22.岡部宿〜藤枝宿



東海道が失われていく・・・



2006.03.28.(火)  天気 : 晴れ のち 曇り
岡部宿〜藤枝宿の地図






今日は、JRで藤枝から滋賀県の草津まで在来線を利用して帰らなければならない。時計と「にらめっこ」しながら午後は歩いた。
午後1時5分に「本陣」を出ると、すぐ民家の前の問屋場跡と書かれた説明書きの碑があった。

少し先の消防団の倉庫らしき建物から左へと入る。「夢舞台・東海道道標」が目印となっていた。
そしてすぐに用水路を蓋してあるようなものが道路上にあった。よく見ると姿見の橋と書かれており、説明書きも建っていた。・・・絶世の美人であった小野小町が晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊まった。小町はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという。・・・

道は右にカーブしていて、その先の右手に「弘法大師堂」と書かれた一見ボロ家のような建物があった。その脇に高札場跡と書かれた説明書きの碑があった。

「弘法大師堂」を出てすぐ「県道」に合流するようになっていたが、旧道はまだそのまま続くので左斜めへと進んだ。ちょっと街道を離れ、「木喰仏聖徳太子像」があるらしい光泰禅寺へと行ってみた。街道から左に入り近くにあるのかと思ったが、思ったより遠くまた木像も見ることが出来ず戻ってきた。

旧道はやがて突き当たり右折。そしてすぐ左折し「県道」を進む。すぐ右手にあるコンビニの横には、五智如来像が仲良く並んでいた。・・・宝永2年に田中城主となった内藤豊前守弌信には、上手く話のできないお姫様がいました。殿様と奥方は徳川家の奥方に「岡部宿にある誓願寺の本尊である阿弥陀さまにお願いすると良い」と教えてくれました。奥方は家老を連れてこの寺に参り願をかけました。満願の日、お姫様は自由に口がきけるようになり、数年後には立派な大名の許へ嫁ぎました。殿様は寺へ田畑を、家老は五智如来像を寄進しました。・・・

少し休憩後、「県道」を進むと道路右側に松並木が見えてきた。東海道岡部宿の松並木だ。

そして松並木の外れに「これより東海道岡部宿」と書かれた石碑があった。その先の「藤枝バイパス」の下を潜り、右斜めへと続く旧道へ入って行った。

旧道へ入るとすぐに「従是西巖村領 横内」と書かれた岩村藩領傍示杭が右手にあった。

少し先の左手には慈眼寺があり、白い塀の周りには「小字名 油街途」や「稲荷小路」等と書かれた木の標識杭が建っていた。

「慈眼寺」を過ぎ700m程で「国道1号線」を越えるが、その手前には松が残っていて、細い道は木を避けるように、まるで自動車学校のコースのようにクネクネとしていた。しかし残念ながら松が枯れている場所もあった。

「仮宿交差点」で「国道1号線」を斜めに横切り進むと、従是西田中領の石碑が建っていた。これは復元されたものらしく、本物は藤枝宿の「西益頭中学校」の正門脇にあるらしい。また近くに「史跡 傍示石跡」と書かれた木製の標識杭もあった。

旧道は、一度「国道」に近づいたが再び離れた。そして左手のアパート前に史跡 一里塚跡の木杭があった。

旧道を歩いて行き、「八幡橋」を渡った所で右折。すると草むらに埋もれた東海道の道標があった。

そのまま進むと旧東海道・鬼島の建場と書かれた新しそうな石版があり、常夜灯らしきものも建てられていた。

街道を進むと右手に神社があり、須賀神社のクスと説明された大楠があった。高さが23.7mあり、根の回りも15.2mもあるらしい。大きすぎて写真に全部収まらなかった。

旧道はこの先すぐ右に大きくカーブしているのだが、先には何か建物が建設中で行き止まりとなっていた。代わりに真っ直ぐホームセンターへと進む道ができていた。

ホームセンターで突き当たり、T字路を右折すると「国道1号線」を横切る交差点となる道が建設中だったが、おかげで松の木が残っている旧道が分断されていた。土地区画整理のためのようだが、街道ウォーカーにとっては身を切られる思いだ。時代の流れには逆らえないが、少しでも昔の姿を残しておこうと思い、工事中を物ともせずシャッターを押し続けた。

しかし、大正3年と読める道標らしきものが、新しい道の歩道に建っているのを発見!少しでも昔のものが残されるのを見て、少しホッとした。

新しい道から「水守交差点」までは旧道が残されていて、「国道」を斜めに横切り先へと進んだ。すぐに東海道藤枝宿東木戸跡の少し立派な!?木柱碑があった。

近くには、千葉県の「成田山新勝寺」の末寺となる成田山新護寺があった。

少し雲が多くなってきた空を気にしながら、800m程「藤枝」の町中を歩く。すると街道左手の「小川眼科」前に白子由来記と書かれた石碑があった。ここは、私の実家は三重県にあるが、その三重県の鈴鹿市白子(しろこ)に関係があるらしい。・・・徳川家康が堺から京へ行く途中、本能寺の変があった。岡崎へ逃げ帰る途中に伊勢の白子で家康をかくまった孫三は、お供をし更に駿河までやってきた。孫三は家康を助けたため伊勢に帰れなくなり、家康にこの地に住むよう勧められ、地名を故郷と同じ「白子」と呼ぶようになったらしい。・・・

300m程進むと右手に、田中藩主の本多氏の菩提寺である「蓮正寺」があり、そのとなりに松の木と共に秋葉山常夜灯があった。本体の下部は、小さな足が4本付いている少し変わった常夜灯だった。

500m先の左手奥には「大慶寺」があり、日蓮上人お手植えと言われる久遠の松があった。

いつものように本陣跡を探しながら歩いた。「大慶寺」から150m進んだ右手歩道上に上本陣跡と書かれていた。本陣跡は洋品店となっていて、歩道上にある本陣の案内イラストをデジカメで撮ろうとしたが、丁度その上に自転車を止めながら店先に吊ってある洋服を真剣に見ているご婦人がおられた。無理を言って避けてもらい、やっとカメラに収めた。ご婦人はそのまま立ち去られたので、洋品店の商売の邪魔をしてしまったかも!?

洋品店の隣と細い道路を隔てた交番前には、問屋場跡の絵が同じく歩道上に描かれていた。つまり交番が「問屋場跡」のようだ。

150m程進んだ右手奥には「正定寺」があり、枝張が東西11.5m、南北14mの立派な本願の松があった。・・・享保15年(1730年)に田中城主土岐丹後守頼稔が植えたと伝えられている。丹後守は境内の弁天堂に祭られている弁財天の信仰が篤く、大阪城代に登用されるに当り報恩謝徳のために植えたといわれ、別名を延命の松という。・・・

街道に戻り200m程で瀬戸川に架かる勝草橋が見えた。・・・勝草橋の名前の由来は二つの説が伝えられている。一つはむかし田中城の兵が付近の河原で合戦して勝利を得たことから、勝軍(かちいくさ)橋といっていたのが縮まって、勝草橋になったという説である。もう一つは志太という地名が植物のシダ(羊歯)の読みと同じで、シダの異名を勝草と称することから志太橋という意味で勝草橋になったという説である。・・・

「藤枝宿」は「勝草橋」辺りまでだが、帰りの電車に乗る「JR藤枝駅」はまだ先だ。橋を渡ると「常夜灯」と共に「東海道一里塚蹟」と書かれた石碑があった。志太一里塚蹟だ。江戸から丁度50里となる場所だ。ただフェンスで囲まれているのは、ちょっと残念に思った。

「下本陣」はとうとう分からなかったが「本陣」と言う名の八百屋さんが右手にあった!まー、「下本陣」の代わりと言うことにしておこう。でもどうして「本陣」と言う屋号なのか???後で思ったが、店に寄って聞いてみれば良かった。
900m程歩くと「国道1号線」。五叉路の「青木交差点」を左折(左へ数えて2本目の道)し、駅方向へ歩く。雨がパラパラと降ってきた。日が差しているのにと空を見上げたら、すぐ止んでくれた。そして駅直前で左折し、午後4時に「スーパー銭湯 藤乃花湯」に到着。汗とホコリを流し、今日の疲れを取った。午後5時半頃銭湯を出て「JR藤枝駅」から在来線で滋賀県の「JR瀬田駅」に着いたのは、午後10時半を過ぎていた。


岡部宿〜藤枝宿の地図