18.興津宿〜江尻宿



本陣の場所が分からない!!



2006.03.26.(日)  天気 : 曇り
興津宿〜江尻宿の地図






「本陣址」を出て500m程進むと、清見関跡傍示杭礎石が右手にあった。「清見関」は白鳳年間に設置されたという。また「傍示杭礎石」は徳川時代、興津代官領と清見寺領の境にあったものだ。

また、その上には、河村孫太郎墳というのもあった。(どんな方かは分かりません。)

街道の少し先左手には大正天皇在東宮海水浴御成道と書かれた石碑があった。「東宮」と言うのは、現皇太子では無く、大正天皇の事らしい。

また、右を見ると立派な清見寺があった。ここには、家康が接樹したと言われる「臥龍梅」や天明年間に造られた「五百羅漢石像」もあるが、私は梅をチラッと見ただけで境内から下りてきた。

近くには、高山樗牛(ちょぎゅう)假寓之處と書かれた石碑もあった。高山樗牛は明治時代の文芸評論家で、この付近の風景を好み仮寓(仮住まいのこと。)したらしい。そしてこの地で「清見寺」の鐘の音を聞いたという。

「清見寺」からしばらく歩くと「静清バイパス」を潜るが、ここで「波多打川」を渡り左の旧道へと入る。突き当たりを右折し、JRの踏切を渡る。そして1号線に再び合流。その途中に瓢箪を軒先に干している家があった。珍しかったのでデジカメのレンズを向けた。

合流地点から約350mで東光寺と言うお寺があった。ここの本尊は「行基」が作ったと言われる「薬師如来」だ。ここからは、しばらく1号線を歩くことになる。

「東光寺」から約1.6km程の「辻町交差点」からは二又に別れた右の旧道を進むが、分岐点にほそいの松原の説明看板と無縁さんの碑があった。・・・ほそいの松原=樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門が工事奉行に任命され街道の両側に松の木を植えた。慶長17年(1612年)に完成し、松原の全長は199間2尺(約360m)松の本数は206本あった。無縁さんの碑=松並木は太平洋戦争のため、昭和19年(1944年)松根油(航空機燃料)の原料として伐採された。この折多数の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察され、町内の人々は松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。・・・

「辻町交差点」から10分近く歩くと(私の遅い足で・・・)、一里塚跡と書かれた説明書きがあった。「辻の一里塚」と呼ばれていた所だ。しかし、紙にワープロ書きの看板では・・・「生き活き街づくり辻の会」の方達が頑張って作られた物のようだが、市も折角の観光資源なのだから、もう少し手助けをしてせめて鉄板の看板にして欲しいものだ。

旧道を進む、左折すればすぐ「JR清水駅」の国道1号線を越える。しばらく歩くと右手に「清水江尻郵便局」があり、すぐにある次の信号を右折する。ここは「清水銀座商店街」で左手少し前方に「夢舞台・東海道の道標」があり、江尻宿と書かれていた。

「本陣跡」を捜しながら歩くが分からない。300m程で旧道は左折するが、その手前に「江尻宿」を説明した看板があり、本陣が3つあった事が分かる。「羽根本陣」は一つ手前の信号の左手、道路になっている所らしい。また「寺尾本陣」は少し先の同じく道路左手の写真に写っている付近のようだ。

また「橋本本陣」は右手前方の写真の場所のようだ。何も看板や目印が無いから、間違っているかも知れない。

先程の看板の先を左折すると橋が見えた。この橋は稚児橋と言い、慶長12年(1607年)徳川家康の命により架けられたものらしい。・・・この橋は、江尻宿にちなみ江尻橋と命名される予定だった。しかし渡り初めに選ばれていた老夫婦が橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れ、橋脚を登り入江方面へ消えていった。このことから橋名を童子変じて稚児橋と名付けたといわてれいる。なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。・・・

河童伝説のある「稚児橋」の四隅にはそれぞれ違った河童の像があった。

、橋を渡った右手には「船高札」あったらしく。また左手には、河童のこしかけ石というものがあった。・・・平成3年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、五つの石が掘り出され、誰言うとなく、稚児橋のかっぱ伝説にちなみ「河童のこしかけ石」と呼ばれる様になりました。これらの石は、駿府城を築くため、石垣の石を伊豆から運んだとき、巴川に落ち、そのままになったものと思われます。・・・

橋を渡って約200mで五叉路になっていて、そこを右折して進んだ。そこからまた200m程進むと右手に江尻宿木戸跡と書かれた石碑があった。ここは「西木戸」になり、「江尻宿」もここで終わりだが、もう少し先まで歩くことにした。

600m程歩くと左手に立派な道標があった。清水道道標だ。道標の建っている所には、「追分羊かん」の店があり、創業は元禄8年(1695年)らしい。
ちなみに羊かん店の150m程手前左奥にある「清水入江小学校」は、「ちびまる子ちゃん」の原作者「さくらももこ」さんが通っていたらしいが・・・

さて話しは戻って、羊かん店から200m程先の右手には、赤いノボリが沢山立っている延寿院不動堂があった。・・・寛文8年(1688年)に大内霊山寺の旧本堂を移築したものと伝えられ、当初は茅葺の屋根でした。昔から、東海道を行き交う通行人や郷人(さとびと)の憩いの場、願所として親しまれ守られています。・・・

そして左手には都田一家諸精霊供養塔が建っていた。浪曲などでは、清水の次郎長の子分である森の石松が都鳥一家の殺され、次郎長がその仇を討ったとされている。・・・文久元年(1861年)正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。・・・

すぐ先にある「金谷橋」を渡り、150m程先の信号で街道を離れ右折。約70m先の右手に池があるが、姥ヶ池と言うらしい。・・・1200年ほど昔、この池のあたりに金谷長者というお金持ちが住んでいました。ある年にひどい咳が流行して、長者の子も患いました。乳母は弁財天に祈願して小児の代わりに池に入水して死にました。これにより小児の病はよくなりました。長者は乳母に感謝して池にふちに社を建て霊を祭りますと、池の底から泡が出始め、「姥かいな」と呼べば泡が出ては淋しく消えていくようになり、「姥ヶ池」と呼ばれるようになりました。・・・

再び街道へと戻り、先へ進んだ。少し先の「JR」と「静岡鉄道」の踏切を渡り450m程歩くと、久能寺観音道と彫られた石の道標があった。「安永7年」とも彫られていたので、西暦1778年のものだ。
近くに「静岡鉄道 狐ヶ崎駅」があったので、今日はここまでとした。「新清水駅」まで電車にゆられ、少し遠かったが昨日泊まった「シーグランデ清水ステーションホテル」まで歩いて戻った。


興津宿〜江尻宿の地図