24.島田宿〜金谷宿



大井川を蓮台で渡りたい!!



2006.05.04.(木)  天気 : 晴れ
島田宿〜金谷宿の地図






さて、島田宿の本陣跡を出て、すぐ道路左側の「静岡銀行島田支店」前に俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸阯と書かれた石碑があった。「塚本如舟」は元禄時代当時、地元の有力者で芭蕉が家に泊まったらしい。そして碑には、「如舟」が詠んだ「やハらかに たけよことしの 手作麦」と「芭蕉」の「田植えとともに たびの朝起」の連句が刻まれていた。

そして今度は、少し先右手の「島田信用金庫」前にも、芭蕉の句碑があり、「駿河路や 花橘も 茶の匂ひ」とあった。

200mほど先の左手には、道標が建っていたが、「大井川渡船場」と書かれていたので、明治以降のものらしい。(写真では丁度裏側になります。)

100m先の今度は右手に大井神社があった。鳥居を潜ってみると参道の両側に「石垣」があったが、これは大井川の川越稼業の人達が毎日帰りに石を一つ持ち帰り、築いたものらしい。危険な仕事が今日も無事に終わったという、感謝を込めて積み上げたのだろう。またここには先程の鳥居の横に飛脚が奉納した「燈籠」があった。そしてここは安産の神様として有名で、奥に「帯塚」があった。

400mほど先の交差点の手前には「大善寺」があり、大井川の川止めを知らせたという時の鐘が表から見えた。中に入ってみようと思ったが、生憎お葬式の様子だったので外から写真を撮った。

600mほど歩くと道が二手に分かれていて、夢舞台東海道道標が左手に建っている。そこから旧道である左へと進んだ。すると島田宿大井川川越遺跡町並が見えてきた。江戸時代の建物が復元されており、「三番宿」の入口には、「川越し人足」の人形が腕組みをして立っていた。・・・番宿 − 川越し人足がふだん詰めていた溜り場ですが、川越制度制定当初から番宿が存在したかどうかは不明です。川越し人足は十組に分けられ、各組が一つの番宿に詰めました。川越しは各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組の人足もそれぞれの番宿で待機していました。・・・

中に入ってみると、「蓮台」などが展示されていた。
表を歩いて行くと、主に年をとった川越し人足たちが集まった「仲間の宿」。川越しを待っている旅人たちを番宿まで案内する立合人が詰めたり、川越し人足の頭が相談場所として利用した「立合宿」。そして、川越し人足が川札を換金した「札場」などが立ち並んでいた。

復元された町並みを歩いて行くと、右手に川会所が建っていた。・・・元禄9年(1696年)に川越制度が改定されてから、川役人が川越業務をおこなってきたところです。現存する建物は、安政3年(1856年)に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、昭和45年(1970年)に建立当初の位置に近い現在地に復元保存されました。なお、金谷宿側にも同様の施設があったと考えられますが、現存はしていません。・・・

無料なので中に入って見ると、「川庄屋」と「年行事」の人形があって、当時の様子を再現していた。・・・川庄屋は島田宿伝馬人の中から選出され、島田宿の組頭を務める者が兼務していました。その主たる任務は川越賃銭の統制でしたが、日々変化する水深を勘定して賃銭を決定するなどきわめて多岐にわたっていました。年行事は川越人足を勤めた者の中から、高齢となった長老があてられました。川会所に交代で勤め、川越賃銭の取立て、帳簿の記録、川越人足の区分・配置を行いました。・・・

建物内を見学し外に出てみると、敷地内に芭蕉の句碑が建っていた。句碑には「馬方は しらじ時雨の 大井川」と刻まれているようだが、ちょっと読めなかった。

「川会所」の先には八重枠稲荷神社という小さな神社があった。・・・昔、ここには大井川の「出し堤防」があり、増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定しこれを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています。宝暦10年(1760年)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも、建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。・・・

増水時に石垣と石垣の間に板を落として水害を防いだせぎ跡は、その先にあった。

左手の方に一本の松の木が植えられていた。それは浄瑠璃として上演されて大評判となった「朝顔日記」に出てくる朝顔の松だった。

堤防を越えて見ると、「大井川」が目の前に現れた。河原は「大井川川越広場」となっていて、新しい石碑などが並んでいた。

本当は蓮台に乗って「大井川」を渡りたい気分だが、現在それは無理なので、堤防を550mほど上流に向かって歩き大井川橋を渡ることとした。全長1026.4mの橋の対岸は、遙か彼方で見えないくらいだ。西に向かって左側に歩道があるので、昔の人の気分になってしみじみと渡ってみた。

川幅は、とてつもなく広いが川の流れ自体は所々という感じだ。遠くにJRの鉄橋が見え、とても良い景色だ。私の感想としては、箱根越えより大井川を渡る方がずっと楽だったんじゃないかと思えた。しかし、大雨が降りこの川幅全体に水が流れることを思うとゾッとしてきた。

延々と続いた橋を金谷側へ渡りきると、歩道右手に建つ「旧東海道」の看板に従い、左折し堤防の道路を歩いた。200mほど下流方向へ歩くと、再び「旧東海道」の案内看板があり、右折して「大井川」と別れた。

150mほど歩くと八軒屋橋があった。その手前の左手には休憩できる公園があったので小休止をした。「川越之図」や「夢舞台東海道道標」などが公園内に建っていた。

橋を渡ってから200mほど歩いたところで左折し街道を離れた。日本左衛門の首塚を見に行くためだ。250mほど狭い道を進むと右手に「首塚」のある「宅円庵」があった。・・・歌舞伎の青砥稿花紅彩画[あおとぞうしはなのにしきえ](白波五人男)日本駄右衛門のモデルにもなりました。義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。詮議の手が廻り、もはや逃げられないことを知った日本左衛門は京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され、根城としていた見付宿でさらし首になりました。金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見付宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬ったものです。・・・

この写真は、株式会社デアゴスティーニ・ジャパン様発行の「週刊 江戸」第24号に掲載されました。

「宅円庵」の横には、「大井川鐵道」の線路があり、蒸気機関車や古い車両がたくさん並んでいた。鉄道に興味があるので、ついつい見入ってしまった。

再び街道へ戻り、先ほどの「大井川鐵道」の踏み切りを渡り、新金谷駅へと寄ってみた。駅はレトロでSLの汽笛が聞こえ、煙のにおいもした。やはり観光鉄道のことだけはある、お客さんがたくさんおられた。もっとゆっくりここに居たいのだが、今日は街道歩きなので、後ろ髪を引かれる思いで街道へと戻ることにした。

川を2つ渡り、宿場内をキョロキョロ見ながら歩いて行くと、道路右手の「佐塚書店」前に佐塚屋本陣跡と書かれた木の看板が建っていた。
ところで今日は、NHKの番組「街道てくてく旅」の岩本輝雄さんが、たまたま同じ区間(島田宿〜金谷宿)を歩かれているので、途中お会い出来るかと期待していたが、残念ながら姿を見ることができなかった。もう時間も午後5時だし、今日の旅を終えられているだろう。今度草津宿に来られたときにお会いしたいものだ。

数十m先の「金谷本町」バス停前には、柏屋本陣跡と書かれた木の看板と説明看板が建っていた。ここは「JA」と「地域交流センター」の前になるが、少し整備されていて、休憩できるベンチも置かれていた。

400mほど進むと、「JR金谷駅」近くに金谷宿一里塚跡があった。このまま真っ直ぐ行くと駅の入口になるが、電車に乗るまでまだ時間があったので、「一里塚跡」横のガード下を潜り、もう少し街道を進んでみることにした。

街道はガードを潜り右折するが、曲がってすぐ左手に「長光寺」があった。お寺は少し上の方にあるので、疲れた足を引きずって境内へと入って行った。すると鐘の近くに芭蕉句碑があり、デジカメにて写真撮影をした。句碑に刻まれている句は、「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食はれけり」というもので、「野ざらし紀行」の中に一句らしい。

お寺を出て先を見ると上り坂となっていた。次回はここを上って行くのかと思うと少しイヤになってきた。もう少し時間があったので、日本最初の有料道路である中山新道を見に行ってみた。「不動橋」を越え少し上った所を右折してみると、「中山新道金谷側入口」と書かれた説明看板があり、そのまま真っ直ぐ進んで写真を撮っていた。すると近所の方が「そっちは違うよ!」と声を掛けてくれた。どうやら先程の看板近くに道が有ったらしく、今は無いらしいとの事だった。
私はその後再び来た道を戻り、「JR金谷駅」を17:44発の電車で、長駆滋賀県への帰路についた。


島田宿〜金谷宿の地図