25.金谷宿〜日坂宿



坂はキツイが、茶畑が綺麗!



2006.05.06.(土)  天気 : 晴れ
金谷宿〜日坂宿の地図






私は2日後、「金谷宿」に再び立っていた。4月に一度も歩けなかったので、5月は連休もあることだし、もう一日歩くことにした。但し日帰りゾーンまで来たのは良いが、朝夕の電車での移動が辛い。そこで一日、間を空けて今日となった訳である。
私は「金谷駅」を出て裏に回り、先日見た急な坂を上り始めた。

右に曲がりながら上って行くと、広い道に出た。駅前から続く「国道473号線」だ。上って来た道を左に曲がり、国道を上る様に進むとすぐ右手に石畳への入口があった。国道にも「旧東海道石畳」と看板があるので分かりやすい。

コンクリート舗装の道を上って行くと、やがて石畳が見えてきた。金谷坂の石畳だ。石を見ると丸くてどの石の表面も同じ高さになっている。江戸に攻め込まれない様にわざとデコボコにしてあった「箱根峠」のそれとは全然違う。また石の中には赤っぽいものや緑っぽいものがあったので、最近整備されたものだとすぐに分かった。やはり、ずーっと歩いてみると色んな事が見えてくるものだと、一人で感心していた。

石畳を上り始めると、右手にすぐ「石畳茶屋」があり、その先にはお地蔵さんも建っていた。私はまだスタートしたばかりだから、茶屋には用事が無いのでそのまま上って行くと、鶏頭塚があった。・・・鶏頭塚は名のいわれとなった。「曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華」の句を刻んだ自然石の碑である。巴静という蕉風をひろめた江戸時代の俳人の教えを受けた金谷の門人たちは、師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺りにこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが、地元の人々によって保存が図られて現在に至っている。・・・

その近くに庚申堂があった。なおこの堂は、先程の「鶏頭塚」の説明看板に依ると・・・庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。・・・となっていた。

街道の石畳は、両側の木に覆われて薄暗い。先の方で少し明るくなっている所に、何本もの赤い幟が立っているのが見えた。そこには石畳六角堂地蔵尊があり、別名「すべらず地蔵尊」と言うらしい。・・・このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。・・・

「箱根」に比べればまだ楽だが、上り坂はやはり辛い。息が上がりながら石畳を上り続けると、こんどは五つ子楠と説明された木があった。・・・朽ち果てた親木の根を囲んで生える五本の若木。今なお親子の固い絆に結ばれた「五つ子楠」は、金谷坂石畳を往来する旅人の無事を祈りつつ成長しています。・・・なるほど。写真では分かりにくいが、確かに五本の木が一箇所の生えていた。(左右2本の間に、もう1本後方に生えています。)

やっと坂を上り切ると、舗装された道路に出た。ここは右へと進むが、少し左に戻ると明治天皇御駐輦跡と書かれた石碑があった。明治元年(1868年)遷都の折と明治11年(1878年)にここで休憩されたらしい。

そしてその横には芭蕉句碑があり、石碑に書かれた字は私には読めないが、説明看板には、「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟(けぶり)」(野ざらし紀行より)と書かれていた。

先程の石畳を上り切った場所へ戻り、街道が続く方へと進んだ。左手には丁度刈り入れが始まった「牧之原台地」の茶畑が広がっていた。素人目に見ても、茶の若葉の色が違うのが分かった。

少し先の右手の奥に諏訪原城跡があった。・・・諏訪原城は天正元年(1573年)武田勝頼の臣、馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧の原台地の東北角を占めた天然の要害であった。・・・堀跡は当時の形で残っている所もあった。本丸跡や天主台地を見て、下の景色が見える所もあり、「大井川」が遠くに見えた。

寄り道をしたが先へと進む。広い道路(県道234号線)を越えた先に再び石畳が見えてきた。今度は下り坂の菊川坂だ。ここも石が新しいので再現されたものだと分かる。昔の石畳が再現されるのはとても嬉しい事だ。舗装された道が左側に平行していた。

その舗装道路と離れていくと「菊川坂石畳」の説明看板があり、そこからは江戸時代後期の石畳になっていた。途中、藤の花も咲いていて「江戸時代の人もこの辺りで藤を見て、心を和ませながら坂を下って行ったのだろうか・・・」と思い、昔の旅人達の光景が目に浮かぶ様な気がした。

そんな気を覚ます様に舗装道路が横たわっていた。しかしもう少し夢を見させてくれる様に短いが石畳が続いていて、その先には菊川の村が見えていた。

舗装された道路を進むと「止まれ」の道路標識があり、左からの道と合流し、先には小さな橋が見える。その合流地点で振り返ると古い道標らしきものがあるが、「右」以外は私には読めなかった。

橋を渡って進むが、「菊川の里」は人影が見えないヒッソリとした村だった。途中に建っていた夢舞台・東海道道標だけが、私に「ここは東海道に間違いないよ」と話しかけてくれた。

しばらく歩くと右手に「菊川の里会館」と言う所があり、敷地内に宋行卿詩碑・日野俊基歌碑が建っていた。・・・源頼朝の死後、公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221年)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宋行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の7月10日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に詩を書き残した。「昔は南陽県の菊水下流を汲み齢を延ぶ今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」 承久の変から約百年後の正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宋行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。「いにしへも かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をや しづめん」・・・100年の時を越え、ここ菊川で同じ運命が繰り返されていたのだ。

丁度お昼頃だったが「菊川の里会館」前で10分弱休憩し、再び歩き始めた。100m程歩き小さな川を越えると、左側に平行している広い道の反対側に石段が続いていた。そして階段を上った所の舗装道路を右手に取り、坂道を上って行った。(黄色のカーブミラーがある所です。)すぐの所に「小夜の中山」と矢印が書かれた看板があったので、東海道はこの道で間違い無いと確信した。

この坂は「箭置坂」と言うらしいが、上り坂が延々と続く。息を切らし、ハアハア言いながらゆっくりと上って行った。途中で立ち止まり後ろを振り返ってみると、上ってきた急坂が見えた。「箱根」よりマシだと自分に言い聞かせながら上って行くと、左手に谷とその向こうの山が見え、そこには綺麗な茶畑が一面に広がっていた。この景色を見ると、疲れが吹っ飛んでしまいそうな気分にさせてくれた。

やっと坂を上ると左手に、接待茶屋跡があった。・・・鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の憩いの場となっていたといわれる。芭蕉の「馬にねて残夢月遠し茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれたものであろう。・・・この場所は坂を上り切り、見晴らしが良いので茶屋には絶好の場所だ。

そして街道右手には、見所が沢山ある久延寺(きゅうえんじ)があった。この寺は、真言宗の寺院で山号を「佐夜中山」と言う。

まず有名な夜泣石を境内で探し、カメラに収めた。・・・その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根本でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。・・・しかし本物の「夜泣石」は、「国道1号線」沿いにあるらしい。そちらも見てみたいがここからは遠そうなので、今回は泣く泣く見に行くのを断念した。

そして今度は、山内一豊が家康をもてなしたと言う茶亭跡を見つけた。・・・慶長5年(1600年)掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。関ヶ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万石に栄転した。・・・

家康お手植えの五葉松をキョロキョロ探し、それらしい松を見つけた。残念ながら初代が枯れてしまい、二代目が植わっていたがまだ細く、知らなければ見逃してしまいそうな松だった。

また見るからに新しい三位良政卿之墓・月小夜姫之墓があった。良政卿は怪鳥の蛇身鳥を退治するために都から来たとされ、小夜姫はその妻となったとされているらしい。

この写真は、株式会社デアゴスティーニ・ジャパン様発行の「週刊 江戸」第25号に掲載されました。

「久延寺」を後にし、すぐ近くの子育飴で知られる扇屋向かった。もう午後1時前でお腹もペコペコ。しかしお店の女性は良く喋る男性のお客さんとズーッとお話し中だ。私はこういう中に割って入るのが苦手だ!しかしお昼を食べたいのでやっと間に入り蕎麦を注文した。何とか昼食を済ませ一息付いた。まだお客とお喋り中、どちらもお話しが好きらしい。
ところで、NHKの衛星放送で「街道てくてく旅」が放送中だが、いつもなら金曜日の昨日5日に旅人の岩本輝雄さんが丁度ここを歩かれているはずだ。しかし昨日テレビを見ていたら、当の本人は特番のため東京から出演されていた。もしか今日ここを歩かれるのかと私は密かに思っていたので、お喋り中の二人にその話をしてみた。するとお店の女性は8日月曜日朝の放送はここから行うと教えてくれた。残念ながらその女性はテレビに映らないと言っていた。(結局岩本さんは、私の歩いた翌日の7日日曜日に雨の中ズブ濡れになって歩かれた。)

私は、お昼を食べたかっただけなので名物の飴を買わずにお店を出て、「扇屋」の向かいにある「小夜の中山公園」の大きな西行歌碑をデジカメに収めた。これは平安時代末期の歌人、西行法師の歌のひとつで、「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」と書かれていた。・・・23歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年69歳の作である。この歌は、文治3年(1186年)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯2度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。・・・

少し歩いた左手に佐夜鹿(小夜の中山)一里塚があった。説明看板では、・・・。周辺の一里塚の言い伝えによると江戸から56番目と云う説があります。「東海道分間絵図」では52里、「東海道宿村大概帳」では54里に相当すると思われます。・・・とあった。ちなみに一つ手前の金谷で見た「一里塚跡」の説明書きには、江戸へ53里と書かれていた。

この辺りはもう下りなので歩きが楽だ。「神明神社」の鳥居を越え、先に進むと左手に鎧塚と書かれた碑が建っていた。・・・建武2年(1335年)北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり京へ上ろうとして、この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる。・・・

「箭置坂」に入ってから、所々「小夜の中山」に関する句碑が建てられている。「鎧塚」の先にも「道のべの むくげは馬に くはれけり」の芭蕉の句碑が建っていた。

「白山神社」と書かれた小さな社を越えると分かれ道になっている。右へ下る道は「国道1号線」に出る道なので、左側の道を進む。目の前にある鉄塔の左を通り先へ進むと左手に馬頭観世音があった。・・・佐夜の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身鳥退治の物語が言い伝えられています。この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。・・・

先に進んだ右手には、妊婦の墓というのがあった。説明書きには、・・・松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生れた子)を葬った所で、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・・・・旧跡」と刻してあります。・・・とあった。東海道歩きの先輩方のサイトを見させて貰うと、・・・良政卿と月小夜姫は娘の小石姫を主計助に嫁がせようと思ったが、すでに子を宿していた。無事男子を生んだ後、我が身の不幸を案じて自害した。・・・という話の様だ。ちなみにその子は前述の子育飴で育てられ中国で修行をし、高僧になったという。また「夜泣石」の所で説明されていた、斬られて死んだ「お石」の子も子育飴で育てられ、成長の後母の仇を討ったという話もあるらしい。どうも二つの話がゴッチャになって、ややこしい!ついでに書くと、蛇身鳥は月小夜の母らしいが、話が長くなるので興味がお有りの方は、参考にさせて頂いた和田光平さんのサイトの「蛇身鳥の伝説」の項をご覧下さい。

伝説で頭の中が混乱した墓の反対側に、小さな公園の様な場所があった。芭蕉句碑がここにもあり、「命なり わずかのかさの 下涼み」という句が刻まれていた。説明書きには、・・・小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝4年(1676年)の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて帰京の途次の作として記されています。・・・

その先にも芭蕉句碑があった。この峠お馴染みの歌碑の一つだ。「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」とあった。

下り坂を機嫌良く下って行くと、左手に夜泣石跡と書かれた小さな石碑があった。・・・妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年(1868年)までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。・・・と説明されていたが、前述の通り現在は「国道1号線」のトンネル横にあるらしい。

近くにカラーで描かれた広重の浮世絵の石碑があった。なるほど確かに「夜泣石」が道の真ん中に座り込んでいる。

その辺りから、今下って来た道を振り返って見た。浮世絵ほどでは無いが絵に近い下り坂だ。ここに「夜泣石」が無いのがとても寂しく思えた。伝説は兎も角、石があったのは事実の様だから、元の場所に戻して欲しいと思った。車が通るのに邪魔なら、横にいくらでも道を拡張出来るスペースがあるのだから、出来る筈である。そう思うのは私だけでは無いと思うのだが・・・

民家がやっと見えてきたと思ったら、坂が急になってきた。カーブも急で、「扇屋」のお客が言っていた急な坂とはこの事かと納得した。この辺りは二の曲りと言うらしい。説明看板があり、・・・「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。・・・とあった。また・・・「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で沓(くつ)を履き替え、古い沓を木に掛けて旅の安全を祈願するという古い習慣に因るといわれています。・・・とも書かれていた。

坂をどんどん下って行くと、やっと集落が見えてきたのでホッとした。また先程から車の音が聞こえていたが、その音源となっていた高架の「国道1号線」も見えてきた。坂の出口には右側に石垣と水路跡が復元されていた。そして左には「広重」の「狂歌入東海道浮世絵版画日阪宿」が看板の様に建てられていた。

そしてその先には、道の両側に「日坂宿」の屋号と思われる木の看板が6枚ずつまとめて建てられていた。(写真は道路左側の分です。)

少し左へ行った所にあった歩道橋で、県道415号線(多分、旧国道1号線と思われる。)を渡り、その近くにあった道を進むと日坂宿本陣跡の門が見えた。しかし近くにあった日坂宿のイラスト看板を見ると、歩いたルートが少し違う様だ。間違いに気が付き、もう一度歩道橋を戻り、先程下って来た坂の方から車に気を付けながら県道を直接渡り直した。そしてそのまま進むとイラストにあった常夜燈があり、本陣跡へと来ることが出来た。旧道にトコトンこだわる私である。なお、県道は車が余り走っていなかったので直接渡ったが、横断歩道が無いので歩道橋を渡るのが無難だ。


金谷宿〜日坂宿の地図