23.藤枝宿〜島田宿



蓬莱橋は見事!



2006.05.04.(木)  天気 : 晴れ
藤枝宿〜島田宿の地図






今朝は4時に起きた。こんなに早く起きるのは今まで滅多に無い事だ。「JR草津駅」5:54発の電車に乗り、今日の旅は始まった。「JR藤枝駅」には10:25に到着し、前回終了地点の「青木交差点」を出発したのは11時になっていた。新幹線を利用していないのでとても時間が掛かった。
さて、今日はとても天気は良いが、風が強い。1km程歩いた所に、田中藩領傍示石蹟が左手にあった。・・・瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す傍示石を立てた。この傍示石は一丈余(約3m)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。・・・

200m程先の左手には鏡池堂六地蔵尊があった。堂宇の外には小さな地蔵が六つ、石に彫られていた。・・・六地蔵尊は神龍棲みし鏡ヶ池から出現したるにより鏡池堂六地蔵尊と称し駿河国24番札所第9番の霊地に指定せられ東海道を旅する著名な人々がここに立寄って祈願をされたという。・・・

その少し先右手には古東海道蹟が建っていて、細い道が残っていた。・・・この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。・・・

そしてその先左手にも東海道追分の碑もあった。・・・東海道はこの碑の所から東へ竜太(りゅうたい)寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分れる所を追分と呼んだ。・・・

5分程歩くと、松並木が見えてきた。藤枝には所々松が残っているようだ。やはり松並木があると、東海道を歩いていると実感できる。

右手の少し小高い場所に延命地蔵尊があったが、その横には綺麗な「藤」が咲いていた。(写真では分かり辛いですが・・・)やはり「藤枝」には「藤」が似合う。

その先には染飯(そめい)茶屋蹟があった。昔は名物の「染飯」が売られていた場所だ。・・・染飯とは強飯をくちなしで染め薄く小判型にしたものであったという。くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だった。・・・

左手の方には千貫堤があった。・・・慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害に悩まされた。寛永12年(1635年)田中城主となった水野監物忠善は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺)まで約360m、高さ3.6m、巾2.9mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。・・・

そして近くに瀬戸の染飯版木と書かれた杭のような碑も建っていた。版木とは印刷の元版で、染飯の包装紙の版木がここにあったのだろう。

道路右手側の少し先の方には、明治7年4月14日に開校した公立小学校の育生舎跡の石碑が建っていた。

もう少し先の今度は再び左手に田中藩領傍示石蹟がまたあった。・・・田中藩領上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銕太郎(ひなたてつたろう)の所領となっている。この標石は一丈余(約3m)の石柱で、「従是西田中領」とかいてあった。・・・それにしてもこの付近は、いろんな碑がたくさん建っている。

碑達とお別れし、歩を進める。「瀬戸橋」を松並木が残る場所を歩いていくと、左手に東海道(上青島)一里塚趾の新しい石碑と古い木の碑が建っていた。日本橋より51里目である。もう12時を少し回っていた。

やがて400mほどで、国道1号線と合流。交差点名は「一里山」である。一里山とは一里塚の別名で、私が今住んでいる草津市のとなりの大津市にも同じ地名が残っている。
そこからやく400mで「島田市」へと入った。

700mほど歩くと歩道橋が見えてくる。左は「JR六合駅」だ。ここから旧道は右斜めに分岐していた。そしてすぐ「国道」と合流し、側道のようになっている左側を少し歩く。再び「国道」と道が一本になるが、左手のお茶屋さんの前に昭和天皇御巡察之?(処のことか・・・)と書かれている石碑があった。明治天皇の石碑は見飽きたと言ったら怒られるが、たくさんあったのに、昭和天皇の碑がここにはあったのだ。ここはお茶屋さんなので、多分お茶の製造工程か何かを見に来られたのだろう。

目の前に橋が架かっている。「大津谷川」と「伊太谷川」が合流した「栃山川」に架かる「栃山橋」だ。この橋は江戸時代には土橋だったらしい。・・・「栃山橋」は土橋で、長さ17間(36.6m)、横幅3間(5.4m)、橋杭は3本立て7組で支えていました。土橋とは、板橋の上に柴(木の枝)を敷き、その上に土を貼ったものでした。・・・橋を渡って約300m先の「御仮屋交差点」から左斜めの旧道へと歩いて行き、500mほど先の右手にあった「蕎麦処細島屋」で昼食を取った。

昼食後450m行った左手の「島田信用金庫七丁目支店」前に「東海道夢舞台道標」には「島田宿」と書かれていた。そして「蓬莱橋」へ800mと書かれた案内看板もあった。東海道とは関係無いが、折角ここまで来たので見てみたいと思い、「信用金庫」の横道を入って行った。

往復1600mの寄り道だが、「見に来て良かった!」と、まず思った。目の前に木の蓬莱橋が遙か彼方(別に大げさでは無い)まで続いていた。・・・1869年(明治2年)7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。苦労の連続だったが、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。また、島田の方からも山林、原野の開墾のため出かけるようになった。そこで、島田宿の開墾人総代達は、静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。・・・

橋の近くには「世界一長い木造歩道橋」と書かれたギネスブック世界記録認定証書のレプリカが、モニュメントのように置かれていた。なお、時間的に余裕が無かったので、今回は渡ることを断念して元へと戻った。

街道に戻り350mほど歩くと、左手に刀匠 島田顕彰碑が建っていた。・・・島田の刀鍛冶は、室町時代より江戸時代末期にいたる約400年間の歴史をもち、繁栄期には、この島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。・・・

その隣に並んで問屋場跡と書かれた石碑が建っていた。

150m歩いた右手に新しい「時計台」が建っていて、周辺も最近整備されたような感じだった。

そしてその下に、島田本陣跡と書かれた看板が置かれているように建っていた。しかし時計台に比べ、余りにもみすぼらしい看板だったのでとてもガッカリした。


藤枝宿〜島田宿の地図