30.浜松宿〜舞坂宿



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2006.07.08.(土)  天気 : 晴れ
浜松宿〜舞坂宿の地図






5日ぶりに「浜松」に戻ってきた。駅を9:35に出発、街道のスタートライン「国道257号線」の「伝馬町交差点」まで来ると、前回見つけられなかった梅屋本陣跡が簡単に見つかった。

この写真は、株式会社デアゴスティーニ・ジャパン様発行の「週刊 江戸」第29号に掲載されました。

国道を南下して行くと途中に番所跡(中)と書かれた小さな碑があった。

「伝馬町交差点」から約600m歩いた「成子交差点」を右折し、200m程行った「菅原町交差点」を左折した。その左折する寸前に子育て地蔵尊が左手にあった。

少し歩くと堀留ポッポ道という遊歩道が横切っていた。見るからに昔鉄道が通っていた跡地という感じだ。

道はその先「東海道線」のガードを潜った所でT字路の突き当たりとなっていて、再び出会った「国道257号線」右折して進んだ。そしてその先で今度は「東海道新幹線」のガード下を潜った。走り去る新幹線を見て不思議なものだが、家(滋賀県草津市)の近くとこんな遠くに走っている電車が同じ物とは思えなかった。新幹線のガードから500mちょっとで鎧橋を渡った。・・・平安時代末期戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋を守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。・・・

橋を渡った先の右手に八丁畷手の木碑があった。川崎宿から神奈川宿の間にも「八丁縄」があったが、同じ様にこの辺りも真っ直ぐな道になっていた。

その先、国道が右にカーブする手前左手には、一里塚跡があった。ここは「若林の一里塚」と言うらしい。

その先の「東若林信号」を越えると街道右手に馬頭観音高札場跡そして二つ御堂(北堂)がかたまって建っていた。「二つ御堂(北堂)」は・・・京に出向いている奥州平泉の藤原秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をとむらうために北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。・・・

そして街道左手の南側には二つ御堂(南堂)が建っていた。(北堂の続き)・・・一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。・・・

また、そのちかくには、明治天皇御野立所記念碑が建っていた。明治天皇はここで野立をされたのか?

その先の真っ直ぐな道には、東海道の松並木があった。松は数本だったが、ここは紛れもない「東海道」である事を思い出させてくれる。そして「広重」の浮世絵である「浜松 冬枯ノ図」を思い浮かべながら先へと進んだ。

そしてその中に再び高札場跡をみつけた。

「みたらしの池」や「浜松市・可美村合併記念の碑」、「諏訪神社」の前を通り過ぎ、「熊野神社」近くの歩道橋まで来ると、またまた高札場跡が・・・。どうしてこんなに「高札場」が並んでいたのだろうか???私はここで小休止し、先へと進んだ。

そこから100m程進んだ右手のカー用品店前に「従是東濱松領」と書かれた領界石が残っていた。

その少し先には堀江領境界石と書かれていたが、建っているのは木碑だけだった。

真っ直ぐな道をどんどん歩いて行くと、民家のフェンスの中に、高札場跡と秋葉燈籠跡と書かれた木碑があった。「高札場跡」?・・・またなのか!

「高塚駅入口信号」を越えると右手に麦飯長者跡と書かれた木碑があった。浜松市のサイトを見てみると・・・当主は代々小野田五郎兵衛を名のり、東海道を行き交う人達にお茶や麦飯で接待していたので、「麦飯長者」と呼ぶようになった。・・・との事らしい。

少し歩くと道は二手に分かれていた。左は「国道」で、右は道路標識に「舞阪駅 篠原」と書かれていてこちらが「旧東海道」だ。私は少し手前にあった「遠州庵」に寄り、看板に名物と書かれていた舟そばをお昼にとして頂いた。
そして先程の道を750m程進むと、民家の庭に一里塚跡説明看板があった。「篠原の一里塚」だ。

1200m程先へと歩くと右手に「愛宕神社」があり、その脇に見付宿から先にあった例の立派な秋葉山常夜灯が建っていた。

街道を歩いて行くと、この「常夜灯」をこの先何度も目にした。
今日は暑い日だが、海方向からは冷たい風が吹いていた。私は、先程の「愛宕神社」から2.2km程先から右へ曲がり、「JR舞阪駅」へと向かい10分程休憩をした。

休憩を終え再び東海道を歩き始めると、すぐ見事な旧東海道松並木が私を迎えてくれた。夢舞台道標にも「東海道松並木」と書かれていたが、わざわざそんな説明が要らない程、素晴らしい松並木が残っていた。

松並木を歩き始めると、小さな石碑に広重の浮世絵が銅板に彫られ埋め込まれていて、日本橋から三条大橋までずらーっと並んでいた。またその碑に使っている石は同じ物では無く、色んな種類が使われていた。

「舞坂」の浮世絵は石に彫られ、説明も書かれていた。

また、「舞坂宿」と大きく書かれた石盤碑もあった。

松並木を歩いて行くと、舞坂橋跡と書かれた看板も建っていた。・・・ここには江戸時代、舞坂宿唯一の橋である舞坂橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南側から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水が流れていました。・・・

松並木の最後に浪小僧という像があった。・・・魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。・・・

松並木は「国道1号線」が斜めに横切っている新町交差点で終わり、先へと進むとすぐに見付石垣が街道の両側にあった。・・・この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709年)の古地図には既に存在している。・・・

少し先の左手に一里塚阯があった。「舞坂の一里塚」だ。そしてその横には「新町常夜灯」もあった。この常夜灯は文化12年(1815年)に建てられた様で、よく見かける石製の灯だ。

その先右手には椅子もある休憩施設の「ポケットパーク」があった。そこには「文久二年 東海道舞坂宿 宿内軒別 書絵図面」というのが石版に彫られていて、当時の宿場内の家並み図が一目で分かるようになっていた。

街道の細い道の先に浜名湖がチラッと見えてきた。左手の「宝珠院」の前にまた常夜灯が建っていた。仲町常夜灯だ。こちらは文化10年(1813年)に建立されたようだ。

250m程歩くと右手の民家前に舞坂宿 本陣跡の石碑が建っていた。・・・この地は東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡です。・・・

そしてその少し斜め向かいに東海道舞坂宿 脇本陣が復元されていた。「茗荷屋」という屋号で堀江清兵衛の脇本陣らしい。また、真向かい辺りに「相本陣」もあったらしい。・・・脇本陣の建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口五間・奥行十五間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。・・・無料だったので気軽に中を見学させてもらった。確かに草津宿の本陣に比べ小さいが立派な建物だった。
中に居られた女性の係りの方に「東海道を歩いています。」と声を掛け、少しお話しをさせて頂いた。すると、「ホームページは作っていないのですか?」と聞かれたので、「作っていません。」と答えた。しかし作ってみようかな?という気持ちもあり、今まで写真をコマメに撮ってきたが、この一言で作る決心が着いた。今このサイトがあるのも、その女性のおかげだ。


浜松宿〜舞坂宿の地図