33.白須賀宿〜二川宿



暑さでぶっ倒れそうになった!



2006.07.15.(土)  天気 : 晴れ
白須賀宿〜二川宿の地図






「脇本陣跡」横の駐車場を挟んで「白須賀公民館」があり、その道端には問屋場跡と書かれた「夢舞台・東海道道標」が建っていた。(写真では文字が分からないが・・・)

そしてその横にある交差点を越えた所に、夏目甕麿邸址 加納諸平生誕地と書かれた石碑が民家の先にブロック塀に囲まれ建っていた。・・・甕麿(みかまろ)は通称嘉右ェ門、萩園と号した。酒造を業とし傍ら国学を内山真龍に学び、後、本居宣長の門に名を連ねた。諸平(もろひら)は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平の許に寄寓乞われて加納家の養子となる。紀州候に召されて国学を講じ国学所総裁となる。・・・

少し歩くと左手の民家の前に説明看板があったので見てみると、白須賀宿の火防と書かれていた。・・・潮見坂の下から移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生した。そこで火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。火防の広さは、間口二間(3.6m)奥行四間半(8.2m)で、常緑樹で火に強い槙が10本くらい植えられた。・・・看板の後ろに立っているがその木だ。

少し先の街道右手には、庚申堂があり、お堂に向かって右に「見猿」左に「言わ猿・聞か猿」が狛犬の様に鎮座していた。それ以外にも少し割れて欠けていたが、猿の像が4体並んでいた。この辺りは江戸時代「猿が番場」と呼ばれたいたので、その関係で猿達が置かれているのであろう。

その少し先には、火除け地跡と書かれた石碑があった。この付近にも先程と同じく、槙の木が植えられていたのであろう。

しばらく歩くと右手に「境宿(白須賀宿加宿)」書かれた「夢舞台・東海道道標」があった。なお後で分かる事だが、この道標は、この旅で最後に目にした「夢舞台・東海道道標」だった。現代の東海道ウォーカーを優しくまた正確に案内してくれて「ありがとう!」と言いたい。とてもお世話になりました。

その先には谷川道と書かれた小さな道標が建っていた。右に続く道がその「谷川道」らしい。

その「谷川道」に向かって左には高札建場跡と書かれた石碑が道に埋もれていた。

街道はその先で「県道173号線」と合流するが、その手前で後ろを振り返って写真と撮った。先程の「夢舞台・東海道道標」にあった「境宿」は普通には「猿が番場」と呼ばれていたらしい。ちなみにこの写真の場所が「広重」浮世絵に描かれていた付近らしいが、それには何故か「二川宿」となっている。

「県道173号線」と合流してすぐに右手の側道の様な道を通り、コスモ石油のガソリンスタンド裏を通った。すぐに県道に出るが、目の前に見える信号を越えると「愛知県」と「豊橋市」の標識が建っていた。丁度そこには小さな川があったが、「境川」と言うらしい。

そこから約250m行くと、「国道1号線」と合流し右折した。そこから300m弱で「一里山交差点」があり、越えた所に「一里塚跡」があった。細谷(または、一里山)の一里塚だ。ちなみに私が住んでいる滋賀県草津市の隣り、大津市にも「一里山」と言う地名がある。「一里山」は「一里塚」の事で、小山の様に土をこんもりと盛った為にそう呼ぶらしいが、親しみのある地名を見て少しホッとした気持ちになった。

しかしその気持ちを忘れさせる地獄がその後待っていた・・・その後「国道1号線」を歩く事になるが、真夏の日差しをモロに浴びながらの旅となった。両側は畑の様だが、この時点では作物が何も無く土ばかり。まるで砂漠を歩いている様だ。季節は夏なので太陽はほぼ真上で、周りに建物どころか木も生えていないため日陰がゼロ。おまけに坂道のため下から上って来るトラックの騒音が暑さに拍車を掛けた。風は少し吹いているが勿論熱風だ。これなら風が無い方がまだマシだと思った。もう一つおまけに、時刻は午後3時頃なので、一日の中で一番気温が高い時ときてる・・・頭がボーッとした状態で、途中でブッ倒れるのではないかと思いながら、フラフラと歩き続けたのであった。

地図を見るとこの先にコンビニがある。何とか生きてそこまでたどり着き、アイスクリームを食べようと思った。国道を歩き始めて30分、とても長く感じたがコンビニの冷房で生き返り、アイスクリームを一気に食べた。
しかし国道は、まだ続いていた。また、地図には「東海道新幹線」を潜って進む事になっているが、なかなかレールが近づいて来ない。やっと見えて来たと思ったら、線路の向こうに変わった岩山が見えた。それを眺めながら歩いて行くと新幹線のガードを潜る場所まで無事着き、地獄の国道とお別れした。

新幹線の下を潜り、「梅田川」に架かる橋を渡る。先程の山が川の向こうに見え、「ここは景色がいいな〜。」と思う余裕が少し出てきた。すぐ東海道線の踏切を渡り、左折して進むとやっと道の両側に家並みが見えてきた。踏切から100m少し歩くと、右手に一里塚跡の石碑が建っていた。ここは「二川の一里塚」だ。

100m程歩くと右手に妙泉寺があった。芭蕉句碑があった様だが、私はその事を知らず中に入らず仕舞いで先へと進んだ。ちなみにここは、「NHK街道てくてく旅」で岩本さんがお灸をしてもらっていたお寺だ。

そしてまた100m程進むと二川八幡神社の鳥居が右手に見えた。ここは鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮から勧請したのが始まりらしいが、現在は氏神となっているらしい。

その先街道は、桝形に少し曲げられていた。よく宿場で見かける光景なので、宿場内を歩いている事がよく分かった。

そこから50m程先の右へと続く道の角に、東問屋場跡の石碑を見つけた。

150m程歩く。すると左手に古い感じの建物が見えてきた。改修復原された旅籠屋「清明屋」だ。人形を使い、旅人が女中が持ってきた桶で足を洗っている様子を再現していた。

その隣りが二川宿本陣だ。「清明屋」は庶民の宿、こちらは大名の宿だが、「豊橋市二川宿本陣資料館」として両方見学出来る様になっていた。・・・二川宿本陣は、文化4年(1807年)より明治3年(1870年)の本陣廃止まで本陣職を勤めた馬場家の建物です。・・・なお、ここの裏手には「資料館」もあり、ワークシートと書かれた紙に、街道に関する用語の説明や東海道の各宿場の人口・宿等の比較一覧表、旅の持ち物、各宿場の名物・名産品の一覧表等々詳しく書かれていた。資料は6枚にも及び自由に持ち帰る事が出来たので、東海道歩きの貴重な資料として各1枚ずつ貰った。その「資料館」でトイレを借り少し休憩させてもらったので、やっと地獄から生き返ってきた気分となった。

ここの入口は横にある駐車場側にあり、そこには高札場も復元されていた。

資料館で閉まる寸前の5時前まで見学後、少し戻り後回しにしていた脇本陣へ行った。ここは本陣の斜め向かい辺りにあったが、説明看板だけであった。・・・二川宿の脇本陣は松坂家がつとめていました。文化4年(1807年)以前には、この地に後藤家・紅林家の本陣がありましたが、文化4年、本陣職が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、もと街道の南側にあった脇本陣はこの地に移りました。・・・

「本陣」から100m程進むと再び道が再び桝形に曲がっている所に、高札場跡と書かれた石碑があり、「二川町道路元標」と「常夜灯」も一緒に建っていた。

そこからまた100m程行った右手に西問屋場跡の石碑が建っていた。

炎天下の中、国道を歩いたダメージで足取りは重くなっていたが、もう少しだと思い頑張って歩いた。500m程で今度は左手に立場茶屋跡の石碑があった。
そこから少し行くと道が広くなり、300m程で午後5時20分「JR二川駅」に無事到着! 生きてよくここまで来られたものだと思った。


白須賀宿〜二川宿の地図