20.府中宿〜丸子宿



とろろ汁、食べれば良かった・・・



2006.03.27.(月)  天気 : 晴れのち曇り
府中宿〜丸子宿の地図






江川町交差点まで行き、近くの「新静岡センター」で昼食。昼食後近くのお壕を見に行くと、桜が咲いて綺麗だった。

再び江川町交差点に戻り、東海道の旅を再開。南側にある一つ目の信号(呉服町交差点)を右折。ここは呉服町通りで、「静岡伊勢丹」で左折するが、そこには札之辻址の石碑があった。・・・ここは徳川時代に法令や掟書を掲示した高札場の址である。・・・
「国道362号線」を越えてから分からなくなり、地図を持ってウロウロしていると地元の方に声を掛けられ、「旧道が分からなくなった」と言ったら、わざわざ家から古い地図のコピーを持って来てくれて説明してくれた。結局国道から2本目の細い道を右折すれば良かった様だ。そして2筋目を左折して真っ直ぐ進んだ。いい加減な旅人は、親切丁寧な地元の方に支えられ無事迷路を脱出した。

旧道をそのまま真っ直ぐ1.2km程歩いた。そして旧道は「安倍川」の手前で「県道208号線」と合流するが、その地点に公園があった。そこは「安倍川の川会所」があった場所で、それ以外にも沢山の史跡があった。まず安倍川架橋の碑が目に入った。・・・この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治41年に建てられたものです。・・・と説明されていた。

そしてお馴染みの明治天皇御小休所阯の石碑があったが、物置の横に置かれているし、斜めっているし、邪魔物扱いの様に思えた。

静岡「葵」博に建てられ、東海道宿駅制度400年を記念してこの場所に移築されたらしい冠木門もあった。・・・冠木門は、寺社や宿場の出入口、関所などに広く用いられたものです。・・・

その他には、由井正雪公之墓もあった。木々に囲まれているので、車に乗っている人は全然気が付かないだろうと思った。
その後少し休憩をし、一里塚を探しに行ってみた。一里塚は「県道208号線」にあるらしいので少し戻って目を凝らしてみたが、とうとう分からなかった。でも、どうして旧東海道じゃ無い場所に設置されているのか不思議でならない。

公園の先には、安倍川餅を売る「石部屋」があった。買ってみたかったが、次の日も歩くので餅が硬くなるだろうと思い、そのまま素通りした。

そして、その隣には、安倍川の義夫の碑があった。・・・紀州の漁夫が仲間と貯めた大金を持って、安倍川を渡ろうとしたが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、財布を落としてしまった。たまたま、近くにいた人夫の喜兵衛が財布を拾い旅人のあとを追い、財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当り前の事だ」といって、受け取らないので、奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。・・・この碑は、その正直者の川越人夫の顕彰碑として建てられたものらしい。

碑の先には、もう一軒「安倍川餅」を売る店があり、そして安倍川橋が待っていてくれた。この橋も長い。高速で走る「新幹線」に乗っていても、鉄橋を渡るのを充分認識できる川幅がある川なのだ。

500m程の橋を渡り、1km程歩くと「手越原交差点」で「国道1号線」と合流する。そして250m程先の「佐渡交差点」で左折。旧道は途中で右にカーブ。右手の「静岡丸子郵便局」を過ぎると一里塚跡碑が舗道上にあった。

道が細くなり、左手石段上に赤い鳥居が見える「水神社」を越え、さらに進むと明治天皇御小休所阯があった。

その先には、史跡丸子宿本陣跡の新しそうな石碑が建っていた。

更にその先にも明治天皇御小休所阯の石碑が建っていた。「宇津ノ谷峠」を控え、また越えてきた後なのか、いつもこの辺りで休憩をしたのだろう。

今度はお七里役所と書かれた石碑があった。紀州徳川家が、江戸おもての情報を得るための中継基地的存在として、江戸から紀州まで七里ごとに置かれた役所らしい。
それにしても、ここ丸子は現在田舎なのに沢山の石碑が建っている。「江尻宿」も見習ってほしいと思った。

少し先の左手に「丸子橋」が見えてきた。そして右手には「広重」の浮世絵そのままと言っていい程の丁子屋が見えてきた。夕食時間には、まだ早いので外からの写真撮影だけにした。しかし風情があっていいお店だ。
そして店の向側の説明書には、この付近に「西見付」があったと書かれていた。

お店の周りには、「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」と刻まれた芭蕉句碑があった。

そして十返舎一九 東海道中膝栗毛の碑も建っていた。

また、駿府城の石垣になるはずだった石もあり、辰石と名付けられていた。・・・丸子舟川より運びだされたが、370余年目前の旧東海道の下で眠っていたものを丙辰(1976年)正月電話ケーブル埋設事業の際堀り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇った丸子の縁起ものとして辰石と名付けました。・・・

そして川沿いには、「細川幽斎」の丸子川の碑というのも建っていた。

東海道は「丸子橋」を渡って行くが、そのまま真っ直ぐ行くと連歌師「宋長」ゆかりの「吐月峯柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)があるらしいが、右手にとても古そうな道標が建っていた。先程の説明書きに、・・・明和元年(1764年)に建立され、元は別の場所に建てられていたものと考えられます。・・・とあった。
空は朝の快晴とは違い、黒い雲が出てきた。明日は峠越えがあるので天気を気にしながら、「丁子屋」裏手になる「国道1号線」の「丸子橋入口」バス停からホテルがある「静岡駅前」へとバスに揺られて戻って行った。


府中宿〜丸子宿の地図