  天気 : 晴れ
吉田宿〜御油宿の地図






「脇本陣跡」を出て、300m程歩くと交差点を渡った所に「東海道 吉田宿」と書かれた新しい石碑が建っていた。街道は写真右斜め上方向から写真左方向(歩く方向としては右折)に進む事になるが、石碑正面には大きな公園があり、そこで休憩を取る事とした。
木陰のベンチで20分間休んだが、やはり真夏なので暑い!そして木には沢山セミがたかっていて、鳴き声がとてもやかましい。気分的には余り休めた感じではなかったが、体力的には充分だった。

休憩を終え北へ200m歩く。信号を越えた所に西惣門があった。「東惣門」からの「吉田宿」はここまでとなる。・・・吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。惣門に左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄せの空地十七坪がありました。・・・

そこから北上し、次の信号を左折しないといけないがそのまま真っ直ぐ進み「豊川」沿いまで出てみた。左の方に今から渡る「豊橋」が見えた。

信号まで戻り、街道を歩く。160m程歩き右にある「湊町公園」に寄ってみた。凝った造りの石橋が架かっている築嶋辨天社があり、その隣には「神明社」があった。

再び街道へ戻る。120m先の「船町交差点」を右折し、180mで先程見えた豊橋に着いた。近くに「高札場」の説明書きが建っていて、・・・寛永13年(1636年)幕府の命により、橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより73m下流)に高札場を設けた。この高札には、河川の取締り、橋の保護など極めて重要な取り決めが掲げられていた。・・・と書かれていた。

綺麗な川の景色を見ながら「豊橋」を渡り左折する。140m先の右手に安政二年の常夜灯が建っていた。

そこから150m程行くと、聖眼寺(しょうげんじ)が右手にあった。ここには「松葉塚」というのがあるらしいので境内に入ってみた。「松葉塚」の説明書を見つけ写真を撮り、その前にある古そうな石碑をその塚と思い撮影した。後日、説明書の写真を見るとその石碑は残念ながら「松葉塚」では無く、「標石(しるべいし)」だった。よく読まずに写真を撮ったので、石碑を見る事無しにその場を立ち去ってしまったのだ。・・・残念!!・・・聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769年)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754年)建立の標石があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。『松葉(ご)を焚(たい)て手拭あふる寒さ哉』古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687年)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国(とこく)の身を案じて渥美郡保美(ほび)の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。・・・

「聖眼寺」を出て数分歩くと、右手の歩道上に下地一里塚跡の石碑を見つけた。「日本橋」から74里目の一里塚だ。

すぐ先の「下地交差点」を過ぎ、そこから200m程歩くと、左手に古そうな倉庫が建っていた。どうやら江戸時代から菜種油を製造し始めたメーカーらしい。

そろそろ昼食を食べようと思い、店をキョロキョロ探しながら歩く。約700m歩いた右手に「うどん」と大きく書かれた「なかむらや」と言うお店に入った。今日も晴天で暑くてたまらないので、ざるそばを注文した。時刻は12時40分になっていた。
お腹は一杯、体はクールダウン、足の疲れも少し回復。午後1時を回って再びスタートした。750m程先の左手に「豊橋魚市場」があり、そこを過ぎると緩い上り坂の途中に「小坂井町」の道路標識が建っていた。

坂を上り切ると、「豊川放水路」に架かる「高橋」があり、ゆっくりと景色を見ながら渡った。水の流れは穏やかで、右手前方の遠くに比較的大きな朱色の鳥居が見えたが、どこの神社か分からなかった。

橋を渡ってから250m程先の右手に、紅葉の下に隠れる様に子だが橋の碑が建っていた。そして、説明書に悲しい話しが書かれていた。・・・およそ一千年前菟足神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子であるが遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だが橋と呼ぶようになった。・・・

300m程行くと、右手奥にその菟足神社があったので寄ってみた。ここは手筒花火が有名らしい。ちなみに生贄だが説明書に、・・・現在では12羽の雀を供えている。・・・と書かれていた。

街道に戻り少し歩くと五社稲荷神社道と書かれた小さな石碑が右手にあった。「豊川放水路」を渡る時に見えた赤い鳥居は、おそらくこの神社のだったのだろう。

その先は「JR飯田線」の踏切となっていて、線路から左を見ると「西小坂井駅」が見えた。ちなみにこの路線は、豊橋駅から長野県の辰野駅までの約200kmにも及ぶ長距離ローカル線である。

100mちょっと歩くと右手に大きな松の木が見えた。松並木の生き残りであろう。独りぼっちの木だが頑張っていつまでも残ってほしい。

約1km歩くと左手の「東部テニスコート」の入口に伊奈村立場茶屋 加藤家跡と書かれた木製碑が建っていた。

また横へ回ってみると、その木製碑に芭蕉 烏巣句碑とも書かれていた。付近を見回したがそれらしい碑が見当たらず(あったのかも知れないが気が付かず)、その場を後にした。

そこから300m程歩くと右手に「山本太鼓店」と書かれた看板が見えた。その真下辺りに伊奈一里塚跡の石碑があった。江戸日本橋より75里である。

150m歩くと右手に「速須佐之男神社」があり、休憩のため寄り道した。ちょうど横が公園の様になっていたのでそこをお借りした。
15分休憩後400m程歩くと何の変哲も無い「佐奈橋」があった。しかし河川敷の草むらにヤギが居た!そう言えば橋の手前から何か臭い匂いがしていた。ヤギの匂いが真夏なので余計に臭かったみたいだ。

橋から150m進むと道路標識があり「豊川市」と書かれていた。ちょうど左手に大きな木があり、まるで目印の様だ。

そこからしばらく歩いて行くと周りは工場ばかりになっていた。「豊川市」に入って約1.6km進むとT字路になっていて先へは進めなくなっていた。左右に横切る「県道31号線」を少し右へ進み、約100m先の「国道1号線」で「京次西交差点」を左折し横断、そしてまた左へ曲がり先程歩いて来た道の続きの場所で右折した。つまり歩いてきた街道と平行している「国道1号線」まで行ってUターンしてきた訳だ。

結局そこから150mで旧道は「国道1号線」を横切る事になる。「白鳥5丁目西交差点」を渡ってすぐ左折。街道は国道と平行するアスファルト舗装されていない道となっていた。土の道は久しぶりで、確か由比から興津の間の「さった峠」以来だと思う。
右手に見える田んぼの緑がとても綺麗だ。稲穂も、もうだいぶ伸びていて、季節の移り変わりを感じさせてくれた。

土の道を約400m歩くとアスファルト舗装の道に合流し、目の前に見える「名鉄豊川線」の踏切を渡った。そしてすぐ左折して進んだ。

線路と平行していると思いきや、少しずつ離れて行く。踏切付近から約250m進んだ所で左へと曲がり、線路際で右へと曲がった。(写真では、左方向から来てガードレール沿いに写真前方の電車方向へ歩く。そして線路手前を軽トラとは逆の右へと進む形。)
暑さと長時間歩行で疲れていたが、鉄道の好きな私は、横を走り去る名鉄電車を眺める事が出来て元気を取り戻していた。そして約140mでT字路にぶつかり左折し、乗用車がギリギリ1台通れる幅の踏切を渡った。

190m程先で再び「国道1号線」に出る。信号はあるが交通量が多いので地下道を通って横断する様になっていた。

地下道を出て、今度は横断歩道を渡り北の方向へと歩く。100mもしない内に左斜め方向へ進む「県道374号線」へと入る。ちょうどその場所にCAFEの文字が見えた。暑くて喉が渇いていてアイスコーヒーを飲みたいと思っていたので迷わず店に入った。
パスタも食べさせてくれるお店だったが、午後3時半と食事時間とかけ離れた時間帯だったのでお客さんは誰もいなかった。若い夫婦でやっているお店らしく、私が店に居る間ちょうどそのお二人も遅い昼食を済ませていた。20分程休憩後、帰りに何か割引券を出してくれたが、通り掛かりに寄っただけなので受け取らずに店を出た。

歩いてすぐ右手に常夜灯の様な物があったが、よく見ると「半僧坊大権現」と書かれており、上部は小さな社の様になっていた。説明書きが無かったので良く分からずに通り過ぎた。

そしてすぐ先には今度こそ秋葉山常夜燈があり、寛政12年(1800年)の物らしい。

商店街の中を進んで行くと、右手に薬師如来堂があった。町中の道は狭く、極端では無いが曲がりくねっていた。いかにも「旧東海道」という感じの道だった。

その道を500m程行くと、街道右手に白壁の塀と大きな木が見えてきた。大社(おおやしろ)神社だ。後日ネットで調べてみると、ここにはキティちゃんの御守りがあるらしい。

神社のすぐ先にある「蒲郡信用金庫」の敷地内に、御油一里塚跡の石碑が建っていた。

すぐ先に三差路があり、街道はこのまま真っ直ぐ進むが、「車両通行禁止」の看板が建っていた。そしてお巡りさんも一人・・・今日はどうやら祭の様だ。
そこから140m程歩くと片側1車線の道を横断するが、渡った右手に石碑や常夜灯が建っていた。石碑は2つあり、「秋葉山三尺坊大権現道」と「國幣小社砥鹿神社道」と書かれていた。そしてもう一つ、木製の看板に「これより姫街道」と書かれていたが、この道は雨の中を歩いた「見付宿」にあった「姫街道」の看板から続く道の終点だ。

途中お祭りのノボリや提灯を見ながら250m程歩くと御油橋に着いた。橋の手前にはハッピを来た人達がいて、静かな宿場町を想像していたが、とてもにぎやかな雰囲気になっていた。

また、橋を渡りかけると、川に仕掛け花火が準備中だった。狭い川幅なのに、こんなにぎやかな仕掛けをして大丈夫なのか、少し心配しながら橋を渡った。また今日は街道を歩きに来ただけなので見る事が出来ず家に帰るが、いつか見に来たいとも思った。(少し残念!)

橋を渡って進むと、またまたにぎやかな御輿が次々と迫って来た。家並みを見ながらゆっくり歩くつもりが台無し!?になってしまった。でも年に1度のお祭りの日に偶然来る事が出来、こちらも気分ウキウキだ。
ところで家に帰ってから気が付いたが、これは御輿では無く、手筒花火だったのだろう。

少し歩くと十字路となっていて、東海道はここを右折する。その右角付近にベルツ花夫人ゆかりの地と書いた説明看板が建っていた。・・・ベルツ花夫人は、明治新政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と言われるベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしました。1905年に任期を終えた博士とドイツに渡りましたが、博士が亡くなったため1922年に日本に帰国し、1936年74歳で亡くなりました。父親の熊吉の生家が御油宿で戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所です。・・・

そして左角には高札場跡があった。(赤い服を着た子どもさんと「進入禁止」の道路標識の間に見える説明看板の場所です。)

右折して続きを歩いていると、次々と御輿がやって来る。右手に問屋場跡の説明看板が見えた。そしてその先の「県道374号線」を左折して進む。

すると右手に古そうな、「みそ・しょうゆ屋」さんがあった。しかし看板をよく見ると「旧いがや」と書かれているので今は造っていない様だ。

そこから100m程歩くと左手の「イチビキ」前に本陣跡があった。・・・御油宿には二軒の本陣があった。この場所は、鈴木半左衛門が営んでいた本陣の跡です。・・・ちなみに「イチビキ」は醤油屋さんで、実家の三重県ではテレビCMがよく流れていた。「イチビキ」は、こんな所にあったのか・・・とそちらに気がいってしまい、本陣の事をすっかり忘れそうになった。

午後4時37分、家路に着くため「県道374号線」を少し戻り、「名鉄御油駅」へと向かった。途中、お祭りに使われる御輿が出番を待っているのを見る事が出来た。

そして「県道」に架かる「新御油橋」には、「広重」の浮世絵が銅板で何種類か埋め込まれていた。
小さな「御油駅」に着いたのは、まだ午後5時前だった。


吉田宿〜御油宿の地図