26.日坂宿〜掛川宿



日坂宿には、古い建物が沢山あった。



2006.05.06.(土)  天気 : 晴れ
日坂宿〜掛川宿の地図






本陣を通り過ぎると、すぐ民家の庭に問屋場跡と書かれた看板が建っていた。

その先には脇本陣跡があり、屋号は「黒田屋」となっていた。

しかし、近くに「池田屋」という看板が掛かっている昔風の建物は、現在も「旅館末廣亭」として営業していた。

そして少し先に藤文と言う元商家の建物があり、日坂宿最後の問屋役を務めた「伊東文七」が住んでいた。説明看板によると・・・幕府の長州征討に50両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として200両を寄付した。・・・と書かれていた。立派な方だったのだろうが、私個人としては、『長い物に巻かれろ』的な人だったのだろうという感想だ。(偉そうな事を言ってゴメンナサイ!)

数軒先には、萬屋という旅籠があった。・・・江戸時代末期の旅籠。嘉永5年(1852年)の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期についての明確な資料はありませんが、安政年間のしかも早い時期かと思われます。「萬屋」は庶民の利用した旅籠で、食事を供しない宿であったと思われます。・・・2階の窓を見ると、草色の服を着た方が、訪れた人に説明をされている様子だ。時計を見ると午後3時、これからまだ掛川まで歩かなければいけないし、長駆滋賀までJRの在来線で帰らなければならない。ゆっくり話しをしたいのだが、時間が無いので今の間に1階だけササッと見てこようと思い、中に入らせて貰った。中に入るとお二人は階段を下りて来られ、先客が出て行かれた。仕方なく!?案内をして貰った。2階に上り、窓から昔街道を行き交った人々を想像しながら説明をしていただいた。草津宿にも一度来られた事があり、「姥が餅」を食べられたとの事だった。

街道を挟んだ先にも旅籠があった。先程のガイドさんにも教えて貰った川坂屋だ。こちらは身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋だったらしい。・・・大阪の陣で深手を負った武士太田与七郎源重吉は長松院(ここから約2km離れた所にある。)で手当を受け、その後、日坂に居住しました。「川坂屋」はその子孫で寛政年間に問屋役を務めたこともある斉藤次右衛門が始めたと伝えられています。現在の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永5年(1852年)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。・・・

建物の横に回ってみると、平成7年のバイパス工事で一度解体されたお茶室が復原されていた。・・・この茶室は、もとは、文化2年(1805年)掛川城主太田候により「掛川偕楽園」に建てられたもので、明治元年(1868年)川坂屋に譲られました。床柱は大変珍しい「そめつつじ」の巨木で、かつて島津候より贈られ「水戸偕楽園・何陋庵」の床柱と二分されたものとも伝えられております。・・・時間が無いので慌てて見せて貰った。

街道右手すぐに秋葉山常夜燈があった。本陣の手前にもあったが、土台以外どう見ても新しく造り直した様に見えた。しかしこちらは古そうで、天保10年(1839年)に建てられた物の様だ。

またその近くに高札場が復元されていた。

更にその隣に下木戸跡があった。・・・大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では木戸の代りに川がその役割を果たしていました。・・・

その「木戸」代りの「逆川」に架かる古宮橋を渡り、宿場を後にした。なお、先程の「下木戸跡」にあった説明書きによると、・・・江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く粗末な木橋で、いったん事が起こった時は、橋をはずしたとも伝えられています。・・・とあった。

少し歩くと、左手に石碑が建っていた。大域先生出生地之碑というのが建っていた。・・・書家・成瀬大域は文政10年(1827年)古宮のこの地で生まれました。明治12年王義之の聖教序を臨書し諸葛亮の出師表真・草・二帖と併せて明治天皇に献上し嘉賞の栄誉を受け楠公手沢の古硯を賜り、これにより自らを「賜硯堂」と号しました。・・・と説明看板にあった。

その先の右手に、大部分草に埋もれた碑があった。「日阪村東山口村村界」と書かれている様だ。

「日坂宿宿場口」と書かれた夢舞台道標を過ぎると、県道415号と合流。そしてすぐ左手に事任八幡宮があった。御由緒書きによると、「事任」は「ことのまま」と読むらしい。また・・・朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安期の「枕草子」に記載あるを見てもあきらかなり・・・とも書かれていた。

1km程歩くと「日坂バイパス」の下を潜り、すぐ「掛川市八坂」と書かれた歩道橋が見えてきた。その歩道橋直前の道路左側に塩井神社と書かれた鳥居があった。夢舞台道標もあり、そこには「塩井川原」と書かれていた。なお社は川を挟んだ向側にあるらしいが、仮設橋の跡が川の上にあるだけで渡る事ができそうになかった。

歩道橋付近で道は二手に分かれ、左手の県道250号線へと進む。右手に俳人伊藤嵐牛翁出生地と書かれた石碑があった。

少し進んだ左手に福天権現本・・・と刻まれた道標があったが、下の方は以前に折れてしまったのか、無かったので何と書かれているのか分からなかった。

右手前方には「一里塚跡」があった。伊達方一里塚跡である。説明書きには・・・江戸から57番目の塚で、実際は近くの理髪店東側とたばこ店屋敷あたりにあった・・・となっていた。

なお、近くに古い字体で「一号国道」と書かれた石標が道に埋め込まれていた。この道は旧国道1号線だったのであろうが、こういう物は初めて見たので珍しく、デジカメにおさめた。

「一里塚跡」を過ぎると、街道右手に歌人石川依平翁出生地と書かれた石碑があった。

また小道を挟んだ先には、慶雲寺道と書かれた道標も建っていた。後で地図を見ると、道標に五丁と書かれているように、ここから北へ約600m行った所に「慶雲寺」があった。
街道はすぐに右側の1号線と合流したかと思うと200m弱で左の道へ、400m程歩くとまた1号線と合流した。ここには「夢舞台道標」があり、「本所」と書かれていた。掛川宿まで一里三町とも書かれている。もう午後4時半なのに・・・ピッチを上げて歩く事に専念した。

何も見る所が無い国道が続く。1km歩くとコンビニのサンクスがあったので、飲み物を買いに寄ると何やら様子がおかしい???入口のガラスが割れてしまい警察官も居る・・・どうやら「おばちゃん」がアクセルとブレーキを踏み間違ったのか、車で入口に突っ込んでしまった様だ!もしタイミング悪く私が入口付近で居る時に車が来たら・・・そう思うと帰りの時間が気になるが、昼食を食べた小夜の中山の「扇屋」と日坂宿の「萬屋」で少しお喋りをしていたのが良かったのかも知れないと思った。

コンビニから再び国道を歩き、約1kmで「本村橋」交差点を左の旧道へと進んだ。そこから約800m歩くと左手JAの前に大頭龍大権現・福天大権現の参道標あった。「告」と書かれた案内看板には・・・昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。元の位置は約10m程東よりであり川崎街道の起点となっている。・・・とあった。

道標から約500mで「逆川」に架かる「馬喰橋」を渡るとすぐ左手に葛川一里塚跡があった。少しだけ土を盛った上に石碑が建てられていた。なお昔の橋は、少し東よりに架かっていたらしい。石碑との反対側には「もちや」というお店があり、名物とされる「袖振餅」を売っているらしい。敷地内には夢舞台道標も建てられていた。

400m程歩くと道が狭くなり、左手の酒店の次を左折する。ここから「新町七曲り」がスタートする。右手に「東伝寺」を見ながらすぐの道を右折。目の前に写真の少し変わった秋葉常夜燈が見えたらそこを左折する。「かねも」という製茶会社の建物が見えてきて突き当たりとなっているので右折をする。そして150m程で再び突き当たるので右へと曲がる。

少し進むと写真の様に左斜めに道が続き、すぐ右斜めに曲がっていた。そしてその場所には夢舞台東海道道標があり、掛川宿東番所跡と書かれていた。またその横には「七曲り」の説明看板も建っていた。・・・七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。・・・

その先を進むと「止まれ」の道路標識がある交差点がすぐにあるが、そこを左折。(左角には「塩沢機械店」の看板がある。)そしてコンビニがある次の十字路を右折。二つ目の十字路(左角はガソリンスタンド)を左折すると七曲りも終わりとなる。
街道は商店街の中を通り、100m程進むと右手に「掛川信用金庫」があり、お城風の建物になっていた。

その先で「本陣跡」を探したが分からず行ったり来たりしていた。近くに主婦の方がおられたので聞いてみると、駐車場の所と教えてくれた。行ってみると、なるほど説明看板も建っており、本陣跡と書かれていた。場所的には先程の「掛川信用金庫」の少し先だった。・・・掛川宿の本陣は、連雀町の沢野弥三左衛門が寛永の始め頃から幕末までつとめた。本陣の建物は、江戸時代に何回か火災にあい、その度に建て替えられた。その位置については、明確にはわからないが、現在地にあったと思われる。・・・
「本陣跡」から100m弱先の「連雀西交差点」で東海道と別れ左折し、300m先の「JR掛川駅」に着いたのは午後5時半だった。


日坂宿〜掛川宿の地図