江尻宿〜府中宿の地図 |
朝8:35にホテルをチェックアウト。「JR清水駅」の南側に行って見ると、建物らしい物が何も無い。そのまま海の方へ歩いて行き、清水港を見に行った。写真は逆光のため写りが悪いが、晴天で波もそれ程無く、いい一日になる様な気がした。
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また静岡鉄道の「新清水駅」まで歩き、「狐ヶ崎駅」から昨日の続きを9:20から歩き始めた。 駅前の旧道から約200mで上原子安地蔵堂に着いた。この小さな地蔵堂は歴史の舞台となっていた。・・・永禄11年12月(1568年)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本体の武将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。次いで天正10年2月(1582年)徳川家康が、武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。・・・なおこのお堂は、本尊と共に明治24年に何者かの失火により、一度焼失しているらしい。
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そこから600m程で県道407号線と合流。すぐ先の右手の「ショッピングセンターいやま」の前に草薙一里塚の石碑が建っていた。
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県道を900m程歩くと左手に大きな鳥居が見えてきた。草薙神社の鳥居だ。しかし、神社は1km以上先の様だ。
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私はそのまま約1.7km県道を進み右折、「静岡鉄道 県総合運動場駅」で休憩できないか一度寄って見たがそれらしい所は無く、県道左手にある「草薙総合運動公園」へ行ってみた。休憩ついでに静岡草薙球場などを外から見て歩いた。 (ちなみに鳥居から「県総合運動場駅」付近までは、私が参考にした「誰でも歩ける東海道五十三次」(日殿言成氏 著)の地図の県道を歩くルートだが、(社)中部建設協会に依る「東海道さんさくマップ」では、鳥居の約250m先を左折し、県道の一本左の道を進んで「草薙総合運動公園」へと進んでいる。)
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休憩後「静岡鉄道 県総合運動場駅」へ向かい、駅一つ手前の道を左折、「静岡栗原郵便局」の前を通ると「JR東海道線」の線路際へと出た。そこには、旧東海道記念碑が建っていた。旧東海道は、昭和37年に国鉄操車場が建設されたため分断されたらしい。
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その近くに 北村地下道と言うのがあり、そこを通って線路の反対側に出た。地下道の入口は車1台分の幅だが、地下で2台分の幅があり交わせる様になっていた。そのため地下に下りてくる車は、軽くクラクションを鳴らしていた。
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トンネルを潜り左折。すぐ右斜め前方へと旧道は続いていた。道の分岐地点から約500mで「国道1号線」に出た。その場所から200m足らずで「長沼交差点」があり、ここも右斜め前方へと進む。しばらく歩くと左手民家の前に長沼一里塚阯の石碑があった。
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「静岡鉄道 長沼駅」前を過ぎると旧道は線路と平行していた。途中踏切があったが、フェンスで渡れなくなっている場所があった。ここは、開かずの踏切か???線路の反対側を見ると空地になっていたので、おそらく工場が取り壊されて踏切が不必要になったのだろう。
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旧道を進むと再び「国道1号線」へ。旧道はそのまま真っ直ぐらしいが、行き止まりなので国道を歩く。400m程で「静岡鉄道 柚木駅」前で左折し、「JR」のガード下を潜る。そしてすぐまた道路を潜るが、階段を上りその道を右へと進んだ。そこから500m程で左手に曲金(まがりかね)観音堂があった。ここは鎌倉幕府を追われた梶原景時一族が討死にした霊を供養するために建てられたものらしい。お堂の前にベンチがあったので少し休憩をした。時刻はちょうど12時だった。
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15分程休憩し、再び「JR」のガード下と「国道1号線」を右斜めに進む。しばらく歩き広い通り(つつじ通り)を渡ると、左手に久能山東照宮道と書かれた石碑があった。この碑右側の道から「久能街道」が始まっていた。・・・久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには、300年にわたる平和な江戸時代を開いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えていたからです。・・・
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道路向かい側には花陽院門前町(けよういんもんぜんまち)と書かれた石碑があった。・・・町名の由来となった玉桂山華陽院は、元来智源院と呼ばれ、松平竹千代、後の徳川家康公が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られています。・・・
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250m程で左手に本陣脇本陣跡(下伝馬町)があった。・・・府中宿には、上伝馬町と下伝馬町に本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ設けられていました。下伝馬町の本陣は、下本陣と呼ばれた小倉家、脇本陣は平尾家でした。・・・
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少し先右手にも、本陣脇本陣跡(上伝馬町)があった。・・・上伝馬町の本陣は、上本陣と呼ばれた望月家、脇本陣は松崎家でした。・・・
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そしてその先には西郷山岡会見之史跡があった。・・・慶応4年(1868年)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮たるひと親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において、15代将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。・・・ 時計を見ると13時前になっていた。ここで一旦旅を中断し、昼食を取る事にした。
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