28.袋井宿〜見付宿



初めての雨



2006.06.10.(土)  天気 : 曇り後雨
袋井宿〜見付宿の地図






「東本陣跡」を出てすぐの、街道左手に袋井宿場公園があり、芝生が敷き詰められた休憩施設となっていた。

その近くには問屋場跡があった。

そして、魚屋さんの脇には、袋井宿中本陣跡と書かれていた。この先にも「西本陣跡」があったようだが見落としてしまった。

「袋井丸凧」と看板が上がっている「どまん中宿場ギャラリー」を過ぎ、川を渡る手前左手にも公園があった。本町宿場公園で、ここも休憩ができるようになっていた。袋井は旧東海道を歩く人に優しい街だ。ここには「秋葉山常夜灯」や高札場風の説明看板が建っていた。

その川に架かっている橋は御幸橋で、旧街道に良くあった橋になっていた。

橋を渡って250m程進むと右手に明治天皇御小休所跡があった。

そして200m程先左手には、「西小学校」があり、ここも東海道五十三次 どまん中 西小学校となっていた。

そこからまた200m行った右手に黒い寺澤家長屋門があった。・・・明治元年に建てられたと伝えられる東海道沿いには珍しい長屋門・・・

150m行くと「川井交差点」付近で右側の道に合流し、600m程で歩道橋手前にある右手の狭い道へと入っていった。200m程行った左手に木原一里塚が復元されていた。しかし、本来は約60m東にあったらしい。

そこから100m先の右手に「許禰神社」があり、境内に古戦場 木原畷と書かれた石碑があった。木原畷は、武田信玄と徳川家康が戦った三方ヶ原の合戦の前哨戦ともいうべき戦いのあった場所らしい。
また、石に「家康公」と刻まれた、徳川家康公腰掛石もあった。

神社を出て200mも歩かない内に広い道と合流。150m程で「磐田市」へと入った。200m程先の「西島交差点」を越えると、水路の様なものがあった。「非常貯水」と書かれた石碑が建っていた。

その近くを左手に入って行くと「須賀神社」があるが、そこには樹高15m枝張り25m幹廻り9.5m樹令推定500年の大楠があった。

街道に戻り500m歩くと「太田川」があり、そこに架かる「三ヶ野橋」を渡る。そして道を左折しすぐ折り返すように右へと曲がる。そして写真にあるように田を左に見ながら左折し、松の木が残る方へと進んで行った。
しかし6月になると暑く、朝持ってきた水筒のお茶はすぐに空っぽになり、途中で買ったイオン飲料水を詰め込み、それを飲みながら歩き続けた。

先程あったのは一本の松の木だったが、その少し先には道の両側に何本も残っていて松並木となっていた。

「大正の道」の石碑を左に見ながら進むと今度は「明治の道」と書かれた看板が見えてきた。

すると今度は左の森へと入っていく江戸の古道があった。入口の左には石碑があったのでそれと分かるが、明るい所からこの道を見るととても暗く(写真では明るく見えるが・・・)、田舎者の私も中へ入って行くのを一瞬ためらうくらいだ。

上って見ると、鎌倉の古道というのもあり写真を撮っていると、蚊にあちこち刺されてしまった。普段でも他の人に比べ刺されやすいタイプなのに、半袖で汗をかきながら坂を上ってきたので恰好の餌食となってしまったのだ。

暑いので長袖のシャツの腕を肘の辺りまで上げてあったが、蚊を避けるため袖を伸ばし、左の明るい方へと行ってみると、大日堂の石碑があった。武田信玄と徳川家康が戦った時、家康側はここから物見をしていたようだ。その通りに遠くまで見え景色が良かった。しかし蚊は相変わらず近寄って来るので、慌ててこの場を立ち去った。・・・この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が存在していいた。・・・

石碑を背に真っ直ぐむ(上って来た江戸の古道からだと右の方向)。民家のある通りに出てやっと蚊の恐怖から逃れる事ができた。少し歩くと「三ヶ野公会堂」があり、従是鎌田山薬師道の石碑があった。他にも新しい「車井戸跡之碑」や「明治の道碑」も建っていた。

1200m程歩くと「国道1号線」が右から合流。その先に見える歩道橋で国道右側に渡り、すぐ先に右へと別れて行く旧道へと進んだ。100m程進み「三本松橋」を渡る。ここには別名でなみだ橋となっていた。後で調べると見過ごしたが、少し手前に遠州鈴ヶ森があり、その受刑者達との最後別れをした橋だろう。(品川宿〜川崎宿の間にあった鈴ヶ森の様に・・・)

そのまま進むと平成2年に建てられた石碑に「三本松」と書かれた場所があり、常夜灯がその脇に建っていた。空の天気があやしくなってきて、夕方5時前だが少し暗くなってきた。

その少し先に遠州見付宿木戸跡が見えてきた。広くなった道と合流し、歩を進めた。

そこから約200m程歩くと「JA」があったが、資料によるとここに「高札場」があったようだ。

少し先の「中川橋」を渡ると「東海道見付宿」と書かれた石碑があった。雨が降りそうだし本陣も近くなってきた。歩くスピードが自然と早くなってきた。

と思ったら、とうとう雨がポツポツしてきた。「静岡銀行見付支店」前に問屋場跡と書かれた木の碑があった。

そして斜め向かいの「ピザーラ」の前には脇本陣跡と書かれていた。ピザ屋さんの前には配達用のバイクが何台も止まっていたが、ピザを配達する若い人達はこの看板を見て、どう思っているのだろうとふと考えてしまった。(多分、邪魔な看板だと思っているだろうが・・・)

また「問屋場跡」近くには、御朱印屋敷 冷酒清兵衛邸というのもあった。

目の前にある信号を越えたお茶屋さんの近くに、本陣跡の木の看板が建っていた。この旅行初めての本格的な雨(歩いていない時間帯には雨が降ったことがあるが・・・)の中での本陣到着となった。

3軒先には見付宿 高札場之跡の木の看板があったが、本陣跡や脇本陣跡の看板に比べると簡単な作りとなっていた。

その看板の後方には明治時代に建てられた立派な旧見付学校があった。しかしもう午後5時を回っているので中には入れなかった。今日は、ここを是非見てみたいと思っていたので残念だった。・・・「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治8年に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は四階建てでしたが、明治16年に増築されて今の五階建てとなりました。・・・

400m程歩くと信号に出た。東海道はここを左折するが、道の反対側の散髪屋さんの前に、これより 姫街道と書かれた例の木製看板が建っていた。真っ直ぐ行くと「御油宿」へと繋がる別街道だが、お姫様など多くの女性が通った道なので「姫街道」と言うようだ。

左折した信号を100m程進んだ右手の眼鏡屋さんの前に木戸跡の木看板があった。しかし雨が降って傘を差しながら歩くと、地図を濡らさないようにしなければならないし、写真を撮る時はカメラと傘を片手で持ってシャッターを押さなければならないし・・・雨天の街道歩きはこんなに歩きにくいものだとは思わなかった。

眼鏡屋さんのすぐ横は川となっていて、昔風の欄干になっている「加茂川橋」を渡ると西木戸と書かれたモニュメント風の木戸跡となっていた。
この先200m弱で左斜めに別れる旧道へと進むが、わずか200mちょっと先の郵便局付近でまた元の広い道と合流した。そのまま1km程歩き信号を右折すると東海道が続くが、真っ直ぐ進み目の前に見える「JR磐田駅」でゴールとした。今日は傘を差していたので手が疲れた1日となった。


袋井宿〜見付宿の地図