31.舞坂宿〜新居宿



赤い鳥居がとても綺麗!



2006.07.08.(土)  天気 : 晴れのち曇り
舞坂宿〜新居宿の地図






「脇本陣」はお金を取っても充分価値ある建物だった。充分見学させてもらった後、先へと進んだ。すぐの所に西町常夜灯があった。こちらも仲町常夜灯と同じ文化10年(1813年)に建立させたものだが、仲町の物より3ヶ月早い2月に建てられた物らしい。

またこの辺りは渡船場の本雁木(ほんがんげ)があった場所だ。・・・ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。・・・写真は海の方に向かって撮ったものだが、渡船場の名残はどこにも見えなかった。

写真の場所から左(南方向)に曲がり、約150m程行くとこぢんまりとした水神宮があった。ここは渡荷場跡(南雁木)でもある。・・・舞坂宿には3つの渡船場があり、ここは、そのうち一番南側の渡船場跡で渡荷場といい、一般庶民の乗降にも利用したが、その名のように主に東海道の輸送用荷物の積卸しをした場所である。これらの石垣も昭和25年から始まった漁港修築工事により姿を消した。水神様はもとは30mくらい東の地点に鎮座していたが、漁港工事に伴いここに移された。・・・

先程の場所に戻り、今度は北方向へ100m程行くと渡船場跡北雁木があった。ここは石碑も建てられまた、昔の様に周辺が石で復元されていた。・・・ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657年)から寛文元年(1661年)にかけて構築されました。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられています。・・・隣の「舞阪養かき組合」裏手には、ホタテであろうか貝殻が無数に干してあった。

150m程進むと左手に「北雁木」にもあった灯明台があり、ここには「京江五拾七里二拾六町」と書かれていた。

しばらく周辺をウロウロと見て回った後、その先にある約170mあった赤く塗られた弁天橋を越え先へと進んだ。左を見ると遠くに形が綺麗な「浜名大橋」が見え、右手は新幹線が駆け抜けていった。本来は舟で「今切の渡し」を渡っていたのだが、今はこの先から「国道1号線」を歩いて渡ることになる。
ちなみに太平洋側の現在「浜名大橋」が架かっている部分は砂州で繋がっていたが、500年ちょっと前の明応7年(1498年)の大地震で一部が崩れ、浜名湖は海と繋がったようだ。つまり、今切れたので「今切(いまぎれ)」と呼ぶようになったらしい。

橋を通って「弁天島」に渡ると、すぐに辨天神社が左手にあった。・・・この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、洲崎の一部であった弁天は湖(うみ)にとり残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間が渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709年)今切渡海安全のため、この島に辨天神社が建てられました。・・・

100m程先の右手には「JR弁天島駅」があった。いつも東海道を歩く時は電車でここを通って行くのだが、外から見るのは初めてだ。そして左手は大きな観光ホテルが幾つか建っていた。

駅に少し先を左に曲がり、海岸へ出てみた。するといつも電車の車窓から見える海の中の赤い鳥居が、浜名大橋と大空をバックに鮮やかに輝いていた。(正確には、ここは浜名湖なので「海岸」でも無いし、「海」でも無いが・・・)しばらくその風景を眺めながら、休憩を取った。時刻は午後4時を少し回っていた。

「国道1号線」に戻り、西へ350m程進むと中浜名橋があり、道は危険が無いよう車道と完全分離された遊歩道になっていた。約200mの橋を渡ると、また島だったが道路標識には「新居町」と書かれていた。

800m程行くと、また橋があった。今度は先程渡って来た2つの橋より長い約500mの西浜名橋だ。(写真左手。右手は「JR東海道線」、右奥は「東海道新幹線」。)電車が行き来するのを見ながら、そろそろ重くなってきた足に力を入れて橋を渡った。

「西浜名橋」を渡り、どんどん進む。道は直線で真西に向いている。1.1km程で「新居警察署」を通り過ぎ、そこから約300mで「JR新居町駅」だ。そこから200m程で「国道1号線」は左へと弧を描いて行くが、旧東海道はこのまま真っ直ぐで、「国道301号線」となっていた。

分岐点の歩道橋から約250mで橋を渡ったが、ここには「新居宿」を描いたの浮世絵が何種類も石版に表示されていた。

150m程進むと右手に新居関跡があった。しかし時刻は夕方5時を回っていたので、見学用の入口も閉まっていた。開館時間は午前9時から午後4時半までらしい。仕方無く、門の外からデジカメで何枚か写真を撮って先へと進んだ。・・・新居関所は今切の関所とも言い慶長5年(1600年)の秋、徳川家康が新居の元屋敷に創設したが其後津波のため元禄14年(1701年)中屋敷に宝永5年(1708年)現在の所に移転した。敷地は方約1町、西に大門があって明六つに開き暮六つに閉じた。女・鉄砲・手負死人及び首等は証文がなくては絶対に通さなかった。始めは幕府の直轄であったが、元禄15年(1702年)吉田城主に移管して明治維新に至った。・・・

「関所跡」外れ辺りの街道左手に無人島漂流者不屈の精神を伝えると書かれた新しい石碑(平成17年7月建立)が建っていた。・・・享保3年(1718年)新居宿泉町筒山五兵衛船は、遠州今切湊を出帆した。翌4年の秋、奥州宮古から房州へ向う途中、銚子沖で嵐にあい遭難、太平洋を南方に流され、絶海の無人島、今の鳥島に漂着した。乗組員12人の内9人が死亡、残る3人が都合21年を生き抜いて、元文4年(1739年)救出された。八丈島に着いた3人は、江戸城に召し出され、8代将軍吉宗に謁見。3人は褒美を頂いた後、新居から親族の出迎えを受け、東海道を丁重に駕篭で送られてきた。・・・

100m先には旅籠 紀伊国屋が復元されていたが、ここも閉まっていた。

「東海道」はその先100m足らずで左折しているが、曲がる手前の右手に疋田弥五郎本陣跡があった。現在は、「疋田医院」となっていたので子孫の方が住んで居られる様だ。・・・弥五郎本陣には対馬、宇和島、今治藩など70家余りが利用した。また、天保年間には年寄、問屋役を務めた。・・・

また、その交差点はT字路となっていて、突き当たりは飯田武兵衛本陣跡だった。ここは昔風の民家となっていた。・・・飯田本陣には、小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。明治元年の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌2年の再幸、11年の巡幸の際にも利用された。・・・

「泉町交差点」を左折し、「飯田本陣跡」の2軒先の空地には疋田八郎兵衛本陣跡の石碑が建っていた。飯田本陣の南隣りにあった、八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約120家が利用した。庄屋、年寄役なども務めた。・・・説明看板を読むと、3軒の本陣の中でも、ここが一番格式高かった事が伺えた。

そのまた数件隣りのペットショップ隅に、寄馬跡というのがあった。・・・宿場では公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に100人の人足と100疋の馬を用意していた。しかし交通量が多い場合は助郷制度といって付近の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。こうして寄せ集められた人馬のたまり場が寄馬所と呼ばれた。・・・今日はここまでとし、「JR新居町駅」まで戻った。夕方5時半過ぎだが7月上旬なので、まだまだ明るい。お腹も減った事だし駅前で食事をする事にした。うなぎの看板に誘われ、「大黒屋」というお店に入った。老夫婦が営むお店で、うな重を頼みその奥さんに東海道を歩いている話しをすると、何と「NHK街道てくてく旅」の岩本輝雄さんもここに来られてうなぎを食べて行ったらしい。番組でも言っていたが余程うなぎが好きらしい。(人の事を言えないが・・・)


舞坂宿〜新居宿の地図