32.新居宿〜白須賀宿



大嫌いなものに出会った!!



2006.07.15.(土)  天気 : 快晴
新居宿〜白須賀宿の地図






いつもの様に「JR栗東駅」(駐車料金が草津駅より安い!)を5:57の電車に乗り、「JR新居町駅」に9:13到着した。今日はまた一段と青空が綺麗だ!
9:20にスタート。駅を出てそのまま西に向かって歩き出すと、「種田山頭火」の水のまんなかの道がまっすぐ の碑があった。当時の「浜名街道」を歩いた時に詠んだものだが、この前歩いた道は、文字通りのその様な感じだった。

そして前回時間切れで入れなかった新居関跡へ寄った。午前9時開館で、まだ開いたばかりなのでジックリと見る事ができる。なおここは、電車の中から「新居関所」の大きな文字が見えるので、必ず見たいといつも思っていた。

中へ上がると、昔の役人の様子が人形で表現されていた。・・・この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、面番所といいます。嘉永7年(1854年)の地震により倒壊したため、翌、安政2年(1855年)に建て替えられました。・・・

外へ出て、裏にある「足軽勝手」という部屋の中に改め女の人形が展示されていた。・・・「改め女」は通行の女を調べる女で、関所役人の御内儀(妻)又はその母親等が扶持(給料)を貰って女改めをやっていた。・・・

街道に面する表側に回ってみると、「高札」や雨水などを流すための側溝である「関所の石樋」、そして旅人が関所で取り調べを受けている時に荷物を置いた荷物石等が展示されていた。ちなみに私も荷物を置いてみた。私は気軽にデジカメで写真を撮っているが、昔の人達は心臓をドキドキさせながらここに置いたのであろう。

そして平成14年に復元整備された、渡船場跡もあった。・・・江戸時代、新居と舞坂の間は渡船による交通が行われた。これを今切渡船と言った。この渡船場跡は、宝永5年(1708年)に今切関所が現在地へ移転してからのものである。・・・
ゆっくり見過ぎたので、10時半になってしまった。急ぎ足でここを後にした。

この前歩いた「寄馬跡」までスイスイと歩き、その先「常夜灯」を見ながら550m程行くと左手に新居一里塚跡があった。

その少し先は三差路となっていて右折(写真右下から上方向へ)、そしてすぐ道は左に曲がっているのが見えた。

この場所は「棒鼻」で棒鼻跡の石碑が途中に建っていた。・・・棒鼻とは駕籠の棒先の意味。ここは新居宿の西境で一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。大名行列が宿場へ入るとき先頭(棒先)を整えたのでこの場所を棒鼻と呼ぶようになったと言われる。・・・

「棒鼻」を過ぎると「夢舞台・東海道道標」があり、「橋本」と書かれていた。ここは新居宿の加宿となった地域だ。なお鎌倉時代はここに宿場があって、まだ海と繋がっていなかった浜名湖の南岸を歩いて渡っていたらしい。

その先の「橋本交差点」を右折し「国道1号線」に入る。190m程進むと左手に風炉の井と書かれた石碑があった。・・・尾崎家所有地内にあるこの石積井戸は、深さ2m、口径は最大1.8mあり、昔はもっと深かった。言い伝えによると、建久元年(1190年)源頼朝が上洛のおり、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。・・・

また向かい(街道右手)には立派な門が見えた。教恩寺である。ここは「源頼朝」に寵愛された白拍子が頼朝死後に建立した寺らしい。

街道は、この「教恩寺」横にある「橋本西交差点」から右斜め方向に入って行く。350m程行くと街道左側だけだが、松並木が続いていた。松食い虫にやられたらしく新たに植えられてあるので、木は見るからにそんなに古くなさそうだったが周りの緑の風景とマッチしていて、とても綺麗だった。今日はとても暑いので、丁度この木陰が旅人になりよりのプレゼントだった。なお途中には、「浜名旧街道」の道路標識も掲げられていた。

また途中には、前大納言為家・阿佛尼 歌碑も建っていた。「風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟」・・・「前大納言為家」と「わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで」・・・「阿佛尼」の歌である。藤原為家・・・鎌倉中期の歌人で定家の二男。初め朝廷に仕え、父の没後家系と学統を継いだ。この歌は「続古今和歌集」巻第19に収められている。 阿佛尼・・・朝廷に仕えた後、藤原為家の継室となり、夫の没後出家し、鎌倉下向の折「十六夜日記」をなした。この歌は同日記にある。

松並木が切れると左手に大きな2本の木の間に立場跡と書かれた石碑があった。・・・ここは新居宿と白須賀宿の間にある立場で、代々加藤家がつとめてきた。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌(ざれうた)を詠んだという話が残っている。・・・

少し歩くと右手の一段高い所に、舞坂宿までによく見かけた形の秋葉山常夜灯(写真右)があった。

暑い日なので日陰を求めながら道の左側を歩いて行くと突然ヘビがいた〜っ!!私はトカゲは大丈夫なのだが、足のないヘビは大の苦手だ。急に立ち止まりジーッと様子をうかがって見たが、ヘビもこの暑さでグッタリしているのかビクともしなかった。何かヘビにも同情したくなるような気分で、その場を立ち去った。

ヘビのおかげで!?震えあがり、一瞬涼しくなったちょっと先に、明治天皇御野立所阯と書かれた石碑が建っていた。「明治天皇」も休憩された場所だが、私もここの木陰で10分休憩させてもらった。・・・明治元年9月20日岩倉具視等を従え東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居へ向かう途中に休憩した場所。明治天皇一行はその夜新居宿飯田本陣に宿泊、10月13日に東京に到着した。・・・

休憩後再び歩き始めると少し先の右手に火鎮(ほずめ)神社という村社があった。説明書きがあったが、応永以来の海瀟(「つなみ」と読むらしい)や安永年間社家火災のために古文書が散失し、由緒が詳しく分からないらしい。「火鎮神社」なのに火災とは・・・何とも皮肉な話である。
なお写真に左側には「夢舞台東海道道標」と共に「白須賀宿」の説明と「東海道」の道筋を描いた「白須賀宿マップ」というイラスト看板が建っていた。

神社前を後にし、どんどん進む。左を見ると「潮見バイパス」の向こうに海がチラッと見える。この暑さの中では、海からの強風がとても心地よい。ちょうど12時になると時報代わりに「エリーゼのために」がどこからか聞こえてきた。信号を過ぎると民家の雨戸の戸袋に立派な「鯉の滝のぼり」が彫られていた。

その少し先右手に、高札建場跡一里塚跡が並んであった。「一里塚」は日本橋からちょうど70番目で「元白須賀の一里塚」と呼ばれたいたらしい。なお説明書には・・・この辺りでは、一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。・・・とあった。説明書の下にあるのが、その石碑のようだ。

白壁で囲まれた「神明神社」や慶長3年(1598年)の開山以来法燈が絶えることなく現在に至っている「蔵法寺」を右手に見ながら進むと、右方向へ90度分岐する三差路があり、「夢舞台東海道道標」が建っていた。そこには「白須賀宿 潮見坂下」と書かれていて東海道はこの右へ行く道だとすぐ分かった。またその横には「右 旧道」「左 新道」と書かれた新しい道標も建っていた。
ところでNHKの「街道てくてく旅」では、この付近のお宅で東海道を歩く人にわらじをプレゼントしているおばあさんを紹介していたが、分からなかった。厚かましいが私もわらじを頂き、おばあさんと少し話しをしたかったのだが、残念ながらお出かけ中だったのかも知れない。

この三差路からこれから歩く潮見坂が見えた。山の中へと入って行く坂道が見え、途中から勾配が段々きつくなることを予想させた。

予想的中で上って行くと途中から坂の角度が増してきた。この暑い最中汗を余計にかきながら息絶え絶えに上っていくと、左手後方に海が見えてきた。周りの建物は邪魔だが、海は景色が良く、「広重」の「東海道五拾三次之内 白須賀」の浮世絵に見える景色と同じだった。潮見坂・・・西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれます。・・・坂の途中の説明看板より
私は写真左方向から上って来たが、食事をするためあらかじめ探して置いた食堂を求めて、写真中央方向へと下って行った。時計を見ると12時半だった。

食事は坂を下りきった「一平食堂」で済ませ、再び坂を上って13:15頃に街道へと復帰した。その後もフラフラと180m程坂を上って行くと、おんやど白須賀と言う「白須賀宿歴史拠点施設」があり、休憩させてもらった。坂を上って疲れ切った所にあるので、歩く旅人の事を考えて場所を選定してくれたのかと感謝したい気持ちになった。

息が整って来たので出発すると、すぐに潮見坂公園の石碑が建っていた。・・・大正13年4月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられました。現在は、公園敷地に中学校が建てられていて、当時の面影をみることができませんが、明治天皇御聖跡の碑だけは残されています。・・・

またその近くに大きな明治天皇御遺蹟地記念碑があった。

海が見えそうな所があったので見に行くと、遠くに綺麗な「遠州灘」が先程の坂の途中より良く見えた。近くに自転車を横に置いて休憩されている方が居たので話しかけてみた。「東海道を自転車で旅されているのですか?」と訪ねると、「浜名湖を一周しています。」との返事だった。時々この近くをサイクリングされているとの事だった。先を急いでいるので、お互いの無事を祈りながらお別れした。

この写真は、株式会社デアゴスティーニ・ジャパン様発行の「週刊 江戸」第32号に掲載されました。

街道を進むと両側に民家が立ち並んできたので、宿場町に入ってきたのが感じられる。少し下り坂になっているので楽だ。右へ行けば突き当たりに幼稚園が見える三差路に石碑が建っていた。鷲津停車場往還と書かれている。現在の「JR鷲津駅」への道を表した道標のようだ。

街道の方を見ると、すぐ目の前でクネクネと曲がっているのが見えた。ここは曲尺手(かねんて)であった。・・・曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで、斥候(せっこう)を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急避難をしました。・・・

「曲尺手」の200m程先右手の美容院角に、本陣跡と書かれた小さな石碑が建っていた。・・・この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864年)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とあります。・・・

そしてすぐ先の「たばこ店」には、脇本陣の石碑が建っていた。
時刻は午後2時を回ったところ。次の「二川宿」までは6kmだ。ここからは急な峠道が無いので、予定通り「二川宿本陣」を見て「「JR二川駅」から帰れそうだ。そうのんきに考えていたが、この先大変な目に遭うのであった・・・


新居宿〜白須賀宿の地図