29.見付宿〜浜松宿



こんな所を歩くのか !?



2006.07.03.(月)  天気 : 曇
見付宿〜浜松宿の地図






「見付」と言う名は、京から江戸に向かって進むとこの地で初めて「富士山」が見えたのでその名が付いたらしい。しかしその名は東海道を歩くまで、私も知らなかった。今はサッカーチームの「ジュビロ磐田」のおかげで、「磐田」の方が超有名だ。
私は「JR磐田駅」を10時10分頃出発し駅から2つ目の信号を左折し、東海道の続きを歩き始めた。暑さのため、歩き出してすぐ上着を脱ぎTシャツ一枚となった。右手にあったスポーツ店の店先には、その「ジュビロ磐田」の選手達のサインが入った物がズラリと並べられていた。

先程の駅前信号から約1200m歩くと、右からの県道261号線と合流。そこから700m程歩くと「夢舞台道標」とは違う道標が建っていた。

そしてその近くの街道右手日産自動車付近に宮之一色一里塚の跡があった。ここはこんもりとして、塚の名残があった。
道路反対側には立ち寄り湯の「磐田の湯」があった。夏なので入る気はしないが、冬ならついつい寄っていたかも知れない。

250m程先の左手に立派な秋葉山常夜燈が建っていた。・・・この常夜燈は平成8年部分改修しました。その棟札から文政11年(1828年)に建てられたものとわかりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある灯籠の中でも大変貴重なものです。風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるように格子になっています。・・・

そこから350m程先の橋を越えた所に松の木があり、平成の時代にも歩いて旅をする人を見守っていてくれた。

400m程先では道が分かれていたが、旧街道は左側(真っ直ぐ)の細い方の道なのでそちらへと進んだ。その交差点から350m程進むと右手に郷社 若宮八幡宮があり、そちらで少し休憩をさせてもらった。境内には「西之島小学校跡」というのもあった。

600m近く進むと右手に長森立場と書かれた夢舞台・東海道道標と説明看板が建っていた。説明看板には・・・ここから数十m東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。・・・と書かれていた。だったらどうしてここに建っているのだろう???

街道を真っ直ぐ進むとやがて突き当たりでT字路となっていた。前方には「木内建設蒲ハ産住宅遠州工場」と書かれた工場が見える。そのT字路を右折し150m程進むと右手の小公園の中に、天竜橋跡の石碑があった。・・・明治7年2月、源平新田から中野町村に船橋が完成した。明治9年になりこれが木橋に架け換えられ、極めて便利な交通路となった。この木橋の位置を末長くとどめるため、この碑を建てた。・・・

先程の道の続きを真っ直ぐ進むと「県道261号線」へ突き当たった。左折し橋の手前をまた左折して(下流方向)少し歩いてみた。「安藤広重」の浮世絵と同じ様な方向から天竜川の写真を撮ってみると、川幅の広さが良く分かった。

再び県道へ戻って今から渡る天竜川橋を見てみると、うわさに聞いた歩道の無い橋だった。果たして無傷!?で対岸にたどり着けるのか心配になってきた。

「天竜川橋」の右手(上流側)を見ると新しい橋があった。もしかしたら渡れるのかも?と思いのぞきに行ってみた。残念ながら完成までにもう少しだったが、道幅は広くチャンと歩道も造られていた。これから歩かれる方は、難所が一つ減ることになりそうだ。

仕方なく先程の「天竜川橋」にまた戻り、気を付けながら歩き始めた。前からビュンビュン車が走ってくる。特にトラックが来ると道幅が狭いので、足を止めて端にへばり付く様に避けた。車が来ない時に早足で歩き、車が来たら歩を止める・・・それの繰り返しで何とか渡りきった。

橋を渡ってすぐ左折して川沿いに進んだ。右手に玉座迹と書かれた石碑があった。説明書がないのでよく分からないが、明治天皇がここでも休憩されたのだろう。

その近くに舟橋跡天竜川木橋跡と書かれた木の碑が建っていた。対岸にあった「天竜橋跡」からこの場所まで橋が架かっていたのだろう。
今歩いている道は現在「県道344号線」となっているようで、碑の先を右下方向へ戻るように鋭角的に曲がった。そして碑の下付近は「六所神社」と言う小さな神社になっていて、5分程休憩を取った。時刻は12時を少し回った所だった。

歩き始めるとウナギのいい匂いがしてきた。夕方に浜松で食べる予定をしていたのでここは我慢して通り過ぎた。神社から800m程歩くと右手に金原明善翁生家があった。「明善」は天竜川の治水に尽力した人らしい。

その向かいは「明善記念館」となっていて、敷地内に安間学校跡の木の碑があった。

250m進んだ「県道312号線」との合流地点には、安間一里塚跡の木の碑が網の向こうに建っていた。

そこから400m程歩くと街道は高架になっている「国道1号線 浜松バイパス」の潜っていた。道路標識には愛知県の豊橋の文字が見えた。

バイパスの先には松並木があり、いつものことであるが街道気分を味わう事ができた。

少し先には何故か幹が横に延び、人工的に作った盆栽の様な松もあった。

その後昼食を済ませ、西へ歩を進めて行くと右に大きな体育館の様な建物があった。浜松アリーナだった。

敷地内を見てみると広重の「浜松宿」の浮世絵が大きく引き延ばされて看板の様に建っていた。また嫁橋と書かれた木の碑も建っていた。おそらく昔ここに橋があったのであろう。

700m先で「国道152号線」と合流。そこから800m程進むと歩道橋があり、上ってみた。すると遠くにアクトタワーが見えた。地上45階、高さ212.77mの超高層ビルで、周りに高いビルが無いため余計に高く見えた。ちなみに平日・祝日の10時〜18時のみ(土・日曜日は休業)45階まで高速エレベータで上ることができるらしい。(有料)

この後「馬込一里塚跡」があるはずなので探して見たが、残念ながら見つからず通り過ごしてしまった。歩道橋から900m程進んだ左手に旧掛塚街道入口があった。

その向かいには旧笠井街道入口の木の碑があった。

そしてその先の「馬込橋」の手前には外木戸跡の碑も建っていた。

「馬込橋」から550m程歩き広い道が横切っている所を左折し、10分程休憩をした。「アクトタワー」の全体像が見たかったので寄り道してみたが、とても大きく見えた。

元へ戻り歩き始め、道路右手に時代に取り残された様な「夢告地蔵尊」を見ながら300m程歩くと、「遠州鉄道」の高架が国道を横切っていた。

ガードを潜って約500mで「連尺交差点」を左折、「国道257号線」を進むと、佐藤本陣跡があった。

「伝馬町交差点」まで歩き仮のゴールとし、「浜松城」見学するためUターンした。道の反対側を見ると「三菱東京UFJ銀行」前に川口本陣跡と書かれた看板が見えた。

さらに戻ると「浜松信用金庫」前に杉浦本陣跡の看板があった。

「連尺交差点」近くには高札場跡も見えた。そして私は、そのまま真っ直ぐ国道を進んだ。

次の「市役所前信号」を越え、「浜松市役所」の北側を左折し、「浜松城公園」へと入って行くと、若き日の徳川家康公が東海道を歩く旅人を迎えてくれた。

浜松城天守閣に登り、景観は変わってしまったが、家康気分になって市内を見渡してみた。・・・浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570年)6月に入城し、17年間在城した。・・・少し休憩後、天守閣の入口の女性に鰻屋さんのパンフレットをもらい、美味しい鰻屋さんを教えてもらった。

帰りは公園の南側に出て、「天守閣」でもらったパンフレットに書いてある鎧掛松を見に行った。・・・元亀3年(1572年)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。この松は三代目で、初代は浜松城内の堀のそばにあった。・・・

駅に向かって歩いて行くと、道路右側の「連尺交差点」手前に大手門跡の看板が建っていた。・・・この付近の道路中央部に大手門があり、南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の瓦葺きの建物で、つねに武器を備え、出入が厳しく取り締られていました。・・・
この後に、先程教えてもらった「うなぎ八百徳」へ行ってみると・・・定休日!! う〜っ!先程もらったパンフレットを見ると、駅に接する「コスタ西館」に鰻組合直営店の「コスタ浜名湖」があったのでそちらへと向かった。やっとやっと念願のうな重を食べ、妻にも鰻の蒲焼きを土産に買い、機嫌良く「JR浜松駅」から帰途に着いた。


見付宿〜浜松宿の地図