27.掛川宿〜袋井宿



松並木がとても素晴らしい!!



2006.06.10.(土)  天気 : 曇り
掛川宿〜袋井宿の地図






「JR掛川駅」に10時頃到着し、東海道を歩く前にまず「掛川城」を見に行った。天守閣の中には入らず外から眺めただけにしたが、NHKの大河ドラマの「功名が辻」の影響で観光客が沢山だった。

連雀西交差点まで戻り右折し、今日の旅を始めた。150m程で右手に「清水銀行」がこの前の「掛川信用金庫」に負けじと昔風の外観で建っていた。

250m歩くと右手に古い門が見えた。「円満寺」の入口に建っている掛川城蕗の門だ。・・・この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。廃城後の明治5年(1872年)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。その時に、柱の下を二尺五寸(約76cm)切り取って山門にしたといわれている。・・・

「円満寺」から500m程行くと、道は右にカーブしていた。そして150m程行った所の美容室横を右に入って行くと、新しく整備された様な十九首塚があった。・・・ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。承平5年(935年)将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称した。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興され、滅ぼされました。そしてこの地の小川で首を洗い、検視を受けました。首実検の後、十九の首を別々に埋葬されました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し、現在地に移りました。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。・・・

街道を進むと左からの道と合流後、「二瀬川」を渡り左折。そして「国道1号線」であるその道を500m程進むと大池橋があった。この橋は、広重が描いた浮世絵の橋だ。(当然今の橋は昔のそれと全然違うが・・・)

橋を渡ると五差路の信号になっていた。ここから「秋葉街道」も始まっているが、東海道は一番左の道で、左折して進む。400m程で「天竜浜名湖鉄道」のガードを潜り、650m程進んだ交差点に「東海道・夢舞台道標」があった。そこには大池一里塚跡と書かれていた。そのバックは「蓮祐寺」だ。

そしてその先には昔の松が、街道両脇に残っていた。ここから先は時々松並木があるが、そのスタートとでも言うべき松だった。

その先の左手に「逆川」が近づいてすぐ離れているが、川端の草むらにウサギが籠に入れられて置かれていた。誰か飼っている近所の人が、置いているのだろう。そこから500m程で「国道1号線」の高架下を潜り、「県道253号線」の続きを歩く。そして今度は「東名高速道路」の高架下を潜ると松が所々残っているのが見えた。

「垂木川」の上を越えると、善光寺・仲道寺が右手に見えた。「ここは東海道真ん中のお寺です」と書かれていた。・・・奥州に延暦9年(790年)賊徒討伐のため勅使として、坂上田村麿と百済王とが東に下った途中この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することが出来なくなり、この地にとまり病養せしめ、伝教大師からさずかった阿弥陀仏に願をかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたと云われ、ここに善光寺堂を建立された。右側にある仲道寺は、江戸から京都まで測量したところ、この寺が丁度東海道の真中で仲道寺と寺名がついたと云われている。・・・

そしてその先には素晴らしい松並木があった。真っ直ぐな街道の両側に松がチャンと残っていて、その外側は田んぼになっていた。何か時代劇のセットとして作られているような昔のままの松並木だ。説明看板には旧東海道松並木 岡津〜原川と書かれている松並木だ。願わくば道路の舗装を茶色いカラー舗装にしてもらえば、もっと雰囲気が出るのに・・・と思ったが、そう思いたくなるような場所だった。一歩一歩昔の旅人になったつもりで歩いてみた。

松並木を眺めながら10分間休憩し、再び歩き始めた。350m程歩くと街道は「国道1号線」により寸断されていた。そのまま突き当たりまで進み、国道沿いに少し戻ると「原川地下横断歩道」があった。そこを通って国道の反対側に出て、「同心橋」を渡った。

橋を渡ってすぐ国道と離れ左折するが、そこに可睡三尺坊道標があった。また、近くに「名栗の立場」の説明看板もあった。なお、先程「1号線」には「袋井市」の道路標識があったのでこの付近で市内に入った様だ。

旧道を進むと左手に駕籠の様な小屋があった。「観光案内所」と書かれた看板が立て掛けられていた。この付近は昔、花ゴザ(模様が織り込まれていたゴザ)が名産だった様で、小屋にその花ゴザが売っていた様子を描いた絵が描かれていた。

そしてその先には、また松並木の道があった。掛川から袋井にかけては松並木が所々にあるので、旧東海道の風情があり気分良く歩けた。

右手に工場が並んでいる所に大きな鳥居が見えてきた。この付近では赤い色がとても目立つ。冨士浅間宮の鳥居で、社はここから1km弱離れた所にある様だ。

鳥居から700m程歩くと左手に、貫名山 妙日寺があった。・・・妙日寺は、正慶元年(1332年)身延山久遠寺の日善によって開かれた日蓮宗の古刹です。日蓮宗を開いた日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族である貫名氏の代々の邸宅跡と伝えられています。・・・

その隣の「袋井東小学校」の敷地内に久津部一里塚跡碑があった。袋井東小学校創立百年を記念し、昭和47年に復元されたらしい。(平成12年8月改修)・・・北側のものは袋井東小学校前の国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治10年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことである。・・・なるほど、道路反対側(街道右側)を見に行くと、「江戸から六十里 久津部一里塚跡」と書かれた碑が建っていた。

その小学校の正門を見てみると、東海道五十三次 どまん中 東小学校と書かれたいた。

小学校を過ぎると、右側に油山寺道標が建っていた。この寺は目に御利益があるらしく、昔は山から油が湧き出ていたので「油山」と言う名が付いたらしい。

そしてその先の広い通りには、村松・宇刈道標が建っていた。その道路を渡ると、「八幡社入口道標」もあった。また、少し先の道路左側にも「保多山道標」があった。それぞれの道標横に建っている「どまん中ふくろい」と書かれた標柱の説明書きによれば、この付近の一連の道標は、大正4年に久津郡青年会が建てたものらしい。

今度は右手に油山寺道標があり、「あぶら山ミち二十七丁」と書かれていたが、これは明治37年の建立と書かれていた。
300m程歩いた右手に、自宅(滋賀県草津市)の近くにもあるチェーン店の「サガミ」があり、そこで昼食を済ませた。ここは安いとは言えないが、何を食べてもハズレが無いので自然と足が向かったのだ。

お店を出るとその隣に七ッ森神社があった。・・・伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された7人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。・・・

神社から300m弱歩くと右手の細い道路の手前にまた道標があった。油山道道標で、「従是油山道」と書かれていた。これは大正時代の道標とは形も文字の書き方も全然違っていて、文政11年(1828年)のものらしい。

そして道路を渡った(と言う程広い道では無いが・・・)反対側には可睡三尺坊道道標があった。なお、「可睡」と言うのは、家康が幼い頃に助けて貰った和尚さんの事で、家康が浜松城に招待した所、居眠りをしたのでその名が付いたらしい。

300m程歩き右手に平行している県道に一旦出て、その先約100mの「新屋交差点」を左折。そしてすぐにある「サークルK」の向かいの車止めがある細い道へ右折して進んだ。150m程行くと右手に立派な新屋の秋葉山常夜灯が建っていた。・・・火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代にさかんになりました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんになり、各地区に常夜灯が建てられました。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫刻がみられ、保存状況のたいへんよい常夜灯です。・・・余り立派だったので、説明書きを読んでからもう一度じっくり眺めてから先へと進んだ。

200m程進むと広い道にでた。道の向かいには市役所が見えた。その広い道を左へと進み、「袋井市役所南交差点」を右に渡る。そこにあった商工会議所にも「東海道五十三次どまん中宿」と書かれていた。そして向かい側にもう一度信号を渡る(当初の位置からみて斜め向かい)と「袋井宿と天橋」の説明書きや「阿ま橋」の親柱があった。そして「これより 袋井宿」の石碑が建っていた。

旧道は現在の「天橋」を渡って先へと進む事になるが、その場所に「広重」の浮世絵「出茶屋ノ図」を模して木が植えられていて、どまん中茶屋と言う休憩所があった。小さな休憩施設に入らせて貰うと、当番のおじいさんがお茶や茶菓子を出してくれた。NHKの「街道てくてく旅」で旅人の岩本輝雄さんがここで東海道の松の種を貰っていたのでその話をすると、「今は全て差し上げたので無いよ。」と言われ少しガッカリした。壁を見るとその岩本さんが訪れた時の写真やサイン色紙が飾られていた。おじいさんは話好きそうな方で長引きそうだったので、私は先がある事だし、別の若い女性の来客者とお話ししている隙に失礼させてもらった。(ちなみにこの旅の最終日に出会った神奈川県の「ふくろう」さんは、夕方立ち寄ったらビールを出してくれたと言っていました。・・・こんな事を書いて良いのか!?)

若い女性を人質に残し!?「どまん中茶屋」から少し歩くと右手の公園の様な所に門がモニュメントとして建っていた。ここは東本陣跡だ。時刻は午後2時45分。今日の予定は見付宿までなので時計を見ながら旅を続けた。


掛川宿〜袋井宿の地図