二川宿〜吉田宿の地図 |
8月に入った。今日は雲一つ無い晴れはいいのだが朝から暑い!前回の悪夢がよみがえる。気絶せずに最後まで歩けるのか心配になってきた・・・おっと、資料を見ると駅前に石碑あるのを思い出した。折角歩き始めたのに元へ逆戻りとなった。 駅前の道標には「是より岩屋江八丁」と書かれていた。「岩屋」と言うのはこの先にある「岩屋観音」である。寄ってみたいのだが今回は時間が無いので断念する。
|
もう一つ、「當國三十三所二番」と書かれた石碑もあった。再び9時10分過ぎに「JR二川駅」を出発した。
|
駅を出発してすぐ左手に道標があった。明治時代の物らしいが、「右 東海道」と書かれた下には「豊橋一里半」とあり、もう「吉田」と呼ばれていない時代の流れが表れていた。
|
道標から250m程行くと「火打坂交差点」があり真っ直ぐ進む。ここからは上り坂だ。ちなみに左折すれば「岩屋観音」へと通じる。暑い中汗をかきながら坂道を進む。700m先の信号を左折。歩いて行くと「旧東海道松並木」と書かれている札が目に付いた。最近植えられた物らしく可愛い松並木だ。
|
と思ったら前方に大きな松の木が一本見えてきた。高さ11.5mの旧東海道のクロマツだ。説明書きには推定樹齢100年以上と書かれていたが、私自身は江戸時代からある松だと思う。
|
少し先からは道が真っ直ぐで少し下り坂になっていて、少し心が安まる。先程の松から約1400m歩くと左から来る「国道1号線」と合流するが、その直前に飯村一里塚跡の石碑が電信柱に沿うように建っていた。
|
その先は味気無い「国道1号線」を歩く。道路上にある消火栓の蓋には豊橋で有名な手筒花火の絵があしらわれていた。1.6km程歩くと「瓦町交差点」手前右手に寿泉禅寺の門が見えた。この門の下半分は、まるで石造りのトンネルの様だ。門の外には「延命地蔵尊」とも書かれた石柱も建っていた。中をのぞくと小振りの三重の塔も見えた。この付近では少し目立ったお寺であった。
|
そこから約900m進んだ「東八町交差点」で歩道橋へと上がった。周りを見渡すと新しい感じの「秋葉山常夜灯」が見えた。
|
またここは五差路となっていて、今歩いて来た道の右側の道から路面電車の線路があり、前方へ続く「国道1号線」へとその線路は延びていた。ここは唯一「国道1号線」に路面電車が走る場所だ。
|
歩道橋で道路を前に渡った所で左に降りると、モニュメントの様な新しい東惣門(ひがしそうもん)があった。・・・東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。惣門は朝六ツ(午前六時)から夜四ツ(午後十時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。・・・東海道はすぐ次にある狭い道路を左折(赤門薬局前)、そして突き当たりを右折して続いていた。
|
突き当たりから約350m先の広い通りの中央分離帯に史蹟 曲尺手門跡と書かれている石碑があった。この門は「吉田城」に入る門で、現在「豊橋公園」となっている城跡地はここから右折した奥になるらしい。
|
広い道の次の交差点(散髪屋さんとうどん屋さんの間)を左折。そしてすぐの突き当たりを右折した。200m程先の信号のある交差点の角に、豊橋市道路元標の小さな石碑が建っていた。
|
そして60〜70m先の右手NTT前に、吉田宿問屋場跡の碑が建っていた。
|
NTTの先は広い通りで路面電車の線路がここにも敷かれていた。そしてこの通りを越えてすぐの右手に吉田宿本陣跡の碑が建っていた。・・・吉田宿の本陣は、享和2年(1802年)の書上によると、宿の中央部にあたり、東海道筋で最もにぎわった札木町のこの地に、清須屋与右衛門と江戸屋新右衛門の二軒が並んであった。・・・
|
また、隣の鰻屋さんの前にも別の吉田宿本陣跡と書かれた石碑があった。説明書きに・・・ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。・・・とあったので、この場所は「清須屋」で、先程の碑があった場所は「江戸屋」になるのであろうか。
|
そして本陣の斜め向かい(街道左手の少し前方)に吉田宿脇本陣跡の石碑が建っていた。この付近は吉田宿の中心街であったのが良く分かる。 宿場間が短いとは言え、まだ11時過ぎで吉田宿。次の御油宿まで無事進めそうだ。しかし、前回の灼熱地獄が頭の中をよぎる・・・
|
二川宿〜吉田宿の地図 |