21.丸子宿〜岡部宿



山の中に何故か傘が・・・



2006.03.28.(火)  天気 : 晴れ のち 曇り
丸子宿〜岡部宿の地図






バスで昨日の最終地点まで戻り、丸子橋を渡って出発した。今日は天気が良いから、無事峠も越えられそうだ。

旧道は左にカーブし、右手に丸子川が近づいてくる。途中学生さんが20人程でランニングをしていた。若い人は朝から元気だ。
900m程で一度「国道1号線」に近づくが、側道の様な道を進むと国道から少し離れ、日本の紅茶発祥の地と書かれた、「丸子紅茶」があった。紅茶もやはり日本茶で有名な静岡県で始まったみたいだ。

しばらく歩くと国道へ、そこにある歩道橋を渡り今度は国道右側の旧道を歩く。すぐまた国道に出るが、ガソリンスタンドの裏側の旧道を歩く。そしてその先にあった歩道橋を再び渡り、国道の左側を歩いた。左手には「東海道」は別に「宇津ノ谷峠」を越えるつたの細道の入口があった。

国道の方は、この先宇津ノ谷トンネル(写真には写っていないが、車が頻繁に走っていた。)となっているが、「道の駅」があり、そこで休憩を取った。そしてトンネル手前に見える陸橋を渡り国道右手の方へと進んだ。

「旧国道1号線」と思われる道は、車の通りも少なくひっそりとしていた。そして「宇津ノ谷峠」の地図が書かれた看板がある左の旧街道へと歩いて行った。旧道には道路用のブロックが敷かれていた。

間の宿であった「宇津ノ谷」は、昔風の家が建ち並び、屋号の札があちこちに掛かっていた。歩く旅人にとって、とても心地良い雰囲気だ。

右手に秀吉からお羽織を頂いたという石川家があった。・・・天正18年(1590年)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。・・・

その先は右折せず、旧道は前に続く階段を上ることになる。階段を上ると左折し右にカーブしていた。

すぐ先の三叉路をそのまま進めば東海道だが、左へ戻るよう曲がると煉瓦造りのレトロな明治のトンネル(明治9年開通)があった。読み辛いが、トンネルの上には確かに「宇津谷隧道」と書かれていた。

街道に戻り進むと左手に気を付けていないと通り過ぎてしまいそうな「旧東海道のぼり口」と書かれた小さな看板あり、細い山道となっていた。いよいよ峠越えだ。

上ってすぐ左手に、小さな「馬頭観音」があり、そこを過ぎると左に今歩いてきた「宇津ノ谷」が見える景色の良い所があった。景色を見ながら息を整えた。

その先も山道が続く。まるで子供の頃、伊賀の実家裏の山を探検に行った時のような場所だ。

右手に雁山の墓というのがあった。・・・俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、甲府と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めました。享保12年(1727年)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられています。・・・しかし雁山は生きていて明和4年(1767年)に甲府で没したらしい。

急な坂道を、息を切らせながらどんどん上ると、右手の突然立派な石垣が見えてきた。峠の地蔵堂跡の石垣だ。・・・この石垣は、江戸時代中(18世紀末)ごろ、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂(石垣上)を構える際、平らな土地を確保するために積まれたものです。石垣は二段構えで総高約7m、最大幅約12m。石材は、すべての箇所で横幅が縦幅より長い「平置き」の積み方を施しています。・・・

街道は石垣の前を回り込むように地蔵堂跡の横を通っていた。・・・「峠の地蔵堂跡」は、平成12年度に実施された発掘調査の成果に基づいて整備されています。発掘調査によって、この平地には、地蔵を祀っていた建物跡と考えられる痕跡が2箇所検出されました。整備されている地蔵堂の位置は、谷側の石垣を築き、この平場を広くした時点で建てられた地蔵堂を示してあります。大きさは約5m四方だったことがわかりました。これとは別に、約2m四方の建物跡が検出されましたが、石垣が築かれる前に造られた祠(ほこら)の跡と考えられます。なお、峠の地蔵は明治42年に慶竜寺へ移されました。・・・

なおこの地蔵堂前は、江戸時代末期の歌舞伎脚本作家「河竹黙阿弥」作の「蔦紅葉宇都谷峠」というお芝居の舞台となっていたらしい。・・・盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得されるために身売りをして用立てた百両を持って京に上る。一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが目的を果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。この3人が同宿したことが、惨劇な結末への始まりとなる。文弥の百両ほしさに十兵衛が文弥を殺害してしまう芝居の山場、「文弥殺し」の舞台がここ延命地蔵堂前である。・・・
しかしその説明看板の前に、傘が立ててあった。これはいったい何なの???たった一人で山の中。芝居とは言え人殺しの話を読んだ後、不気味な傘が見て少し背筋が寒くなってきた。

足早にその場を後にして先に進むと、すぐ峠が見えホッとした。この先は下りだから何かあっても走って逃げられるからだ。山道は一人でも大丈夫だが、あの傘は気持ちが悪い。早く人里のある所まで下って行きたいと思った。

下って行くと何やら変な場所に出てきた。左側に広い道が通っているが、旧道とその間は石垣が積まれ偽木(ぎぼく)の柵があった。つまり柵と杉林の隙間が東海道なのだ。

この写真は下から見上げたものだが、様子がよく分かると思う。近くに説明が書かれており、どうやら宇津ノ谷トンネルの管理道を造ったため、旧道を削り取られたようだ。しかし、今まで歩いた東海道の中で、一番幅が狭い場所だった。

舗装された広い道をどんどん下って行く。すると左手に髭題目碑が建っていた。・・・碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。このような髭題目碑は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである。・・・

更に下って行くと、右手に坂下地蔵堂(延命地蔵尊坂下堂)があった。・・・建立年代、建立者は不明ですが、元禄13年(1700年)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の3人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立しました。・・・また伝説では、地蔵様が子供になって、動かなくなった牛の鼻を取って農夫に代わり動かしたという事で、「鼻取り地蔵」とも呼ばれているらしい。

「地蔵堂」の先は「国道1号線」になっていた。丁度お昼前だったので、道路右側にある「道の駅」で軽く食事を済ませた。旧道はすぐ目の前にある歩道橋辺りから右へと入っていた。1km程歩くと左の大きな道(県道208号線)と合流、どうやら「旧国道1号線」のようだ。道は広いが車が少なくとても歩き易かった。少し先には「岡部宿」と書かれた看板があり、無事「岡部」に到着した事を教えてくれた。

その近く右手上の方には十石坂観音堂があった。

400m程先で右の旧道へと入った。すぐの所に笠懸松(かさかけのまつ)と西住墓(ざいじゅうのはか)の説明書きが建っていた。話としては、西行と西住が東下りの途中、揉め事に巻き込まれ、師である西行に暴力が振るわれたのに我慢できず、西住は相手の武士を杖で殴ってしまった。しかし西行は西住を破門してしまった。西住は師を慕って後を追ったが、岡部で病に倒れ、最後に体を休めた松の木に辞世を書き残した笠を懸け、帰らぬ人となった。東国よりの帰途にその笠が西住のものと気づき、行き倒れたことを知り、深い悲しみに陥った、というものだ。・・・「笠はあり その身はいかに なりぬらむ あはれはかなき 天の下かな」「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある。・・・

旧道は突き当たりを左折し、「岡部川」を渡り再び県道に合流した。少し先の左手に柏屋歴史資料館があった。中には入らなかったが、店先には弥次さん喜多さんの人形が座っていた。しかしその後ろに大きな雛人形が座っているのは違和感があった。

すぐ先には岡部宿本陣址があり、わずかに門だけが残っていた。その裏は公園のようになっていたので少し休憩した。


丸子宿〜岡部宿の地図